おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

638_ひしみー060

06 「出世間(しゅっせけん)」をした沙門(しゃもん)ガウタマ

・悪魔から誘惑されたイエス

ちょっとクドくて申し訳ないのだが、前回の続きになる(かなりの意訳や改変あり)。

ことのあらましは、
長期間( 40 日間 )の荒れ野での断食後の空腹に違いがないはずの、
エスの前に悪魔があらわれ、
「お前は神の子だろ?
ならば、
さっさと奇跡をあらわして、
石コロ(?)をパンに変えて
食べて飢えを凌げ(しのげ)よ。
そして、
空腹を満たしたらどうだ?」
と奇跡を行うことを
そそのかす(?)内容だった。

ひろさんは、これでは即物的(つまり、あまりにも直接的過ぎてはしたない、という意味なのだろう)だから、餓えた人々にパンを与える話に置き換えていたが。

この話について、ひろさんは、
「人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る 1 つ 1 つの言葉で生きる。」(旧約聖書申命記 (8) の言葉)
という、
エスの応答は実に見事だ、
感心せざるを得ない、
とさかんにほめ称(たた)えていた。

そして、宗教家の政治家との一線の画す、かかわらないあり方を支持するような形になっていた。

しかし、申し訳ないのだが、私にはあまりピンと来ないんですよねえ。

個人的には、以下のように再解釈し直したいと思います。

まずは、困っている人を救う場合、それも危機緊急を要する場合でも、場当たり的に何でもかんでも救うやり方は、神様のやり方とはならないのではないか、ということが言えると思います。

人を救うにしても、それなりの時間を取り、二度と同じことを繰り返さないように、場合によっては同じ轍(てつ)を踏まないように、そのように人を正しい心の持ち方や方向に確実に導き上げるべき必要がある、ということです。

極端に言えば、仮に万引きなど他人の物を盗むといった日頃の素行が良くない人間が、たまたま飢えている時に、安易に飢えを凌(しの)がせる、パンを与えてしまうのは、本人の魂の正しい導き方にはならない、といったようなケースです。

相手の状況や魂といった心の持ち方、そうしたある程度の期間を見越して最終的に必ず良き心の持ち方に導くことができる場合のみに、しかるべくパンを与える。

こうした場合に、正しく最適な判断を下すためには、他心通や(他人の過去世を見通せる)宿命通が、当然に必要となります。

その上で、人格が整っていなければなりません。

つまり、神通力は決して見せびらかすものではない、お釈迦さんのような宗教指導者でないと、正しい使いこなしは難しい、ということです。

それ以外は、神様(神様はこうしたことをはじめとしてすべてお見通しでわかっているから)からご指示がない限りは、奇跡を起こしてパンを与えることはしない、となるはずです。

そして、霊感や透視などもそうですが、一般的に私達ほとんどの唯物論者から見て、奇跡とされるものをあらわす能力をそなえていたにしても、これ見よがしに、やみくもに使ってはならない、ということです。

よって、心の持ち方や魂の正しい導きから考えて、この人間には奇跡を起こすべきだ、と判断される場合以外は、こうした力はみだりに公(おおやけ)に用いてはならない、ということ。

お釈迦さんが、三迦葉(さんかしょう)の三兄弟の長男優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)を神通力競争を用いてお弟子さんにした話にあるように、必要がある時以外は、奇跡は見せないのが、正しい宗教指導者であり、教祖のあり方だと思われるからです。

まあ、こうしたことを勝手に当てはめて、先の話の理由づけにしたいと個人的には考えます。

つまり、
すべては状況次第であり、
個々のケースでどのようにすべきかは、
あくまでも神様にお伺い(うかがい)を立て、
神様がご判断すべき事柄であり、
もしも、
神様のご判断の全権が
エスさんなりに委ねてあるのならば、
エスさんが判断すべきである、
となるはずです。

あくまでも理屈の上からだけですが、
以上のように考えられます。

なぜ、こんなことを、
キリスト教が好きな人や、
エスさんが好きな人や、
聖書が好きな人に、
水をさすようなこんなことを、
あえてわざわざ言うのか、
というと。

何でもかんでも、すべては過去の聖なると(される)文書次第では、物事を判断するに当たり、教条主義に陥る可能性を否定できないからです。

エスさんは、多分、あのケースですべてにわたって全体の状況を俯瞰(ふかん)した上で、たまたま、状況に合致するあのような言葉を用いた。

しかも、神様から判断の全権を委任されていた。

たまたま、あのケースが、神様のみ心に、適う(かなう)ものであった、ととらえる方が、柔軟性があり、無難だ、と考えられるからです。

というのも、聖書には残虐な話がいくつもありますが、わけてもキリスト教には中世の魔女狩りという、絶対に忘れることのできない悲惨な歴史的な事実を起こした過去があるからです。

心のままに・・・。

神様に完全に任せきる、み心のままに、というのは、仏教の浄土門の敬虔な信仰者と言うべき、妙好人の、源左さん、才市さん、宇右衛門さんのような信仰の仕方をいいます。

自らにこの世の上で、都合の良いことも、悪いことも、すべてはみ仏(神様)が、罪悪深重の凡夫としての至らない自分をみ仏(神様)の子として救いとって下さるためのおはからいだ、と身の回りに起きてくるあらゆることを感謝一念で生き抜くこと。

この世の利害得失計算ではない、霊なる人間としての自分に対しては、み仏(神様)は絶対に悪いことはなさらない、という(常識的であろう、世間一般的な唯物論の思考に染め上げられてしまっている私達には到底理解することのできない)きわめてあつい信頼感がある訳です。

これが、本来の、み心のままに、という生き方になるはずです。

私の個人的な感想ですが、浄土門妙好人の敬虔な信仰者の人達の話は、聖書とは明らかに趣が違うと感じます。

ちなみに、先のイエスさんに対する悪魔の誘惑の話ですが、こうした妙好人の素直で敬虔な信仰を踏まえると、次のように言うことができます。

あの場合、悪魔は、いわば、イエスさんに対して、軽々しく挑発した訳です。

どや?ハラペコやろ?
はよ超能力使ってみいや!

と。

こうした、俗物的で、軽々しい、いわば、軽佻浮薄な煽りには、妙好人の人達は無縁です。

彼らは、赤子のように素直にみ仏を信じるだけで、ああした悪魔のあらわれさえも、ああ、ご苦労様、み仏の一種のお遣い(つかい)として、感謝さえもするかもしれない。

まあ、キリスト教というか、イエスさんに心酔する人は、ああした軽佻浮薄な悪魔の煽りには、イエスさんのかたい信仰はびくともしない、と喜びたがるのかもしれませんけどね。

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・凌ぐ~しのぐ~①困難な場面を何とか乗り越える。つらい思いに耐えて克服する。我慢する。また、防ぐ。
(用例)寒さを凌ぐ。
②困難を切り抜ける。乗り切る。
(用例)急場を凌ぐ。
③数量・程度などが他より勝る。
(用例)前年を凌ぐ応募者数。力は先輩を凌ぐ。
ここでは、②の意。

・そそのかす~誘いすすめる。特に、おだてて悪いことをする気にさせる。

・端ない~はしたない~慎みがなく、下品だ。無作法である。いやしい。

・称える~たたえる~ほめあげる。称揚する。称賛する。
(用例)優勝を称える。

・轍~てつ~①車輪が通った跡。わだち。
②(比喩的に)先人の行ったあと。先例。

・轍を踏む~前の人の失敗をそのまま繰り返すたとえ。

・俯瞰~ふかん~高い所から広く見渡すこと。

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①追記: 2022/01/03 00:06
②追記: 2022/01/03 06:03
③追記: 2022/01/08 05:16
④追記: 2022/01/08 05:20
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。