おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

356_法話50-41

41. 自分を拠り所とする

自分こそ自分の救済者である。
他人がどうして自分の救済者であろうか。
自己をよくととのえることで、
得難い救済を得る。

(一六〇) (第12章 自己 より)

ちょっと思うところがあって、とりあえず、S さんのお話を一通り見た後、再度考え直す形をとります。

まず、S さんのお話(適宜、要約・改変・漢字化などあり)。

そもそもお釈迦様の教えには、誰かに救ってもらおうとする他力的なものはありません。

だからといって、お釈迦様の他の宗教と対立することはせず、相手の考え方を否定することは基本的にしませんでした。

ですが、一つだけ、真っ向から否定した教えがあります。

六師外道(ろくしげどう)と呼ばれた中の一人のマッカリ・ゴーサーラの教えです。

マッカリ・ゴーサーラは、すべては宿命だ、と説きました。

一つの原因ですべては決まる。

物事はどうせ決まっているから、何もする必要はない。

巻いた糸をほぐせば、ほぐれながら糸玉は小さくなり、ついには1本の糸となってなくなる。

そのように、人間は何刧(なんこう)くらいで玉になる。

何刧くらいで奴隷になる、修行者になる、と定められている。

このように、すべては既定のものとして、輪廻転生を通して終わっていく、という教えなのです。

つまり、そこでは、(結果として)人間の前向きな意志や努力を否定しているするのです。

この教えについて、お釈迦様は次のように述べています。

小さな小川があって、そこで網をかける。

小魚だろうが、大きな魚だろうが、ヘビであろうが、カエルであろうが、みんな網にかかってしまう。

網にかかればみんな死んでしまう。

そのように、彼の教えは人々の努力を否定して、みんなを悪い方向へ持っていってしまうー。

マッカリ・ゴーサーラの教えと同じように、他力的な考えには、人間の意志や努力を否定してしまうところがあります。

ですから、お釈迦様の教えとは違うのです。

お釈迦様は、自分以外のものに頼ってはいけない、と説きました。

スッタニパータという最古の経典には、「私は救済者ではない。指導者である」という言葉があります。

ある行者が、お釈迦様に対して「どんなに苦行をしてもたくさんの苦しみがあります。どうか、私を救って下さい」とお願いすると、「私は誰も救うことはしません。あなたが自分で真理を発見してみなさい」と言ったそうです。

お釈迦様の基本的な姿勢は、「私は道を説くけれども、それを実践するのは、あなた方一人一人の自由意志です。

自ら実践して、それを体験してつかめばよい」です。

常に自らを拠り所とするのが、仏教の教えなのです。

ちょっと考えます。

以下は、個人的な独断と偏見ですので、いろいろと異論があるかとは思いますが、ご容赦願います。

まずは、すべては決まっていることについて。

これは、ある意味、大枠において決まっているのかもしれません。

ただし、ゴーサーラの言うように、輪廻転生の上がりの終着点が様々とはならず、それなりに霊性を開発した形でのものとなる、と考えます。

この世に生を受けるということは、主として、輪廻転生での各自のあまたの過去世で行ってきた、神様のみ心にそぐわない真善美に悖る想いや行いである業想念の償いを通して、神様の分けられたお命(霊魂魄)についた汚れを落とすことで、肉体を持ちながらも、神様のみ心に沿うような想いや行いができるような人間に近づいていくための修行となるのが基本です。

言ってみれば、基本的には、修行として、この世に生まれてくる訳です。

神様は、魂(霊魂魄)を、厳しいこの世で揉まれながら、磨きあげながら、立派にするために、わざわざこの世に送り出して下さる訳です。

人身得難しのように、生まれたくても、なかなかこの世に生まれることができずに苦しんでいる存在があることからすれば、修行の機会が与えられることは、やはりありがたいことになる。

この世に生まれて、悲喜こもごも、中でも、辛いことや苦しいことを通して、魂を鍛えて立派にしていく。

それと並行する形で、神様の世界をこの世に映し出すように、この三次元の地球世界を開発していく。

こうした過程が望まれている訳です。

どうせ終着点が一緒ならば、どんな過程でもぶっ飛ばして、何も必要ない、という訳にはいかない。

皆それぞれに、最終的に果たす役どころは異なっても、千差万別以上の数え切れない履修過程があるのだから。

以前、今のように動物や植物を犠牲にしながらやっていかざるを得ない形となっているのは、神様が暫定的にこのような状況を想定していると考えられると書きました。

このように考えると、これだけのたくさんの肉体人間を、神様がこの世にあらわしている、送り出している、ということは、それなりに意味がある、と考えざるを得ないんですよ。

つまり、私達には、それぞれに、意志や努力が期待されている、ということ。

ゴーサーラのような考え、意志や努力を否定して、修行で悟れないだの、としてしまうと、行き着くところは虚無主義ですよ。

どうせなるようにしかならなねえんだから、何したって構やしねえだろう、と世の中が、各自のやりたい放題、メチャクチャのグチャグチャになることを肯定することにつながる。

あらゆるものの創造主が悪魔的なものならば、こうした考えもありなのかもしれない。

しかし、神様の存在、(時代背景もあって神様とはみなまに言わなかった)お釈迦さんのように自らの仏性=神性を信じるならば、こうした野放図なデタラメな考え方は否定せざるを得ない。

自らを拠り所とするというのは、すなわち、自らに仏性がある、神性があるということを暗黙の前提にしているととらえることができる。

そうでなければ、自らを正しく、仏性に向けて、神性に向けて、向上させていくことができないからね。

従って、私達は、自力(これは現代ではほぼ実践不可能と思われる)にしろ、他力にしろ、自らを拠り所としながら、精進していくしかない、となりますね。

普通の生活も修行の一環でしょうけど、やはり、それと並行して、守護の神霊さんが何らかの形で、信仰に導くと考えられます。

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・刧~こう~①仏教語~きわめて長い時間・年月。
囲碁で、一目(もく)を双方で交互に取り返すことができるという形。ともに一手以上他に打ってからでないと取り返せないという決まりがある。
ここでは、①の意。

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追記: 2024/04/28 01:23
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。