もはやどうにもならないか。
もうかなり前から詰んでるけど。
唯物論では弱肉強食の世は直せない。
ちょっとした小休止の好循環も滅多にこないし、長くは続かない。
悲しいかな強運強者のやりたい放題。
世の中の真実を知って対峙せよといっても、昔から悪意側が強大無比過ぎるよ。
現世だけで見れば、この世の中は矛盾だらけのデタラメに満ちている。
しかも近年はそれが著しく加速(消えてゆく姿だとしても、あまりにも・・・)。
もう、肉体人間観に染まりきった、欲望と恐怖が強固に支配する仕組みに終止符を打つには、真善美に悖らない神様にすがるしかない。
ダメなら諦めるしかない。
それでも神様を信じきるのが信仰。
自己保身と欲望の統率された巨大なヒエラルキーが聳(そび)え立ち、厭世感にとらわれる時、希望は神様にしか見いだせないからだ。
私だって自分や祖国が、そして世界や地球が、悪い運命にあるなどとは考えたくもない。
不安や恐怖に苛まれれば、神様を呪いたくもなる。
だが、もし宇宙を貫く法則として因果律を肯定するなら、神様が公正に作った規則だと認めるなら、現状にもそれなりの理由がある、という結論になってしまう。
そうなると、聖書の内容の真偽も含めてかなり広大(宇宙含む?)なスケールの時間軸の因果や、本来なら時世を越えるはずの直近の因果が発現したから、こうなっていると考えざるを得ないのだ。
真善美に悖らない神様を肯定する以上は。
悪魔的所業を糾弾し、現状を容認しないことは、因果律の結果としての今を認めないことに他ならないからだ。
あるいは、悪魔的所業はまったく因縁のないところから生じたもので、因果律の縛りは受けないものなのか?
それとも、悪魔的所業は過去世の因縁とは無関係な当事者の現世の我欲のみでなされたものなのか?
因果律の縛りを受けないとも考えにくいが、この大きな流れが欲望と恐怖の集積として単発的に生じたとも考えにくい。
やはり、ある程度の因縁因果としての結果の拘束性を考えざるを得ないのだ。
私達は、何のカルマの清算も予定されず、おもむろにこの世の中に出てくる訳ではないらしい。
現世での喜怒哀楽の体験の大半が、数多(あまた)の過去世の因縁によって規定されている、言い換えれば、運命がかなり定まっているらしいのだ。
つまり、不幸、災難、幸福も含めて、現世のかなりの部分は過去世の因縁の消えてゆく姿で、あるのは神様の御心だけになってしまうらしいのだ。
話を戻すと・・・。
真善美に悖らない神様は肯定するが、因果律を否定することは、明らかに矛盾する(神様を神サタンとしたり悪魔を認めるなら別)。
因果律を否定すれば、神様は収拾のつかない不完全な世を作ったことになり、その行く末は、神様と悪魔(的存在)との力関係次第になる。
善意の人や温良な人は、常に不安を抱え、運命を弄ばれることになってしまう。
神様は本当にそんな意地悪な存在だろうか?
違うだろう。
まあ、溜まりに溜まったカルマの総決算が、黙示録のおどろおどろしい恐怖物語や、アセンションといった夢物語(聖書も含め唯物論で突き詰めれば、まったく別の意味が出てくる)に結びつくのだろうが、終末思想は善悪二元論に他ならない。
現状の悪を実在と認め、これを滅ぼさなければ、地上天国(ミロクの世?)は来ない。
悪を抱き参らせるのも、やはり悪を認めている(ように見える)。
善と悪の戦い・・・、戦いとは、すなわち、カルマを生むもの、否、カルマそのものではないか。
今まで人類は争いのない理想郷を築けずに、いさかいばかりを繰り広げてきた。
これだけを見ると、悪魔が跳梁跋扈して神様は弱いんじゃないか、それとも、意地悪なのか、と不安になってくる。
いくら最終的には神様が勝利すると予言されても、唯物論者を含む万人に納得のいく保証や証拠があるものでもない。
ここが問題だ。
肉体人間としてのわれ良しを改め、肉食を断ち、・・・とは言っても報われればいいが、生き残れなかったら・・・。
免罪符なのか、これは。
三分の何とかなんて、あまりにもご無体・・・。
最終局面で悪魔が神様より強かったら、どうなるというのか。
他方、肉体人間観を脱却、霊格の向上を最優先にして、徹底的に人のために尽くす人は滅多にいない。
唯心論者を含め、大多数の人は、肉体人間観たる唯物論に覆われてしまっている。
そんな中で、わが身の行く末の保証がないのに(唯物論者にとっては皆無に等しい)黙示録のような強烈な不安と恐怖を植え付けられ、それでもなお、絶対かつ確固たる信仰に飛び込んでいくのは、きわめて難しいのだ。
という訳で、
「善悪二元論の実態は、唯物論に他ならない」
と断定、結論する。
力の強い者が勝つ。
神様だろうと悪魔だろうと関係ない。
ゆえに、真善美に悖らない神様は絶対の存在なのだ、と確信が得られなければ、安心はできないのである。
だから、この世の修行は、ちと、厳しすぎやしないだろうか?
でも、仕方ない。
神様はルール変更はしないのだろう。
たとえ、現世的、肉体人間的に報われなくても、悔いのない信仰をしていくしかないようだ。(*1)
あとは、各人の信念の度合いと因縁因果がすべてを決めるのだろう。
神様がすべてのすべてと信じられれば、あとはただひたすら祈るしかない。
霊界や予言もあるのだろうが、最終的に判断して決めるのは自分自身。
幸いにも、私達は真善美の判断能力を授かっている。
ある程度落ち着いて考えれば、おかしなものはかなりの程度排除可能だ。
真善美にそぐわない超常現象は勿論、ある程度適った不完全な超常現象でも、簡単に退けることができるはずなのだ(因縁による限界はあるにしても)。
信じるのは、真善美に悖らない神様と守護の神霊様方のみ。
あとはひたすら、できる範囲で想いや行いが真善美に悖らないようにしながら、祈りと感謝を捧げつつ、陰徳善行の努力を続ける。
そうすれば、沢山の真実に一つの嘘を混ぜるも何もない。
確証の得られない情報を鵜呑みにすることも、右往左往することも確実に減らせる。
おそらく、そういう無駄なことをする悪い因縁を減らして下さるはずだ。
そして、とにかく行いが全てである。
どんなに、エラソーな能書きを垂れようが、派手で怪しげなパフォーマンスをしようが、過去世がイエスや釈迦やナンチャラ有名人だろうが、あっそう、てなもん。
過去の偉人の名においてなされる各種お告げも同じ。
お・な・じ・こ・と。
だから何なのさ?
それだけで、全知全能の神様だとでも言うの?
そんなんで、万が一にも浮わつき、本筋を見失ったらダメでしょ。
漏尽通をものにできなきゃ不合格。
歴史上の有名人を持ち出しての過去世自慢?みたいな権威づけのための演出に、一体何の価値があるの?
各人の人格(霊格)の向上に、何の関係があるんですか?
厳しいようですが、各人の神性の発現には、無関係です。
余分なことに過ぎないんだからね(のめり込むのもわかるけど)。
現世の今、何を想い(想念)、何を行うか(行為)がすべてなのであって、極論すれば、他はどうでもいいのである。
真善美に悖らない神様のみ心に適いさえすればいい。
これが、地味で遠回りなようでも、神様と一つになるための近道だからだ。
完全にはとてもいかなくても、とにかく、少しでも近づけるよう努力していく。
大体、霊的血統を自慢して権威づけしているヒマがあったら、宗教家は他になすべきことが山ほどあるはずである。
火宅の世では、基本、宗教家は菩薩でなければならないからだ。
大体、真善美に悖り、調和を乱す言行をすれば、宗教家としては落第。
本物の神様なら、そもそも名乗りをあげない。
そんなのせんでも、素晴らしい行いによってわかる。
名乗るのは、全部ニセ神。
まして、これ一体どこの自我欲望にまみれた肉体人間か?、と見紛うようなことはない。
唯一の方法は、祈りによって、神様のみ光を頂き因縁を溶かしていくのみ。
祈り人の愛の光が増すのを期待するしかない。
たとえ悪であろうとうと、人様を責め裁き出した時点で、負のカルマを作っていることになぜ気づかない?
スピリチュアルだ、神の絶対愛だと言いながら、なぜ批判を止めない?
スピリチュアルや神様を中途半端にかじった唯物論の人は、いうに及ばず、自らを正当化しつつ、悪想念の後味の悪い内容が続く。
読む人への想念への影響がなぜわからない?
確かに、強運強者の運命に生まれついたからと、宿縁を突き抜けてやりたい放題やられたら、他の一般の人々はたまったものではない。
彼らに対して、神様の啓蒙なり、教育が必要なはずだが、残念なことにまったく現実味がない。
そうなると、彼らに対しての批判や非難、はたまた、蔑みや嘲り、そして冷笑が、果たして有効なのか?と私は問いたいのだ。
もっと遡ると、世界観になる。
この世を規定しているものは何か?と問いたいのです。
この世の流れは何によって規定され、これを直すにはどうすればよいか?ってことです。
唯物論ならその場その場の出たとこ勝負が基本で、
力の強い者、
ずる賢い者、
弁の立つ者、
声の大きな者、
生まれつきの絶対優位な環境を持つ者
が勝つだけの、きわめて世知辛い弱肉強食の世界が、現世たるこの世と言えるだろう。
端的に言ってしまえば、自己保存の本能に駆られた人間の、行き当たりばったりの争いの結果がこの世だ、と。
従って、基本的に勝つのは、強固な経済力と組織力を持ち、権謀術数と洗脳に長けた強運強者となってしまう。
まさに、身も蓋もない世界。
さらに、これを極度に安定した世界として突き詰められてしまうと、最悪、絶対権力の支配する奴隷制社会になりかねない。
しかし、本当にそれだけだろうか?
こんなことで、本当にいいのだろうか?
私達がごく普通に持っている、皆の幸せを願う心は、わが身の保証の限りにおいてのみ、持ちうるものなのか?
皆の調和と共生は、唯物論の範疇の物質次元でしか望み得ないものなのか?
そもそも、この世には、元となる原型世界があり、それが時を経て、現れてくるのではないか?
だったら、こっちを直さなければ、話が始まらないのではないか?
などなど。
この唯物論の限界を突破するところから、宗教への道が開かれてくると、思う訳です。
まあ、ちょっとキリがなくなるので、この辺で・・・。
あー、とにかく、祈って下さい。
お願いします。
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(*1)万が一、神様が真善美に悖る存在である場合には、残念だが、諦めるしかない。
自他共に傷つけない信仰に、悔いなくベストを尽くすのみ。
これが嫌なら、旅の恥はかき捨てなり、いかに生きようが個人の勝手ではある。
(*2)そもそも、手段として有効か否かだけでなく、その行為自体が真善美に悖らないか、更に言えば、これによって自らにもカルマ上の実害が及ばないかまでを考えると、批判などはおすすめしがたい。
もしかしたら、お役目のある方が、泥をかぶって批判等で対決する場合があるかもしれないが、これはもう、神様が差配されることだろうから、お任せする以外ないと思う。
置かれた立場で、最善を尽くしていれば、神様がどうしても必要とあらば、きっとお使いになりますよ。
お役目があり、神様や守護の神霊様方に導かれれば、これを果たす。
でなければ、祈りを欠かさずに陰徳善行に努める、といった形で良いのではありませんか?
アセンション(次元上昇)のことはよくわからないが、周波数に従って世界がスムーズに分離するなら、これがスマートな解決方法なのかもしれない。
だとしても、移行状況全体を少しでもよくするためにも、一人でも多くの方が救われるためにも、祈り人の努力は必須だと思われる。
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①追記: 2024/03/20 05:27
②追記: 2024/03/29 02:10
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。