おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

704_ひしみー125

09 梵天による懇請

梵天勧請

前回( 703_ひしみー124 )の続きです。

前回は、梵天勧請のことを私見も含めて短めにまとめた。

実は、これについては、以前に中村さんの原始仏典のところで、 2 回にわたって触れている。

なので、一応、復習も兼ねて、ここに引用しておく。

なお、訂正内容の注記はすべて削除して、適宜、細かな改変をしてあるので、この点をご了承頂きたい。

また、今回の内容は、はてなさんから頂いた、1 年以上ブログを続けているユーザーに対して頂ける同時期に投稿した記事の振り返りメールを見て、見直したことがきっかけになりました。

見直しをして、一応、引用しておこうと思いました。

他の皆様とは異なり、私のように弱小で、しかも間欠的にしか更新ができないブログでも、こうしたご配慮を頂けることは、ありがたい限りです。

ただ、ただ、感謝するしかありません。

ありがとうございます。

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162_原仏9ー3

三 梵天の懇請(注1)

ここでは、ちょっと、本の内容の運びがわかりにくいので、勝手に書き換えさせてもらいます。

かなり、乱暴で、大雑把な書き方になりますが、ご容赦下さい。

釈迦も、尊師とか、世尊とか表記されますが、面倒なので、以下、引用以外は、すべてお釈迦さんで統一します。(注2)

修行者としてのお釈迦さんが悟りを開いて間もない頃、お釈迦さんご自身は、その感得した真理があまりにも深遠で、微妙なものであるために、到底、(当時の)一般的な世間の人々には理解できない、と考えた時がありました。

世界創造の神、最高神とされる梵天(ぼんてん)という神様が、どういう訳か?このタイミングで、お釈迦さんの心中を知ったことになっています。

心によって知ったと書かれていますので、神様特有の神通力か何かなのでしょう。

しかし、何か、あまりに話ができすぎているような・・・。

それはともかく。

梵天様は、嘆きます。

ああ、このままでは、世は救われずに滅びてしまう。真理を悟った、世間の人々、すなわち、肉体人間から尊敬をされるべき人=お釈迦さんが、その内容をあまりにも難解で、教えるのは徒労に帰すると判断されて、人々に知らしめようとは思われないのだ、と。

そこで、世を滅ぼしたくないからなのか、お釈迦さんに数少ない上根の人々を教化させて、世を救う方向に導きたいのかわかりませんが、お釈迦さんに教えを説くように説得に向かいます。

この本の文章の一連の流れを見る限り、梵天様のご判断として、少ない上根の人々でも、お釈迦さんが教化に立ち上がれば、きっと悟りに至れる、そうすることで、少しでも悟りを開く人々を増やして、ひいては世の中を滅ぼさないだけでなく、良き方向に向かわせることができると考えた、と読み取れますね(個人的にですけれど)。

ただ・・・。

そんな梵天様ほどの凄い神様が、ご自分で教化に向かわれるのではなくて、あくまでも、肉体人間としてこの世に生を受けた者を通さないと、この世を救うことはできないとも読めます。

凄い神様なんだから、何でもかんでも、自由自在、この世を救うなんて朝飯前のはず、と素人的には考えますが・・・。

神様は力があっても、肉体人間の世界を改善に向かわせる、ひいては、地上天国に導くには、肉体を授かった人間を通して、間接的に支援するやり方をするということなんでしょうか?

よくわかりませんが。

それはともかく。

お釈迦さんは、梵天様の懇願をきき入れて、あまねく世の中を、その悟りを開いた力をもって(つまり、神通力をもって、ということでしょうね)見渡した。(注3)

そこには、上根の者から、それには程遠い、救われ難い下根の者までをも見渡した。(注4)

で、(個人的には、お釈迦さんの動機がよくわからないのですが)教えを説くことを決意した、つまり、人救いに立ち上がった、となっています。

この次第は以下のようになっています。

まず、お釈迦さんが悟りを開いた直後です。

初めて悟りを開かれたばかりのときであった。
そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かに瞑想に耽(ふけ)っておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。

「私の悟ったこの真理は深遠で、見難く、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。
ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。
・・・人々には、縁起という道理は見難い。」

ここでの縁起の解説はこう書かれています。

・・・もとの意味は、「これを条件としてかれがある」という因果の連鎖のつながりをいうのです。
つまり、いかなるものもビジョンと理由もないのに現れ出たわけではなく、必ず何か条件があって自ずから一つの現象が現れ出る、それが縁起の道理です。
ところが人々はそれを知らない。・・・

申し訳ありませんが、私には、これが何を言っているのか、よくわかりません。ハッキリ言って、わかったような、わからないような、訳のわからない感じです。

要するに、因縁因果のことだと思うんですけどね。

続けます。

「またすべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やすらぎ(ニルヴァーナ)という道理もまた見難い。
だから私が理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたしのいうことを理解してくれなければ、私には疲労があるだけだ。
わたしには憂慮があるだけだ」と。

(中間略)

尊師がこのように省察しておられるときに、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった。

そのとき、(世界の主・梵天)は世尊の心の中の思いを心によって知って、次のように考えた、

「ああ、この世はほろびる。
ああ、この世は消滅する。
実に修行を完成した人・尊敬さるべき人・正しく悟った人の心が、何もしたくないという気持ちに傾いて、説法しようとは思われないのだ!」

ときに(世界の主・梵天)は、・・・梵天界から姿を消して、世尊の前に現れた。

・・・「尊い方!
尊師は教えをお説きください。
幸ある人は教えをお説きください。
この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。
かれらは教えを聞かなければ退歩しますが、(聞けば)真理を悟る者となりましょう」と。

(世界の主・梵天)はこのように述べ、このように言い終わってから、次のことを説いた。

「汚れある者の考えた不浄な教えがかつてマガダ国(当時の一番栄えた地方)に出現しました。
願わくはこの甘露の門(不死の門とも訳す)を開け。
無垢なる者の覚った法を聞け。
譬(たと)えば、山の頂(いただ)きにある岩の上に立っている人があまねく四方の人々を見下すように、あらゆる方向を見る眼のある方(かた)は、真理の高閣(たかどの)に登って、自らは憂いを超えていながら(生まれと老いとに教われ、憂いに悩まされている人々)を見そなわせたまえ。」(注5)

そして、いくつかの写本には、次に以下のような言葉があります。(注6)

起て、健き人よ、戦勝者よ、隊商の人よ、負債なき人よ、世間を歩みたまえ。
世尊よ、法を説きたまえ。
(真理)を悟る者もいるでしょう。

修行により煩悩を克服した人を、打ち勝ったという意味で戦勝者としています。
また、当時、商業活動が次第に盛んになってきたので、お釈迦さんを隊商の主にたとえています。
負債なき人とは、当時、貨幣経済が進展して、借金で悩む人が出てきたので、このように言っています。

わかりやすいですけど、何だか、ずいぶんと俗っぽいたとえですね。

怒られちゃうかな、こんなこというと。

次です。

そのとき尊師は梵天様の懇請を知り、生きとし生ける者へのあわれみによって、さとった人の眼によって世の中を観察された。
世尊はさとった人の眼によって世の中を見そなわして、世の中には、汚れの少ない者、汚れの多い者、利根の(精神的素質に優れている)者、鈍利の者、性質の善い者、性質の悪い者、教え易(やす)い者、教え難い者どもがいて、ある人々は来世と罪過へ怖れを知って暮らしていることを見られた。
あたかも、青蓮の池・赤蓮の池・白蓮の池において、あるものは水中に生じ、水中に成長し、水面に出ず、水中に沈んで繁茂するし、あるものは水面に達するし、またあるものは水面から上に出て立ち、水によって汚されない。
まさにそのように、世尊はさとった人の眼をもって世の中を見そなわして、世の中には汚れの少ない者、汚れの多い者、利根の者、鈍根の者、性質の善い者、性質の悪い者、教え易い者、教え難い者どもがいて、ある人々は来世の罪過への怖れを知って暮らしていることを見られた。
見終わってから、(世界の主・梵天)に詩句をもって呼びかけられた。

「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
(おのが)信仰を捨てよ。
梵天よ。
人々を害するであろうかと思って、私(わたくし)は微妙な巧みな法を人々には説かなかったのだ。」(注7)

信仰を捨てよとするのは、釈迦の目から見て、当時のバラモン教などには、おかしな実践があったので、このような偏(かたよ)った信仰を捨てよ、と言っているとされています。

そこで、(世界の主・梵天)は、

「私は世尊が教えを説かれるための機会をつくることができた」

と考えて、世尊に敬礼して、右廻りして、その場で姿を消した。
(以上、第一巻一三六ー一三八ページ)

で、この話は終わっています。

~~~~~

(注1)懇請~こんせい~心をこめてひたすら頼むこと。
(用例)会長就任を懇請する。

(注2)尊師はよく出てきますが、あの事件(オウム真理教事件のこと)のために、今は見かけることが少ないと考えられます。
以前書いたように、字引にも出ていませんから(ネットには出ている)。
世尊~釈迦の尊称。

(注3)懇願~こんがん~願いを聞き届けてもらいたいとひたすら願い頼むこと。
(用例)援助を懇願する。

(注4)上根~じょうこん~仏教語で、仏道を修行する能力のすぐれた者。また、その能力や素質。
下根~げこん~仏道を修行する能力の劣った者。また、その卑(いや)しい根性。

(注5)高閣~たかどの~これは手元の辞書には出ていません。
おそらく、高殿~高く造った御殿と同義なのではないか、と思われます。

(注6)写本~しゃほん~手書きで写した本。
(用例)江戸時代の写本。

(注7)利根~りこん~すぐれた資質。生まれつき利口なこと。
鈍根~どんこん~才知がにぶい性質。また、その人。
才知~さいち~すぐれた頭のはたらき。才能と智恵。

(追記)・執著~しゅうじゃく~仏教語~執着のこと。深く思い込む。物事に強く心がひかれる。

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163_原仏9ー4

三 梵天の懇請 その2 です。

前回の 162_原仏9ー3 に関しての雑感みたいな内容です。

仏教が大好きで、すごく素直で生真面目な人は、お読みになった場合に、ん?と引っ掛かるところがあったかもしれません。

不愉快まではいかなくとも、何を言ってるんだコイツは?と思われた箇所があったはずです。

別に、おちょくる訳ではないのですが、やや、懐疑的な雰囲気を漂わして書いていたことにお気づきになられた方がいるかもしれません。

それについてです。

原典を詳しく見れないので、何とも言えないところはあるのですが、梵天様が、悟りを開いた直後のお釈迦さんの気持ちに気づく点です。

あの話は、当時、六師の輩出のように、世相が混乱してきていた状況に、お釈迦さんの、殊に、悟りを開いたお釈迦さんの出現が重なった訳ですね。

ちょうど、救世主よろしく、登場してきた。

前回ちょっと触れたように、神様は絶大な力を持っていて、万能であり、何でもできると考えられるのが普通でしょう。

しかし、肉体人間の世界を、大元の神界のように高めていくには、あくまでも、神様が直接手を下すのではなく、側面や後方から支援して支える形をとってやっていくしかない、もしくは、そうした形をあえてとっている、とすると。

もしも、このように仮定すれば、神様とされる存在、殊に、高位とされる最高神梵天様ならば、常に地上の肉体界(この世、現界のことです)に気を配り、堕落しがちな肉体人間を、導き、救い、教化して、世を救っていく存在には、大いに注目することになりますね。(注1)

従って、これにふさわしい人物が輪廻転生上に乗り、この世に出てくることを心待にすることにもなるでしょう。

前に、アシタ仙人のところで書いたように、お釈迦さんのご誕生を知った神々が、子どものように無邪気に?喜んでいる話にあったように。

あるいは、神様ご自身が時宜を見て、この世に聖者を降ろされるのかもしれませんが。(注2)

そして、当然、この世で悟りを得ようと精進している修行者には、特に期待されているお釈迦さんのような人には、普段から注目しているのも、ごく自然な成り行きになりますね。

いつ、悟りを開かれるのだろうか、と。

当然、その心境や動向にも、注目しているはずですよね。

これならばわかるように思えるんです。

ここまで、書いてあれば。

梵天様がお釈迦さんに敬礼して、消えたくだりまで含めて。

ただ、あの中村さんの本に書かれている内容だけでは、お釈迦さんの教化の断念とそれを梵天様が認識したことが、うまくつながりすぎている、タイミングがよすぎる、話ができすぎている、と思えてしまうんですよ。

だいぶ前に書きましたが、お釈迦さんの誕生にしても、イエスの誕生にしても、私はああいう神話は事実ではないと思っています。

詳しくは書きませんが、今現在のみんなと同じような生まれ方(時代からすると帝王切開はなかったと思います)をしていると考えています。

宗教の教祖に関しては、どうしても信徒が崇めるために、勇み足を起こしがちになるところがあると思います。(注3)

ですので、唐突に見えるつながり、うまくできているつながりを見ると、一応、疑いを抱いてしまうんですよ。

戦勝者や、隊商や、負債なき人のたとえも、わかりやすすぎる代わりに、何かあまりにも卑近すぎて、当時の人が上から目線で、説教したり、服従させるたとえに、いかにも使いそうだなと思えて、あらぬ邪推をしてしまったもので。(注4)

あくまでも、邪推ですけど。

だから、その点に関して、もう少し、これに近い説明が欲しかったと思いました。

あくまでも、雑感というか、感想ですけれど。

~~~~~

(注1)教化~きょうか~人をよいほうへ教え導くこと。
(用例)民衆を教化する。
(参考)仏教では、きょうげという。

(注2)時宜~じぎ~時期が適当であること。ちょうどよいころあい。

(注3)崇める~あがめる~尊(たっと)び敬(うやま)う。

(注4)卑近~ひきん~身近で理解しやすいこと。また、そのさま。

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①追記: 2023/05/14 23:21
 〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、表題と本文を加筆・訂正しました。

①について
09 梵天による懇請
の内容が始まる、
694_ひしみー115
から
714_ひしみー135
までの 21 個分の表題を
すべて間違えていたこと
に気づきましたので、
これらを訂正しました。
これに伴って本文中も
訂正すべき部分を訂正
することにしました。

この章の正しい表題は
09 梵天による懇請
でなければならないところを、ずっと
09 梵天の懇請
のままにしていました。
大変失礼致しました。
申し訳ございません。
お詫びとともに訂正させて頂きます。