おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

713_ひしみー134

09 梵天による懇請

・伝道を決意した釈迦

前回( 712_ひしみー133 )の続きです。

まあ、前回までの話と後に続く話をまとめてみたいのだが、それはちょっと後にする。

ひろさんの表現によると、下記の通り(改変あり。以下すべて同様)。

「自分が悟った真理、その悟りに至る道を人々に教え示してやろうか」
釈迦は、そう思った。
仏伝作者は、そのような彼の心を梵天懇請という物語として描いている。

でも、釈迦の心はちょっと動いたが、同時に彼はその不可能性を認識する。

中略。

・・・現世利益ばかりを売り物にしたインチキ宗教だけが、欲に狂ったまがいものの救いを与えることができる。
しかし、仏教はインチキ宗教ではない。
そのために、釈迦は、少数のエリートのために法を説くことを決意した。

以下略。

要は、お釈迦さんですら、なかなか悟れなかったのに、これを他の人に体得させよう、あるいは、教えを広めようとするには無理があるから(世の中は、お釈迦様の境涯に程遠い人達ばかりだから)、お釈迦さんが梵天様の懇情を二回断り続けて、三回目に受けたことが書かれている。

ここで用いられている律蔵の経文は以下の通り(改変あり。以下すべて同様)。

梵天様の二度目の懇情を断った時は、下記の通り。

だから、私(←お釈迦さん)が理法を説いたとしても、もしも、他の人々が私を理解してくれなければ、私には徒労があるだけだ。
私には憂慮があるだけだ。

次の三度目の懇情での梵天様のお言葉は、次の通り。

尊い方!
尊師(←お釈迦さんのこと)は教え(真理)をお説き下さい。
幸ある人は教えをお説き下さい。
この世に生まれつき汚れの少ない人々がおります。
彼らは教えを聞かなければ退歩しますが、(教えを聞けば)真理を悟る者となりましょう。

そして、お釈迦さんが、伝道を決意したことを、梵天様に告げた内容は以下の通り。

われらに甘露の門は開かれた。
耳のある者は聞け、おのが信仰を捨てよ。
梵天よ。
人々を害するであろうかと思って、私は微妙な法を人々には説かなかったのだ。

律蔵では以上のようになっている。

以上を含めて、ひろさんのお考えや仏教の一般的な考えを私流に勝手にまとめさせてもらうと。

まずは、アシタ仙人のような普通の一般人ではない人が、可視できる帝釈天様をはじめとする神々様という肉体人間とは異なる高次元の存在は、お釈迦さんがいずれこの世に生を受け、長じるに従って悟りを開くことを歓喜していることがありましたね。

では、神々様はなぜ歓喜なさっているのでしょうか?

ここで暗黙の前提とされていることは何か?

それは、肉体人間で構成されているこの世が、必ずしも幸せではない、いや、むしろ、不幸災難に満ちているとお考えになっていたからではないですか?

だから、そこで迷える子羊ならぬ、肉欲をはじめとする煩悩に悩まされ、病争貧苦にあえいでいる、この世に見られる多くの人々を鑑みて、何とか救いたい、そのためになるような教えを説く人の登場を待ち望んでいた、ということではないですか?

ならば、さらに二つのことが前提とされていますよね?

肉体人間で構成されている世界は、救われている、皆が調和して、安穏な世界になっていることが望ましい、これこそが本来の姿だ、とお考えになっていることがまず一つ。

ひろさんのご本には具体的に出ていませんが、以前扱った中村さんの原始仏典に、梵天様の以下のお言葉があることからもこれは推定できます(改変あり)。

ああ、この世は滅びる。
ああ、この世は消滅する。
実に修行を完成した人・尊敬さるべき人・正しく悟った人の心が、何もしたくないという気持ちに傾いて、説法しようとは思われないのだ!

そして、今一つは、世界を構成する一人一人が、人間とは何か、世界とは何か、宇宙とは何か、のようにすべてを周知する悟りを開くか、これに近づけた形に仕上げて、そうした人間によってつくられる社会目指すべきだ、とお考えになっている、ということ。

だから、お釈迦さんのように、いずれ悟りを開いて、世の中の人々を教化して、いい方向に向かわせることのできる人の登場を待ち望んでいた。

つまり、悟りを開き、これを元にたくさんの迷える世の中の人々を救い、教化をして、ひいては安穏な世界をつくりたい、ということですよね?

帝釈天様をはじめとする、神々様、そして、梵天様の暗黙の前提とされていることは。

つまり、これは、この世の地上天国化が成し遂げられるか、これに少しでも近い世界の実現をのぞまれていることに他ならないのではありませんか?

そのための最適任と思われるお釈迦さんという人が、いずれ近いうちにこの世に誕生することがわかった。

だから、お喜びになっているということですよね?

まあ、これが理想だとはしても、世の中を構成するすべての人々を教化することには無理がある。

お釈迦さんも、当然悟りに程遠い境涯のたくさんの人々がいることを、理由にして、懇情を断る可能性は高いだろう。

ならば、とりあえず、さしあたっては、悟りを開くことができる素養のある者を教化することだけでも、お釈迦さんを説き伏せようとお考えになったように読み取れますよね?

韓非子の蟻の一穴(千丈之堤、以二螻蟻之穴一潰)ではないけれど、とりあえず一点突破で悟りを開ける可能性がある者に教えを説くことまでは、お釈迦さんを何とか説得できた、ということですよね?

いずれは、この悟りを開くことができるであろう少数精鋭のエリート弟子のみならず、たくさんの人々を次第に教化することを見込んで。

そういうことじゃないですか?

といった内容について、私はいくつか言いたいことがあるのだが、とりあえず、一つあげておく。

それは、当時のインドの習慣についてだ。

前回書いたように、ああした神様と人間に対する考え方からすれば、自分だけ悟りを開くことができればハイおしまい、というのはおかしい。

釈然としない。

今回、神々様の暗黙の前提として、私が(勝手に)読み取った内容からしても、このことは言える。

帝釈天様、梵天様、神々様は、皆様、前回書いたような神様観によっているから、お釈迦さんの誕生することがわかってお喜びになっていたと読み取ることができるからだ。

神様は、愛だ。

神様と呼ぶのか嫌ならば、み仏(仏教徒の人々は阿弥陀如来様やお釈迦さんを想定するだろう)は、愛だ(=慈悲深い存在だ)。

神様は、愛そのものの存在だとすれば、どんなに過去世の因縁により敵対的にこの世にあらわれていようとも、そうした人でさえも、同じ神様の分けられたお命を宿した肉体人間であり、つまりは、霊魂魄で見れば、神様の子供の兄弟姉妹、ということになる。

敵対的にあらわれていない人でも、世の中で世のことわり(=真理)を知らず、不幸災難や病争貧苦にあえいでいる人々がいれば、こうした人々も神様の分けられたお命を宿した神様の子供である兄弟姉妹となる同胞となる。

だとすれば、自分だけが悟りを開いておしまい、で済ませてしまうのではなく、こうした人々にも愛を施して、救うというのは当然という帰結になる。

仏教で、唐突に(?)持ち出されやすい「慈悲」と言っているのは、実質的にこうした内容のことでしょう?

違いますか?

律蔵では、お釈迦さんの境涯には程遠い、一般的な人々に教えを説くのは、困難を伴い、障壁があるから、やむなくお釈迦さんは、梵天様の懇情を二回まで断ったようになっているが、これは違うような気がするのですよ(あくまでも私の独断と偏見だが)。

悟りを開いて人間の何たるかを知り、愛を施すのは、ごく自然なことだと考えれば、困っている人がいれば、苦しんでいる人がいれば、救いに立とうとするのが悟りを開いた者としての当然の姿ではないのですか?

たとえ、どんなに困難な障壁があろうとも、救いに立って教化が道半ばで挫折しようとも、やるだけやってみるのが、悟りを開いた者としての使命ではないのですか?

強い思いではないのですか?

まあ、お釈迦さんは大変な神通力を得た訳だから、すべての成り行きを見通されていたのかもしれないが、この律蔵に描かれているお釈迦さんと梵天様とのやり取りを見ていると、何となく唯物論的な利害得失の成り行きに近く、唯心論的な感じがしないんですよ。

そんな訳で、ひろさんのお書きになっていた、
苦行 → 利己的 → 伝道しない
中道 → 利他的 → 伝道する
のも、動機づけとしてはきわめて弱いというか、納得できないんです。

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①追記: 2023/05/15 23:26
 〜訂正内容〜

表題を加筆・訂正しました。

①について
09 梵天による懇請
の内容が始まる、
694_ひしみー115
から
714_ひしみー135
までの 21 個分の表題を
すべて間違えていたこと
に気づきましたので、
これらを訂正しました。
これに伴って本文中も
訂正すべき部分を訂正
することにしました。

この章の正しい表題は
09 梵天による懇請
でなければならないところを、ずっと
09 梵天の懇請
のままにしていました。
大変失礼致しました。
申し訳ございません。
お詫びとともに訂正させて頂きます。