おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

710_ひしみー131

09 梵天による懇請

・苦行による悟りと中道による悟りの違い

前回( 709_ひしみー130 )の続きです。

また、ケチつけ道中になってしまい申し訳ないのだが・・・。

まずは、個人的に、前回と前々回の復習も含めて、ひろさんのお考えになるところのこれらの節の内容をまとめてみたい。

まず、大前提としてある事実は、お釈迦さん在世当時のインドの世間一般の常識では、悟りを開いた人は速(すみ)やかに涅槃に入る、入滅する、つまり、死ぬということであったとされている。

それが、当時のインドの社会における一般常識であった、と。

そして、悪魔のささやき(=尊師(お釈迦さんのこと)はニルヴァーナ(涅槃)にお入り下さい。今こそ尊師のお亡くなりになるべき時ですというささやき)は、そのような世間の常識に立脚したものだ、としている。

その理由づけとして、ひろさんは、大体、以下のように述べている。

悟りを開いて、聖者になったのに、なおもこの世にとどまり続けるのは、煩(わずら)わしいことだ。

悟りによる真理を説き広めようとすれば、既存の宗教教団からの妨害も受けるなど(=後の実際のお釈迦さんはそうした妨害などを馬耳東風と受け流したが)により、心の平安が乱されてしまうとしている。

だから、悟りを開き、心の平安を得たならば、速やかに入滅するのが常識なのだから、お釈迦さんもそのように考えた、としている。

ただし、ひろさんは、どういう訳か(???)、お釈迦さんの内面には、もう一つの、「この悟りの境地である、静けさの境地に至る道を人々に指し示してみようか」という考えが自然にわいてきた(???)、としている。

それを、世間一般に印象の悪い悪魔に託(かこ)つける訳にはいかない(?)から、梵天という神様という世間一般の印象の良い存在に託つける、それが、梵天懇請とされているように、ご理解されているようだ。

そして、ひろさんは、その自然にわいてきた、当時のインドの世間の一般常識とは正反対の、悟りを開いた境地からの教えの伝道を決意した理由づけを中道に求めている。

お釈迦さんは、苦行を続けることをやめて、中道を選ぶことで悟りを開いたからだ。

ひろさんは、お釈迦さんならば、中道を選ばず、苦行を続けたままでも、悟りを開いただろう、としている。

ただし、苦行のまま悟りを開いた場合には、その悟りを得た境涯が、中道を選んで悟りを得た境涯とは違ったものになるから、お釈迦さんは悪魔の誘惑に屈しなかった、つまり、死を選らばなかったとして、以下のように述べている。

すなわち、悟りを開くにあたっての苦行という道筋は、現代で言えば、いわばガリ勉のようなものであり、他人の落伍を喜ぶ、排他的で利己的なものである。

だから、他人の悟りへの過程の失敗を喜ぶ利己的な人間になることはあっても、手助けをする人間にはならないだろう、としている。

これに対して、ゆったりと楽しみながら、悟りを開くことを目指す中道によって悟りを開いた場合ならば、同じく悟りを開くことを目指す者には、手助けをするようになるであろう、とする。

要するに、ひろさんは、苦行は利己的で、中道は利他的だから、お釈迦さんは伝道をする気になったとおっしゃっりたいようだ。

お釈迦さんが、苦行によって悟りを開いたならば、他人にその境涯を獲得させるように教えることはしなかったか、あるいは、弟子を取り教えたとしても、かつてお釈迦さんが師事した、禅定家のアーラーダ仙とウドラカ仙のように、特定の狭い教団を形成するだけになったかもしれない、としている。

で。

結論としては、ひろさんは、お釈迦さんは、中道によって悟りを開いたがゆえに、自らが悟った真理を利己的に自分だけで享受することをせずに、他のたくさんの人々のために利他的に悟りへの道筋と内容を公開することを考えたものとご理解されているようだ。

そのお釈迦さんの善意(利他心、慈悲の気持ち)が、梵天様の懇請として描かれている、としている。

今回は、ここまでとする。

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①追記: 2023/05/15 23:08
 〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、表題と本文を加筆・訂正しました。

①について
09 梵天による懇請
の内容が始まる、
694_ひしみー115
から
714_ひしみー135
までの 21 個分の表題を
すべて間違えていたこと
に気づきましたので、
これらを訂正しました。
これに伴って本文中も
訂正すべき部分を訂正
することにしました。

この章の正しい表題は
09 梵天による懇請
でなければならないところを、ずっと
09 梵天の懇請
のままにしていました。
大変失礼致しました。
申し訳ございません。
お詫びとともに訂正させて頂きます。