おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

727_ひしみー148

10 初めて法輪を転ず

・仏教教団におけるプロとアマ

前回 ( 726_ひしみー147 ) の続きです。

ひろさんによると、
「(適宜改変あり。以下、同様)ともかくも 5 人の弟子達が悟りの世界に到達して、この世に阿羅漢が 6 人となった。それで、釈迦の教える「方法」の普遍性が証明された訳であるが、ちょっと引っ掛かるのは、 5 人はすでに出家修行者であったことだ。いわばプロフェッショナル(以下、プロと略)である。プロにはその「方法」が通じても、アマチュア(以下、アマと略)にそれが通じるだろうか?その点が、気がかりと言えば、気がかりである」
となっている。

ひろさんは、プロとアマに分けたのは、お釈迦さんが入滅してから 200 年ほど過ぎてから、修行僧が遊行をしなくなり、寄進された土地に定住するようになって以来、今では遊行をしないので、出家ではない、と言いたいらしい。

一般的な僧侶(外国のこと?)はそのままでいいが、日本の僧侶は妻帯しているのも、違う(プロとはいえない)と言う。

だから、ひろさんは、こうした一般的な僧侶や日本の妻帯をしている僧侶は、在家扱いとしてアマに分類したいようにも見える。

プロの出家修行僧は、あくまでも、遊行をする者であり、妻帯をしないものである、と。

つまり、ひろさんは、お釈迦さんが教えを説く対象を、あくまでも便宜的な観点から、プロとアマに分類して、その教えの習得具合を考察したいらしい。

この論法で行くと、お釈迦さんの最初の修行仲間であった 5 人の比丘は、修行に専念しているから、間違いなくプロと言えることになる。

そして、お釈迦さんは、こうしたプロの修行者を教導できたと位置付けている。

つまり、ひろさんはお釈迦さんが教えを施す対象者を、出家修行者の比丘をプロ、他方、出家しても遊行せず、妻帯する僧侶をお釈迦さんの教えの習得具合の観点から、在家信者のアマとして、二分した訳だ。

大別すると、
・プロ→遊行して、妻帯しない出家修行僧
・アマ→定住して遊行せず、妻帯する出家修行僧
のように。

では、お釈迦さんは、それ以外の大半のアマをどう教導するのか?について、ひろさんは以下のようにして結んでいる。

「問題は、アマである。果たして、釈迦はアマを教導できるのであろうか?。・・・。案ずることはない。アマの方(ほう)から釈迦に接近してきた」と。

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追記: 2022/12/01 04:30
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。