725_ひしみー146
10 初めて法輪を転ず
・釈迦が発見した古き道
前回 ( 724_ひしみー145 ) の続きです。
お釈迦さんは、サンユッタニカーヤのナガラ(都城)と題される一経で、次のように言っている。
「私は過去の正覚者が、悟った真理に至る古道・古怪を発見した」と。
つまり、誰もがお釈迦さんの発見した古道・古怪を歩めば、誰もが真理という古城に到達できる、ということらしい。
その古道・古怪とされるものが、八正道である。
すなわち、
1.正見・・・正しいものの見方。
2.正思・・・正しい思惟・思索。
3.正語・・・正しい言葉。
4.正業・・・正しい行為・行動。
5.正命・・・正しい日常生活。
6.正精進・・・正しい努力。
7.正念・・・正しい注意力。心の落ち着き。
8.正定める・・・正しい精神統一。
の 8 つである。
そして、ひろさんは、これらの「正しい」は「中道」をあらわすものとして、「中道」の具体的な実践方法が「八正道」だとしている。
律蔵のマハーヴァッカには、お釈迦さんが鹿野苑で、最初の弟子になった 5 人の比丘に、出家修行者として避けるべき両極端に近づかない中道を真理という古城に至る、古道・古怪として説いたとされている(以下、読みやすさを考え、段落分けなどの改変をしている)。
すなわち、
「修行者らよ。
出家者が実践してはならない 2 つの極端がある。
その 2 つとは何であるか?
1 つは、諸々の欲望において、欲楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行いであり、高尚ならず、ためにならぬものである。
他の 1 つは、自ら苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。
真理の体現者は、この両極端に近づかないで、中道を悟ったのである」
と。
・・・。
以下、下品で乱暴な言葉遣いになるが、ご了承頂きたい。
何ですか、これは。
いかにも、もっともらしく聞こえるし、表面的には納得する人も多いのかもしれない。
しかし。
すでに述べてきたように、八正道の概念分類の仕方にも、「正しい」の意味づけがされないのにも、はなはだ疑問がある( ( 569_仏言葉ー100 の補足 ) に既述)し、両極端を避ける中道に至っては、何をわざわざ当たり前のことを言っているの?としか思えない。
中道。
修行者たるもの、怠けて遊び呆けるのなんて、ダメに決まっているし、ガリ勉のような修行のやり過ぎはダメだと言いながら、その寸止めの境界についても、何も触れておらず、境界は曖昧模糊になっているままだ。
「高尚ならず、ためにならぬものである」って、皆さん本当にピンときますか?
何だか、当たり前過ぎる気がするし、肝心の中身が漠然としていて、具体性がなさすぎますよ。
ひろさんは、中道を、「いい加減」と易しく言い換えている(ひろさんは「パラフレーズ」とお書きになっている)、 5 人の比丘がかつて修行仲間として苦行をやめた自分(お釈迦さん)を見捨てた時のことを引き合いに出して、「いい加減はマイナスイメージではない」だの、お風呂の湯加減に例えて、説明したりもされているが、どうもピンとこない。
とにかく。
ひろさんは、お釈迦はんが、彼ら 5 人に「中道」を歩ませることによって、お釈迦さんのたどり着いた古城=真理に、同じようにたどり着けると信じて、彼らを教導した、としている。
ひろさんは、さらに、お釈迦さんは、決して難しい教理・教学を教えたのではなく、その推測は間違っていないと確信されているそうだ。