おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

728_ひしみー149

10 初めて法輪を転ず

・仏教教団におけるプロとアマ

前回 ( 727_ひしみー148 ) の続きです。

ちょっと話を混ぜっ返すようで申し訳ないのだが、ひろさんの述べたことと、これから述べることについて、独自の視点からとらえ直すことにしたい。

ひろさんのお考えは、私の見る限り、あくまでも唯物論だ。

というのも、ひろさんはお釈迦さんが弟子を取り、教えを施して、悟りを開くまでの方法、すなわち、ひろさんの言うところのお釈迦さんの教導方法の普遍妥当性を検証するために、つまり、出家修行者の一番厳しい修行をしている元修行仲間の五比丘のような人達から、その他の在家信者までを、プロとアマのように分けて、そのお釈迦様の悟りを開くための教導方法の是非を検証しようとしているように見えるからだ。

そして、こうして分類したすべての人々に、お釈迦さんの方法論で悟りを開けるようになれば、お釈迦さんの教えの普遍妥当性は立証された、と言いたいのだろう。

そこで、前回 ( 727_ひしみー148 ) 見たのは、悟りを開くには最も近い位置にいると思われる、出家をして、遊行者となり、日本の僧侶とは異なり妻帯もしない出家修行僧、すなわち、元修行仲間の五比丘をプロ、それ以外の出家修行僧その他をアマと定義して、かつてのお釈迦さんの修行仲間であった彼ら五比丘が悟りを開いたことを持って、少なくともプロには、その普遍妥当性が検証されたとしていた訳である。

そして、その他の人々にお釈迦さんの方法論の検証を広めて考えよう、という話になっていた。

つまり、ひろさんは、お釈迦さんの定めた特定の修行を修めさえすれば、誰しもが悟りに到達できるか否かをテストするという、あたかも化学の実験の再現性を検証するように、すなわち、唯物論でお釈迦さんの方法論をお考えになっている。

だから、唯物論なのである。

従って、そこでは肉体人間の魂の永続性から来る、輪廻転生を通した過去世の積み重ね、特に、この世で修行をすることに匹敵する過去世における肉体人間としての想いと行いの積み重ねとなる、過去世の因縁をまったく考慮に入れていない考え方となっている訳です。

私独自の考えをおおざっぱに言ってしまうと、お釈迦さんの教導方法をいくらやったところで、過去世の因縁によっては、お釈迦さんの方法論をもってしても、悟りを開くことはできない、と思われる。

ひろさんは、次節 ( ・アマチュアの青年への教導 ) の冒頭にお書きになっているが、かつてのきわめて厳しい修行をしていた元仲間の五比丘でさえ、その教導には数ヶ月はかかっただろう、としている。

すなわち、以下の通り(改変あり)。
「釈迦が五比丘の教導にどのくらいの時間を要したか、仏典にその記述はない。我々が想像するより他はないが、おそらく、数ヶ月はかかったであろう」と。

お釈迦さんの悟りを開くための教導で、最も短期間で済むと思われる元修行仲間の五比丘でさえ、悟りを開くためには、(ひろさんの推定になるが)数ヶ月もかかるのである。

従って、これ以外の水準のその他圧倒的大多数の修行僧や在家の人々は、悟りを開くための教導には、はるかに時間がかかると考えるのが妥当である。

ところで。

お釈迦さん在世当時の約 2500 年前は、いくら都市が発展し始めてきていたとはいえ、それから数百年、あるいは、現代に至るまでの生活に比べたら、はるかに簡素で、生活の利便性も低かったと考えられる。

例えば、現代社会のように、様々な欲望を満たすための環境が整っていない、まだまだ未整備な社会環境だと考えられるのである。

生活が簡素であるということは、様々な余分な欲望充足の手段も少ないということであり、気持ちを平らに保ちやすく、想いを乱され難い環境だとも言える。

つまり、数百年後の後世や現代に比べたら、修行に没頭しやすく、悟りを開き易い環境にあったと思われるのだ。

それにもかかわらず、元々悟りを開くかなり高い素養を備えたお釈迦さんの元修行仲間の五比丘でさえ、数ヶ月もかかっているのである。

悟りを求め、仏教という独自の道を切り開いた無師独悟の開拓者(パイオニア)であるお釈迦さんは、悟りを開くまでに約 6 年の歳月を要したとはいえ、そこから自分よりももっと素養の低い、境涯の低い人達に対して、お釈迦さんは教導という形で、易しいレールを敷いてあげた訳だ。

いわば、悟りを開いた境涯から、お釈迦さん独自の視点による、誰にでも通用する、お弟子さんのために、悟りへの最短距離の道筋をつけた訳だ。

だから、お釈迦さんが自ら悪戦苦闘して悟りを開くまでに至った時よりは、はるかに効率的で、汎用性が高く、時間のかからない方法になっているはずだ。

そんな最適とも言える方法と、五比丘の素養と、修行には適していると思われる簡素な時代背景という、恵まれた条件の下でさえ、悟りを開くまでには数ヶ月もかかっているのである。

やはり、古の当時とはいえ、悟りを開くことは、一大難事業だったと考えざるを得ない。

何が言いたいのかと言うと。

お釈迦さん在世当時でも、それ以降の現代に至るまでの長い間にも、悟りを開くことができた人は、開拓者(パイオニア)であるお釈迦さんほどではないにしろ(=お釈迦さんが悟りまでの近道を作ってくれたから)、それなりの過去世の因縁、つまり、悟りを開くに相応しい過去世での修行経験に相当するたくさんの経験(=これを仮に過去世要因と名付ける)を経てきて、この世に生まれた人達だと考えられるのである。

だから、この過去世要因を満たせない限り、どんなにお釈迦さんの方法論をもってしても、悟りを開くことができない人は、悟りを開くことができずに生涯を閉じるのであり、悟りを開く(=成道)は、来世以降に持ち越しになる、と考えられるのだ。

つまり、この世の歴史が始まって以来、悟りを開いた人達は、目には見えない、この世の顕在意識ではわからない、過去世要因を満たした人達だからこそ、悟りを開いた、と考えられるのである。

つまり、お釈迦さんが道を拓いた悟りへの最短ルートをもってしても、過去世要因を満たせず、一生懸命修行に明け暮れても、それなりに悟りを開けないまま、生涯を終えた人達が、歴史上にはたくさんいた、と考えられるのである。

だから、お釈迦さん在世当時を含めて、歴史上悟りを開いた人達は、お釈迦さんに巡り会う、そして、お釈迦さんの教導を受けることも含めて、すべてそれなりの過去世要因を満たした人達だったと考えられるのである。

だからこそ、それぞれの今生で悟りを開いた、と。

考えてもみて欲しい。

この世には、厳然たる著しい生まれつきの差がたくさんある。

千差万別(億差兆別?)に。

容姿から、健康面から、才能から、性質から、何から何まで異なっている。

外見上は、ほぼ瓜二つに見える双子でさえ、必ず性格が異なっている。

誰一人として、ありとあらゆる面が同一という人間は存在しない。

同じ人間という存在でありながら、こうまで相違があるのはなぜなのか?

今生まれた氏素性をはじめとして、ありとあらゆる面が異なるのは、なぜなのか?

神様の存在を肯定するにしても否定するにしても、そもそも、この世の中の事象には、原因(因縁)と結果(因果)という、一定の法則があるのか、どうか?

神様の存否はともかくとしても、何らかの法則がある、と考えるのが自然だろう。

そうすると、この世の不平等・不均衡で、およそ理に適わないカオスな有り様を、そのまま全肯定する訳にはいかなくなる。

この世にある、様々な理に適わない、カオスな状況(=結果=因果)には、そのようにさせている、何らかの原因(=因縁)をどこかに求めなければ、辻褄が合わず、法則があるとは言えないことになってしまうからだ。

ここに、その抱く想いによって原因(=因縁)を作り出す人間の輪廻転生というたくさんの生まれ変わりの時間差で、このように不規則で、到底、平等とは言えない世の中が、結果的に作り出される、と考えれば、それなりに筋が通る、法則があると言えることになる。

ひろさんの唯物論のお考えは、例えば平均的な偏差値の大学入試なら、どんなに勉強ができない学生でも、必死に勉強をすれば、誰でも合格できる、という話と同じだ。

さしずめ、お釈迦さんの教導方法が入試に当たり、これさえ通過することができれば、誰でも悟りを開くことができると言っていることと同じだからだ。

しかし、私は、悟りを開くということは、お釈迦さんの教導を履修すれば、誰もが合格できる性質のものとは違うと思うのだ。

つまり、お釈迦さんの教導方法を機械的にパスさえすれば、悟りを開けるとは限らない、と考えられるのである。

お釈迦さんの教導で、悟りを開いた人達も、その実は、過去世要因があるからこそ(=過去世での修行に匹敵するそれなりの積み重ねがあるからこそ)お釈迦さんに出会っているし、過去世要因があるからこそ、お釈迦さんの導きで悟りを開いた、と考えられるのである。

つまり、お釈迦さんの教えは、必要条件ではあるけれど、過去世要因を満たさないと十分条件にはならない、と考えられるのである。

悟りを開いた人達には、例外なく、すべての人にそれなりの過去世要因があった、逆に言うと、過去世要因が満たされなければ、お釈迦さんの教導方法でも悟りを開けない、と考えられるのだ。

極端な言い方をすると、普通の私達の目には見えない過去世要因を度外視して、今生だけの機械的な努力だけで突破できる大学入試と、
過去世要因が濃密に影響する成道(=悟りを開くこと)は、機械的な努力だけで突破できる大学入試のようなものではない、と考えられるという訳。

とは言うものの。

以上は、私の勝手な考えなので、ひろさんは、こうした過去世の話はまったく持ち出さずに、お釈迦さんの教導方法を悟りを開くための十分条件とお考えのようなので、次回からは、その前提で話を続けることにします。

長く、横道に逸れた話をして、すみませんでした。

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①追記: 2023/12/02 13:13
②追記: 2023/12/02 13:22
③追記: 2023/12/02 13:35
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。