06 「出世間(しゅっせけん)」をした沙門(しゃもん)ガウタマ
・沙門ガウタマは「出世間」をした
前回( 631_ひしみー053 )の続きになる。
お釈迦さんが、インド随一の大国、マガダ国(拮抗していたコーサラ国(豪族と思われる小規模な釈迦国の宗主国)をやがて併合したインド第一の大国)のビンビサーラ王から、超破格の待遇で誘われたこと(ホームレスに対して当時のインド第一の大国の仕官を申し出たこと)を一顧だにせず、軽くこれを退けたこと、
ビンビサーラ王に対して答えた内容、
すなわち、
自分が蒸発したのは、肉体人間としての諸々の欲望をかなえるためではないこと、
と、
出離は安穏だということ、
の 2 つの理由をひろさんは重要な発言だとしていると書いた。
以上の理由により、ひろさんのこの節( ・沙門ガウタマは「出世間」をした )での結論は、出世間に集約されるという。
ただし、世捨て人には 2 つの意味があるので、勘違いしないようにとのこと。
世捨て人の意味は、以下の 2 つとされる。
1.自らの意志で世間を捨てた人
2.世間から捨てられてしまった人
このうち、上記 2 つの理由により、1.の意味で積極的に世間を捨てたのがお釈迦さんだ、とひろさんは結論づけている。
ひろさんは、ごく普通の人間(?)ならば、超破格の当時としては信じられない条件を、あえて袖にしたことを重要視しているというか、宗教家として高く評価しているのだろう。
一応、その時の台詞も引いておく(改変あり)。
王よ、あちらの雪山(ヒマラヤ)の中腹に、一つの民族がいます。
昔からコーサラ国の住民であり、富と勇気をそなえています。
姓に関しては太陽の裔(すえ)といい、種族に関してはサーキヤ族(釈迦族)といいます。
王よ、私(わたくし)はその家から出家したのです。
欲望をかなえるためではありません。
諸々の欲望には患(うれ)いのあることを見て、また出離は安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。
私の心はこれを楽しんでいるのです。
なお、ここでお釈迦さんの言っている欲望は、物をもらって楽に(?)生活しようとか、(小規模ながらも)王家という窮屈な環境から逃れたいとか、その他、各種のあまり上品とは言えない世間の下世話な欲望を思う存分味わう、といったものが考えられるだろう。
(小規模ながらも)権力欲と名誉欲をあえて捨て去る選択をした上に、当時としては信じられない好条件の仕官の口をにべもなく(ちょっとニュアンスが違うか?)蹴ったことから考えれば、大体、このくらいだと思う。
それよりも、何よりも、心の絶対的な平穏を得ること、安穏を味わうことが第一ということらしい。
しかし。
なぜに、心の安穏が好まれるのか、大事なのかについては、一切触れていませんね。
なぜなんでしょうか?
まあ、いいか。
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・一顧~いっこ~ちょっと振り返って見ること。ちょっと注意して見ること。
(用例)一顧だにしない。一顧も与えない。
・宗主国~そうしゅ~おおもととして尊ばれる長(おさ)。
・長~集団を統率し治める人。頭。長(ちょう)。
(用例)村の長。
・宗主国~従属国に対して宗主権を持っている国。
・中腹~ちゅうふく~山頂とふもとの中程。
・出離~しゅつり~仏教語~迷いの境地や俗世を脱して悟りの境地に入ること。出家すること。
・安穏~あんのん~変わったこともなく、穏やかなこと。平穏。
・にべもなく~愛想がない。素っ気ない。
(用例)にべもなく断られる。
・平穏~へいおん~事件もなく穏やかなこと。また、そのさま。←→不穏。
(用例)平穏無事。平穏な日々を送る。
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①追記: 2021/12/27 01:11
②追記: 2021/12/27 01:15
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文と注釈を加筆・訂正しました。