06 「出世間(しゅっせけん)」をした沙門(しゃもん)ガウタマ
・政治からの誘惑を受けた釈迦
ひろさんは、お釈迦さんも、イエスさんも、政治に関しては軌を一にしている、すなわち、政治に関心を持たない反政治の思想家、アナキズムの思想家だと決めつけている(?)のだが、そのあらましを引いておく(改変などあり。これは以下のすべての文章に同様)。
アナキズムは、通常、無政府主義と訳されるが、これはあまりいい訳語とは言えないとひろさんは言う(前回注釈で書いておいたものがこれ。すなわち、以下の通り。
・アナキズム→アナーキズム~無政府主義。
・無政府主義~むせいふしゅぎ~すべての権力を否定し、政府を全廃して、個人の絶対的自由の行われる社会を打ち立てようとする主義。アナーキズム。
(用例)無政府主義者 )。
アナキズムの語源はギリシャ語のアナルコス、すなわち、支配者がいないを意味するものであって、権力的支配そのものを嫌悪し、国家や政府といった権力機関の存在を否認する思想だそうだ。
ひろさんは、釈迦もイエスも、そうした意味でのアナキズムの思想家=アナキストであったとする。
そして、ひろさんは、イエスがアナキストであることは別人も指摘しているとして、フランスの宗教史家のルナンの言葉を引用している。
イエスはある意味で無政府論者である。
彼はこの世の政治について何の観念も持たないからだ。
彼(=イエス)にとって政治は、ただもうそれだけで、誤謬になるのだ。
彼は、政治について漠然とした用語を用い、政治的観念のまるでない民衆のような口振りで、語っている。
為政者は皆、彼の目には、神の民の当然の敵に見える。
これを受けて、ひろさんはおおよそ次のようにしている。
政治家が政治家であるだけで、神の民には敵だ。
イエスはそう考える。
実に厳しい見方である。
釈迦は、まあそこまでは言いませんよ。
しかし、釈迦が政治と一線を画していたことだけは間違いない。
とにかく釈迦は、人間の根元的な苦悩である老・病・死の問題を政治が解決しないことを知っていた。
政治には、行政、外交、軍事だけでなく、医療、科学、教育、経済が含まれる。
(だから)早い話が、政治は世間だ。
よって、釈迦は、世間を捨てた。
政治を捨ててアナキストになったのだ。
私(=ひろさん)はそう思う。
これが仏教の基本的な姿勢(スタンス)である。
仏教はアナキズムなのだ。
反政治の原理である。
とされているのだが・・・。
これは三段論法ですね。
①仏教は出世間だ。
→②政治は世間そのものだ。
→③だから、仏教は出政治(?)なのだ、
すなわち、出政治(?)=アナキズムなのだ。
という・・・。
ちょっと前置きだけで、かなり長くなってしまったので、次回に分けます(なので、日付は同じにします。ただし、内容は大したことないですが、次回はもっとずっと分量が多くなります)。
とにかく、内容は 1 回分には収めるようにします。すみませんが、あらかじめご了承願います)。
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・誤謬~ごびゅう~あやまり。まちがい。
(用例)誤謬を犯す。
・三段論法~さんだんろんぽう~推理法の一つで、三段階に進めていく推論の仕方。
例えば、
①すべての(肉体)人間は死ぬ。
②ソクラテスは(肉体)人間である。
③ゆえに、ソクラテスは死ぬ。
というような論理の展開。
①と②をそれぞれ大前提と小前提、③を結論という。
この例えを、私流に勝手に変えさせてもらえば。
① A は B だ。
② C は A だ。
③だから、C は B だ。
すなわち、
①肉体人間は必ず死ぬんだ。
②ソクラテスは肉体人間なんだ。
③だから、ソクラテスは必ず死ぬんだ。
となりますね。