おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

157_原仏8ー7

ちょっと、読書感想文を書きます。

前回の ( 156_原仏8ー6 - おぶなより ) で、お釈迦さんは、神々も世間の人々も悪魔の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で悪魔の軍勢を打ち破る、としていました。

世間の人々なら悟りに遠いのはまだわかりますが、神様ってそんなダメな存在なんですか?

この経典の文句が本当ならば、お釈迦さんも、ずいぶんとしょっていますよね。

神様より明らかにご自分の方が上だ、と言い切ってしまっているのだから。

原始仏教経典のスッタニパータでは。

お釈迦さんが悟りを開き、神霊の体ではなく、肉体という身体をまとうという、ものすごく不利な条件を課されながらも(肉体人間という一大ハンディキャップを負いながらも)、神霊そのままの想念と行為をあらわし得た、という偉大さから、肉体をまとったことのない神霊さんから尊敬を集めるにしても、なんかちょっと行き過ぎのような気がしないでもないような・・・。

あとにも出てきますが、梵天という神様もお釈迦さんに対して、人々の教化を懇願するんです。

梵天という神様が、しかも絶対的な高位(高い地位)な神様が、お願いをするのですから。

まさか、あれら(お釈迦さんは悪魔を退けることができるが、神々はできないとされることと、梵天という高位な神様が、人々の教化を折り入ってわざわざお釈迦さんにお願いするということ)は後世の経典作者の創作で、お釈迦さんのことを、なんでもかんでも絶対者として祭り上げたいために、勇み足をしたなんてことはないですよね?

ところで。

五井先生的にいうと、確か、神様は大まかに二つにわけられます。

法則の神と救済の神です。

法則は、あらゆる生命や宇宙をはじめ、すべてのものを司る、与える形の神様ですね。

それに基づいて、私達の因縁因果も、地球も、宇宙も、もう、あらゆる星々も運行されている。

いわば、与えられた規則だから、変えるわけにはいかないらしいんですね。

たとえば、肉体人間の都合で、ああしてほしい、こうしてほしい、と勝手に願いをされて、いちいち聞き入れていたら、法則もぐちゃぐちゃになり、おそらく、宇宙の運行もめちゃめちゃなことになってしまう。

だから、法則は変えない、と。

そして、神界から、徐々に神様の光か降りてきて、霊界、幽界、現界として、今私達が五感で感じる物質界たるこの世がある訳ですが、この世、今の地球のような世界を、神様の世界そのままを映し出すまでには、たくさんの段階があって、そう簡単にはいかないらしいんですね。

特に、五感で感じる物質世界を徐々に引き上げて開発していくために、肉体という粗い波動をまとい、自己保存と生殖をはじめとするやや排他的な動物的な本能を付与された私達は、その本体たる神様の完全円満、真善美に悖らない、想いと行いに程遠い、業想念による想念と行為を積みに積んでしまっているからです。

で、この業想念とそれにもとづく行いは、決してそのまま放置されることはないんですね。

なぜならば、この神界、霊界、幽界、現界はすべて神様がおつくりになったものなのだから。

現界、時系列的に言えば、この世で私達がなしてしまった、真善美に悖る想念と行為は、清算して消し去られる定めにあることになるんですね。

神様の世界には、完全円満に悖る、真善美に悖るところの、あらゆる想念と行為は、本来は無いもの、あってはならないものだから。

波動を粗くして、本来はなかった、肉体世界を開発する便宜上与えられた自己保存や生殖などの動物的な本能のために、業想念を生じ、真善美に悖る行為をすることになってしまった。

しかし、これは本来はあってはならないものだから、隔世をする形で、あらわれては消え、あらわれては消え、と順次消されていく、と。

ただ、隔世という、輪廻転生を通した「時間差がある」ために、このことがなかなかわからない。

何か真善美に悖るよからぬことをしたとしても、この世ですぐに、その清算がなされない、来世以降に持ち越しになることが大半だからです。

だから、世間でよく言われる、バチが当たるなんて、わかりやすく、単純な事例は滅多に起きない。

だから、この世が見方によっては、本当にデタラメでムチャクチャが罷り通っているように見える。

現在の世の中に、阿鼻叫喚の出来事が起きたり、不幸災難がそれなりにあるのは、私達があまたの過去世を通して、いかに業想念を積んでしまっていたか、の裏返しであるわけです。

そんなことを言われても、到底理解もできないし、納得できないことなんですが。

こんな、善が栄えない、お世辞にも地上天国とは言えない、この世は、本当に厳しい。

ちょっと、ひどいですよね。

しかし、考えてみればわかるように、私達が普段から、抱く想念と行為を考えても、そのすべてのものが輪廻転生の過程に載るとすれば、地球さんはとっくの昔に滅んでしまっているであろうことは、容易に想像がつきます。

この、過去世からたまりにたまる業想念の現界での具現化を、その前に浄めて消して下さるのが、救済の神になる、守護神さんと守護霊さんになるらしいんですね。

もちろん、なんでもかんでも、浄めて救済して頂ける訳ではないそうなんですが。

ただ、肉体をまとい、あまたの輪廻転生を通して、各自の神霊の魂を汚してしまった分を浄めて、魂をきれいにして、成長させて下さるように、支えて下さっている。

だから、自分で勝手に生きているようで、ずいぶんと陰に日向にお助けを頂いているらしいんですよ。

一般的には、見えない人がほとんどなので、わからないのも無理もないのかもしれませんが。

で、スッタニパータのあの箇所で神々とされたものは、どのような存在なんですかね?

少なくとも、法則の神でないことだけは、確かですね。

救済の神は・・・。

守護の神霊さんが、妄念にそんなに簡単にやられるものなんでしょうか?

業想念にまみれた肉体人間が、守護の神霊さんがいくら救いたくても、五感にまつわる各種の欲に振り回されて、その親心がわからない、それで、業想念を積んでしまう、のならわかる気がするんですが。

どのような神霊を神々と言っているのでしょうか?

これが、ちょっとわかりませんでした。

以上で、第一章 誕生と求道 ー 『スッタニパータ』 (1) を終わります。

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①追記: 2020/11/05 12:05
②追記: 2024/04/13 04:07
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

156_原仏8ー6

前回 ( 155_原仏8ー5 - おぶなより ) の続きです。

それでも悪魔は、以下のようないくつかの軍隊と呼ぶ手下をよこして、お釈迦さんを揺さぶろうとします。

第一は、欲望、
第二は、嫌悪、
第三は、飢渇、
第四は、妄執、
第五は、ものうさ、睡眠、
第六は、恐怖、
第七は、疑惑、
第八は、インチキな形で得た、利得、尊敬、名誉と蔑みによる軽蔑。

それは、お釈迦さんによると、黒き魔の攻撃軍と呼ばれ、以下のようになっています(段落分けなどの改変あり)。

「汝の第一の軍隊は欲望であり、
第二の軍隊は嫌悪であり、
第三の軍隊は飢渇であり、
第四の軍隊は妄執といわれる。
汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、
第六の軍隊は恐怖(他人に恐怖感を起こさせる)といわれる。
汝の第七の軍隊は疑惑であり、
汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、誤って得られた(誤って得た場合にはまちがいを起こす)利得と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
ナムチ(悪魔のこと)よ、これらは汝の軍隊である。
黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
勇者でなければ、彼(悪魔のこと)にうち勝つことができない。
勇者はこれらにうち勝って楽しみを得る。
このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか?(敵に降参してしまうだろうか?)」(*1)

終わりと一文のムンジャ草のくだりは、インドでは精神的に絶対に屈服しない強い意思のあらわれとされます。

「この場合、(わたくしにとって)命はどうでもよい。
わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。」

(以上、四三六ー四四〇 )

これは、インドでよくいわれる言い回しで、精神的な言い回しを指しています。

「或る修行者たち
バラモンどもは、この(汝の軍隊の)うちに埋没してしまって、姿が見えない。
そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
軍隊が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。
わたくしをこの場所から退(しりぞ)けることなかれ。
神々も世間の人々も汝(悪魔)の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。
ー まだ焼いていない生の土鉢を石で砕くように。
みずから思いを制し、よく念(おも)い(注意)を確立し、国から国へと遍歴し よう。
ー 教えを聞く人々をひろく導きながら。」

( 四四一 ー 四四四 )

当時の修行者は、一ヶ所にとどまることで、そこに愛着や腐れ縁が生じないように、そのために遍歴する習わしになっていたようです。

何事にもとらわれないような心構えになった上で、その生き方や教えをひろめていく。

そのような形であったからこそ、仏教が普遍的な宗教としての特長を得た、と中村さんはお考えになっているように読み取れました。(*2)

修行中のお釈迦さんを、悪魔は何とか、堕落させようと、様々な妨害を試みるが、すべて退(の)けられてしまいました。

その降魔の様子は、以下のように書かれています。

「彼ら(本当に教えをきこうという人々)、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。
そこに行けば憂えることのない境地(解脱の境地)に、かれらは赴(おもむ)くであろう」と。(*3)

そういう(お釈迦さんの)断固たる決意を聞いて、悪魔は言った。
ー 「わたくしは七年間も釈尊(お釈迦様さんのこと)に一歩一歩ごとにつきまとうていた。
しかしよく気をつけている正覚者(仏。お釈迦さんのこと)にはつけこむすきを見つけることはできなかった」)(*4)

( 四四五 ー 四四六 )

釈迦は、29 才で出家、35 才で悟りを開いたから、6 年のように思いますが、その修行年数は数え方で変わるようです。

そして、中村さんは、悪魔の敗北宣言として、以下のものをあげています。

「カラスが脂肪の色をした岩石の周囲を巡って
『ここに柔らかいものが見つかるだろうか』
『味のいい、おいしいものがあるだろうか』
というようなそんなことを自分はしていた。
ここに美味が見つからなかったのでカラスは飛び去った。
岩石に近づいたそのカラスのように我らはあきれてしまって、釈尊(お釈迦さんのこと)を捨て去る。」
悲しみにうちひしおれた悪魔のわきから、琵琶がパタッと落ちた。
ついでかの夜叉(神霊を指すが、この場合は悪魔)は意気消沈して、そこに消えうせた。

( 四四七 ー 四四九 )

以上で、スッタニパータでの、釈迦の生涯に関する、主なパッセージ(節)を見ました。

修行中のお釈迦さんに対して、悪魔はつけこもうとしたが、お釈迦さんはそれには屈しなかったことを仏伝では伝えています。これを昔から、降魔(ごうま。悪魔を降(くだす) )と言います。

仏伝が発展すると、悪魔の数も増えてくるそうです。

中村さんは、このスッタニパータでは、後の仏伝で潤色される以前の、ただひたすら道を求める釈尊(お釈迦さんのこと)の姿が描かれているとしています。(*5)

~~~~~

(*1)・汝~なんじ~対称の人代名詞。そなた。おまえ=女・爾(ナンジ)←→我。
川の意の水と、音をあらわす女(じょ)とで、二人称代名詞なんじの意に用いる。

・欲望~ほしいと思い望むこと。また、その心。

・嫌悪~憎みきらうこと。ひどくきらうこと。

・飢渇~きかつ~飲食物が欠乏すること。飢えとかわき。けかつ。

・妄執~もうしゅう~心の迷いからおこる執念。ある物事に執着すること。妄念。

・ものうさ→(参考)物憂い~何となく心が晴れない気持ちである。気がふさいで、おっくうに思うさま。けだるい。ものうさは、これから派生した語。

・睡眠~①ねむること。ねむり。
②(転じて)活動をやめていること。

・恐怖~恐れること。恐れること。恐ろしく思うこと。

・利得~利益を得ること。利益。もうけ。

・尊敬~他人の人格・行為などをたっとび敬(うやま)うこと。

・名誉~①すぐれている、価値があると世に認められること。また、そのさま。ほまれ。
②世間から得た評価。体面。
③(地位をあらわす代名詞の上につけて)功績のあった人に敬意をあらわして贈る呼び名。
(用例)名誉会長。

・軽蔑~見くだしてばかにすること。

(*2)中村さんは大学者さんのためか、難しい言い回しによる書き方や、あまり一般的とは思えない語句をまま用いることがあるように思います。

知識量が膨大なために、何の気なしにお書きになるきらいがあるのかもしれません。

教養がない私からすると、わからなくて悩むことが多いので、ことによっては、独断と偏見による曲解した意訳になったとしても、つとめて平易に書き換えるようにしています。

私に理解できるように書けば、私よりずっと上であろう読まれる可能性のある方々には、軽々と読んで頂けるはずだ、と考えているからです。

そのために、時々、このような書き方になりますことを、あらかじめご承知置き下さい。

(*3)専心~せんしん~一つの物事だけに心を集中すること。専念。

(*4)釈尊~しゃくそん~お釈迦さんの尊称。

・尊称~そんしょう~尊敬の意を込めた呼び名。←→卑称。

(*5)・仏伝~国語辞典にも漢和辞典にも載っていません。

仏教の伝記でしょうか?

わかりません。

・潤色~じゅんしょく~(色を塗ってうるおいをそえることから)事柄をつくろい飾ること。話などにおもしろみを加えて仕上げること。

中村さんが、こうした潤色という言葉を、お使いになるということは・・・。

私が中村さんに大乗仏教にもしかしたら・・・と、アタリをつけた根拠の一つです。

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①追記: 2020/11/05 01:08
②追記: 2024/04/13 03:41
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

155_原仏8ー5

四 降魔

降魔。

ごうま。悪魔を降(くだ)す。

とうとう出ました。

悪魔の話です。

国語辞典では、降魔は、悪魔を降伏させること、と出ています。

神々のところでも感じましたが、これらは固有の意思と人格を持ち、あたかも人間のような形で、お釈迦さんに対比、あるいは、対話する形で描かれています。

以前述べましたが、やはり、これらは、お釈迦さんや周辺の人々の頭の中で作り出した想像上の産物としての存在か、話をつくるためのたとえとしての存在ではなく、固有の何らかの霊的な存在か、これに準じるもの、と考えるほうが自然だと思います。(*1)

ただ、お釈迦さんの生まれてくることを、まるで、無邪気な子供のように喜んでいる神々の姿は、可愛らしく描写されているな、あまり、「われは神であるぞよ」と威張った感じではないな、と思いましたが。

慈愛に満ちて落ち着いた感じとは、また、ちょっと異なるような。

それはともかく。

悪魔は、出家して修行中のお釈迦さんを、悟りを開かせないよう、挫折させるべく、誘惑や(悟りを得た後には)脅しなど、様々な形で仕掛けてきます。

しかし、これを見事に退散させたように経典に描くことで、お釈迦さんの偉大さを表現しているのでしょう。

正義の味方のようなヒーローものよろしく、お釈迦さんの偉大さに彩りを加えるためには、悪役としての悪魔が必要、ということなのでしょうか?

わかりませんが。

言い方は悪いですが、いわば、お釈迦さんの権威づけの脚色をするための存在として、悪魔は出てくる側面がある訳です。

修行によって、やせさらばえていく、健康を害するかのようなお釈迦さんの姿を見て、悪魔は誘惑にかかります。

そんなに、死にそうになるほど突き詰めて苦行しなくても、形式的なバラモンの祭祀を行って、これが(バラモンでは)善行とされているのだから、十分ではないか、生きていてこそのものだねだろう、と。(*2)

これが、スッタニパータの 第 四二五 以下に出ています。

以下の通りです。

まずは、悪魔がお釈迦さんを惑わすために近づくところから始まります(段落分けなどの改変あり)。

ネーランジャラー河の畔(ほとり)にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、
(悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った。(*3)

(四二五ー四二六)

ネーランジャラー河は、お釈迦さんが悟りを開いた場所で、ナムチは、インドのリグ・ヴェーダ以降にあらわれてくる悪魔の名前です。

「あなたは痩(や)せていて、顔色も悪い。
あなたの死が近づいた。
あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。
君よ、生きよ。
生きたほうがよい。
命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。」
(四二七)

善行は、ヴェーダの祭祀をすることで、功徳を積む意味です。

「あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物(そなえもの)をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。
苦行に身をやつれさせたところで、何になろうか。
つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」
こう言って、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。
ところが尊師(ブッダ=お釈迦さんのこと)は次のように告げた。 
ー 「怠け者の親族よ、悪(あ)しき者(悪魔の別称)よ。
汝(なんじ)は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、わたくしにはその世間の善業を求める必要は微塵もない。
悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。」

(四二八ー四三一)

つまり、福にあずかりたい(一般的な)人々には、世間一般に善とされていた、ヴェーダの祭祀儀礼を行うように語りかければいいだろう、しかし、私(お釈迦さん)にはまったくその気はないのだから関係ないのだ、と。

「わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。
このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命(いのち)をたもつことを尋ねるのか?
このはげみから起こる風は、河水の流れをも涸(か)らすであろう。
ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇(こかつ)しないであろうか。
(身体の)血が涸れたならば、胆汁(たんじゅう)も痰(たん)も涸れるであろう。
肉が落ちると、心はますます澄んでくる。
わが念(おも)いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。
わたくしはこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない。
見よ、心身の清らかなることを。」

(四三二ー四三五)

このように、お釈迦さんは修行により、清らかなる心身を得ていく訳ですが、悪魔はあきらめずに、さらに様々な誘惑を仕掛けてきます。

長くなりましたので、この話は、次回に譲ります。

~~~~~

(*1)五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)は、悪魔の存在は認めていないので、ここに出てくるような悪魔の存在は、さしずめ、迷った妄念の消えてゆく姿か、あるいは、肉体を持たない、キツネやタヌキやヘビといった、神性を有しない幽界(想いの世界)の迷った生物となると思います。

(*2)・祭祀~さいし~神を祭ること。祭り。祭典。

(*3)・安穏~あんのん~(あんおんの連声)変わったこともなく、穏やかなこと。平穏。

・連声~れんじょう~二つの語が連接するときに、前の音節の末尾の m・n・t が、あとの音節の母音・半母音に添加されて マ・ナ・タ 行の音となる現象。

・雪隠 せついん
setuin → setutin( t追加)
せっちん ア行→タ行

・観音 かんおん
kannonn → kannnonn (n追加)
かんのん ア行→ナ行

・三位 さんい
sani → sanmi(m追加)
さんみ ア行→マ行

因縁 いんえん
inen → innen(n追加)
いんねん ア行→マ行

なお、中世の現象で、近世以後は固定した特定の語だけが残った。

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①追記: 2020/11/04 04:47
②追記: 2024/04/13 02:35
③追記: 2024/04/13 02:44
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

154_原仏8ー4

三 出家

この部分は、書かれている分量が少ないせいもあるのかもしれませんが、私見ながら言わせてもらえば、事実関係に齟齬(そご。意見や物事が食い違っていること)があり、ちょっとわかりにくいです。

具体的には、こうです。

その前に、大まかな見取り図を書きます。

きわめて大雑把ですが、ご容赦下さい。

当時、北から順に釈迦族の国、コーサラ国、マガダ国という位置関係で、3 つの国がありました。

釈迦が出家して、修行者となり、マガダ国の王のビンビサーラ王に会った歴史的事実が出てきます。

その時に、ビンビサーラ王は、お釈迦さんが並々ならぬすぐれた修行者であることを察知しても、その出自はまだわからないように書かれています。

ならば、お釈迦さんが釈迦族の王子であることはわからないはずです。

王子にふさわしい、容貌と品格を備えていて、会うことができた訳ですから、近隣の王族関係者だとは推定できるでしょう。

しかし、ビンビサーラ王がマガダ国の王として、対立している隣国のコーサラ国の先、釈迦族の国の王子かどうかは、お釈迦さん自身がはっきり明言しない限りは特定できないはずです。

それにもかかわらず、ビンビサーラ王が、お釈迦さんに王に戻るように言い、その国は釈迦族の国であり、ビンビサーラ王のマガダ国と通じること(お釈迦さんに対して軍事・経済援助を申し出たこと)を言い出したのは、おかしくはありませんか?

どこの国の王子か確定できないのにもかかわらず、軍事・経済援助を申し出るのは。

ここでは、ビンビサーラ王が、釈迦族の国の王子であるお釈迦さんに、軍事・経済援助をすることで、コーサラ国を挟み撃ちしようとすると考えるなんて。

おかしくはありませんか?

なぜならば、ビンビサーラ王は、お釈迦さんに対して、以下のように言っているからです(段落分けなどの改変あり)。

「象の群を先頭とする精鋭な軍隊を整えて、私はあなたに財を与えよう。
それを享受なさい。
私はあなたの生まれを問う。
これを告げなさい」

(四二一)

つまり、私はあなたの生まれは知らない、王子であろうとは思うが、どこの国の王子かはわからない、しかし、軍事・経済援助はしよう。

ちぐはぐで、おかしくないですか、これは。

だから・・・。

書きたいんですが、ちょっと不確定要因が多いので、書きたくないんです。

書くとすれば、仮定をいくつか立てて、書きわけなければならなくなるからです。

ですので、この部分はいずれ、周辺を調べて、めどがついたら、書き直したいと思います(または、放置するかもしれません。悪しからず)。

ご容赦下さい。

このままでは、ここに書かれているように単純な形で、お釈迦さんが世俗的な誘惑を断ち切って、ビンビサーラ王の申し出を固辞したとは、書きにくいのです。

中途半端ですみませんが、お許し下さい。

私の読解力不足、誤読の可能性も高いですが、とにかく保留とさせて下さい。

お願い致します。

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追記: 2024/04/13 02:11
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

153_原仏8ー3

前回 ( 152_原仏8ー2 - おぶなより ) の続きです。

二 誕生 のアシタ仙人の話からです。

アシタ仙人は、赤ん坊のお釈迦さんを抱きかかえて、今で言えば手相や人相でしょうか、その特徴から、彼がただならぬ者であり、素晴らしい悟りを得ていずれは多くの人々に教えを説き、導く聖者であることを読みとって歓喜したが、自らは彼(お釈迦さん)が成長して教えを説くまで生きていられないことを嘆き、落涙することが出ています。

そして、自分は生きて教えを受けることは叶わないが、甥のナーラカに、将来、お釈迦さんに帰依するようにすすめる話が出ています。

以下の通りです(段落分けなどの改変あり)。

カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は、こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。
ー その児は頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて、黄金の飾りのようであった。
(この仙人)、相好と呪文(ヴェーダ)に通暁している彼(アシタ仙人)は、シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、特相(特徴)を検(しら)べたが、心に歓喜して声をあげた。
ー 「これは無上の方です。人間のうちで最上の方です。」
時に仙人は自分の行く末を憶って、ふさぎこみ、涙を流した。
仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った。
ー 「われらの王子に障りがあるのでしょうか?」
シャカ族の人々が憂えているのを見て、仙人は言った。
ー 「わたくしは、王子に不吉の相があるのを思い続けているのではありません。
また彼に障りはないでしょう。
この方は凡庸ではありません。
よく注意してあげて下さい。
この王子様は最高のさとりに達するでしょう。
この方は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。
この方の清らかな行いはひろく弘まるでしょう。」(*1)

(六八九ー六九三)

清浄は清らかな境地で、法輪をまわす、は教えを説くことです。

「ところが、この世における私の余命はいくばくもありません。
(この方が悟りを開かれる前に)中途でわたくしは死んでしまうでしょう。
わたくしは比なき力ある方の教えを聞かないでしょう。
だから、わたくしは、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」
かの清らかな修行者(アシタ仙人)はシャカ族の人々に大きな喜びを起こさせて、宮廷から去っていった。
彼は自分の甥(ナーラカ)をあわれんで、比なき力ある人(ブッダ)の教えに従うようにすすめた。
ー 「もしもお前が後に「目ざめた人あり、さとりを開いて、真理の道を歩む」という声を聞くならば、その時そこへ行ってかれの教えをたずね、その師のもとで清らかな行いを行え。」
その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の清らかな境地を予見していた。
その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ、みずからの感官をつつしみまもって暮らしていた。
(すぐれた勝利者が法輪を回したもう)との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起こし、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。(*2)

(六九四ー六九八)

聖者の境地は、主に出家修行者のためので、内容は以下の通りです。

(ナーラカは尊師(ブッダ。お釈迦さんのこと)に言った)、
「アシタの告げたこの言葉はそのとおりであるということを了解しました。
故に、ゴータマ(お釈迦さんのこと)よ、一切の道理の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。
わたくしは出家の身となり、托鉢の行を実践しようと願っているのですが、おたずねします。
聖者よ、聖者の境地、最上の境地を説いてください。」
師(ブッダ)はいわれた、
「わたくしはあなたに聖者の境地を教えてあげよう。
これは行いがたく、成就し難いものである。
さあ、それをあなたに説いてあげよう。
しっかりとして、堅固であれ。
村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
(罵られても)心に怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。
たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。
婦女をして彼を誘惑させるな。
婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲を捨てて、弱いものでも、強いものでも、諸々の生きものに対して、敵対することもなく、愛著することもない。
「彼らもわたくしと同様であり、わたくしも彼らと同様である」と思って、わが身に引きくらべて、(生きものを)殺してはならぬ。
また、他人をして殺させてはならぬ。
凡夫は欲望と貪りとに執著しているが、眼(まなこ)ある人はそれを捨てて道を歩め。
この(世の)地獄を超えよ。
腹を減らして、食物を節し、小欲であって、貪ることなかれ。
かれは貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。」(注3)

(六九九ー七〇七)

~~~~~

(*1)・結髪~けっぱつ~髪を結うこと。また、結った髪。

・相好~そうごう~人の顔かたち。顔つき。表情。

・通暁~つうぎょう~非常に詳しく知りぬいていること。

・障り~さわり~①さしつかえ。都合の悪いこと。
②さまたげ。じゃま。

・凡庸~ぼんよう~すぐれた点がないこと。また、そのさま。平凡。また、その人。凡人。

(*2)・善根~ぜんこん~よい果報をもたらすよい行い。善業(ぜんごう)。

・感官~かんかん~外界からの刺激を受ける器官と、これを神経系に伝え知覚させる器官。感覚器官。

(*3)・托鉢~たくはつ~僧が修行のために鉢(はち)を持って家々を回り、米や銭の喜捨を受けること。

喜捨~きしゃ~喜んで寺社や僧に財物を寄進し、また、貧者に施すこと。

・聖者~せいじゃ~聖人。偉大な信仰者。

・堅固~けんご~①守りがしっかりしていて、簡単には破られたりしないこと。また、そのさま。
②意志が強く、心が動かないさま。
③健康で丈夫であるさま。

・婬欲~いんよく~異性の肉体を求める情欲。色欲。

・愛著~あいじゃく~愛着の古い言い方。元は仏教で欲望に執着する意。

・愛着~あいちゃく~その物事に心がひかれ、離れがたく思うこと。また、その気持ち。

・愛着~あいじゃく~仏教語~欲望にとらわれて人や物に執着すること。また、男女の愛に執着すること。愛執(あいしゅう)。

・執著~しゅうじゃく~仏教語~執着のこと。深く思い込む。物事に強く心がひかれる。

・厭きる~あきる~飽きると同じ。

最上の境地を、世界平和の祈りの現代風に読み替えると、こんな感じでしょうか。

とにかく、神様を信じよ。

といっても、過去世からの様々の因縁があり、動物のようにこの世にあらわれている、五感で認識できる人間=人間という肉体人間観も根強いので、世界平和の祈りを根本にして、神様におすがりせよ。

罵られても、過去世の悪い因縁の現界(この世)での時を経て消えてゆく姿、怒りそうになったら世界平和の祈りに入れよ。

敬礼されても、過去世のよき因縁の現界での時を経て消えてゆく姿、高ぶりそうになったら世界平和の(南無阿弥陀仏の)祈りに入れよ。

よきことも、悪しきことも、全部、過去世の因縁の現界(この世)で時を経て消えてゆく姿、神様ありがとうございます、と感謝できるように、想いを乱さないようにしながら、少しずつ段階を踏んで精進せよ。

たとえ、一時的に静かな森の中のような境遇にあっても、過去世からの因縁は、次々に現界(この世)にあらわれてくる。

悟りを得るに遠いほど悪しき因縁の深い女性は、聖者さえも誘惑する。

こうした女性の誘惑はあくまでも消えてゆく姿である。

突き放すだけである。

付与された動物的な本能(性欲)ばかりにかかずらわらないようにせよ。

強きものでも、弱きものでも、生き物はすべて神様のあらわしたもの。

私達肉体人間を含め、みんな神様のあらわしたもの。

本来なら、お互いに認め合い、愛し合い、慈しみ合い、敵対することもなければ、執着しすぎることもない。

愛を持って、ふんわりとしていればいい。

思いが乱れそうになったら、世界平和の祈りをもって、神様に入ってお任せする。

いかなる生きものも、わが身にひき比べて、痛めたり、殺したりしてはならない。

皆、神様のあらわしたものだから、感謝とともに尊重し合うのが、私達のあるべき姿である。

人様を惑わせて、他のいかなる生きものも、痛めつけるように仕向けたり、殺すように仕向けたりしてはならない。

ごく普通の人は、基本的に過去世の因縁を果たす(=清算する)ためにこの世に来ているから、悟りには遠いのが一般的なので、どうしても、五感にまつわる、各種の欲望、財欲、金欲、肉欲(性欲)に執着しやすい。

しかし、少しでも神様のみ心に沿ったよき生き方をしたければ、これらを認識して、こだわらないようにと、気持ちにとどめよう。

この、過去世からの真善美に悖る業想念の渦にまみれた、この世の激しい流れの海を乗りきろう。

そうするように、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行を根本に、人格の向上を基本に段階を踏んで精進していこう。

食べ物なら、植物も、動物も、すべて神様の命を頂いて生きていたもの。

それが、肉体人間の身体の生命活動のためにその身を捧げてくれている。

こうしてありがたいことなのだから、決して肉体を維持する必要限度以上に、食物を貪り過ぎないようにして、感謝とともに頂こう。

私達の生命維持活動のために犠牲になってくれているのだから、欲をかきすぎないように心がけよう。

そうすることが、最終的には安らかな心に繋がっていき、ほんのわずかでも、悟りに近づいていくことになるのだから。

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①追記: 2020/11/01 11:38
②追記: 2020/12/03 01:05
③追記: 2024/04/13 01:58
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

152_原仏8ー2

**********

まず、はじめにお断りをしておきます。

以下、中村さんの言うところの、釈迦の生涯に関する3つのパッセージ(文章や談話の句・節)が、
二 誕生、
三 出家、
四 降魔(ごうま。悪魔を下すこと)、
の3つにわけて、簡潔に述べられています。

まず、この3つ、特に ( 二 誕生 ) と ( 四 降魔 ) ですが、経典の中に、肉体人間とは明らかに異なると生き物しか解釈できない、神や悪魔といった類いの存在が登場します。

以前、六師のところで出てきた人々(や弟子なのかな?)の

「我(霊魂)および世界は常住であるか、あるいは無常であるか?

我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか?

身体と霊魂とは一つであるか、あるいは別のものであるか?

修行を完成した人格者は死後に生存するか、あるいは生存しないのか?」

といった質問には、お釈迦さんは答えなかったとされています。

いわゆる、無記と呼ばれるものですね。

しかし、経典を見ていく以上、しかもその中に、明らかに肉体人間や動物とは異なる、神や悪魔といったものが登場してくるからには、無記で済ませることはできません。

無記では、話が進められないのです。

いくら、形而上学的な議論が無意味だといったところで、それでは済まされないはずです。

お釈迦さんほどの人ならば、仏教経典がつくられ、その中に神や悪魔が登場する内容になることを、わからなかったはずがありません。

神通力をもっていたはずだからです。

未来のこと、仏教経典の歴史的な展開もわかっていたはずです。

だから、せめてこういった存在、肉体を持たない何らかの形で存在を認識できる生物(ですかね。うまく表現できませんが)については、最低限言及しておくべきだったのではないかと思うんですよ。

六師の人達にしても、その弟子筋の人達にしても、当時の最高の修行者であるお釈迦さんに、五感で認識できるような唯物論での結論は出せないまでも、最も信頼できる修行者として話を聞きにきているんです。

ただ、お釈迦さんを論破したい、理屈でねじ伏せたい、だけではなくて、その深層には、真実が知りたい、本当のことが知りたい、当代随一の修行者でブッダとなったお釈迦さんの考えが知りたい、とらえ方が知りたい、と訪ねていった側面があるはずです。

二千五百年ほども前の話です。

当時の知識も、これを補う道具だても何もかも、今とは比較にならないほど不便だったでしょう。

それでも、お釈迦さんの一言さえあれば、彼のとらえ方さえわかれば、だいぶ状況は変わった可能性があるのではないか、と考えてしまうんです。

ですので、唯物論での証明は、できないまでも、お釈迦さんの知りうること、考えを明らかにしておくべきだったのではないでしょうか?

それを、無記としてしまうとは・・・。

なぜ、こんなにグダグダいうかですが。

量子や素粒子レベル?なりで、証明はできなくとも、お釈迦さんが感得した限りでは、霊魂とはこのようなものだ、神とはこのようなものだ、悪魔とはこのようなものだ、と一応結論を出しておけば、あとは彼を信じるかどうかは質問者の判断に任せればいいですよね?

そうして、霊魂なり、神なり、悪魔なりが一応規定できれば、神や悪魔の載っている原始仏教経典の意味がよりわかりやすくなるはずです。

もし、これらの存在を否定してしまう、あるいは架空な想像上の産物としての存在とする、もしくは単なるたとえ話での存在としてしまうと、あれは一体、何をいっているのかかが、わからなくなってしまうからです。

仮にたとえ話での存在とすれば、あれらのお経の意味はどうなると思いますか?

大乗仏教の経典なら、もうかなり飛躍的ですから、いいのかもしれませんが、原始仏教経典ならば、こうした行き方は、お釈迦さんの言葉の裏付けがなければ、あまりふさわしくないのではないですか?

個人的な偏見ですみませんが、梵天という神様のことも含めて、ずっと引っかかっていたもので。

ご勘弁下さい。

お釈迦さんの人となりを偲び、その生き方にそって学ぶといっても、神や悪魔がその物語に彩りを添える形なら、それなりにその存在を明らかにしておくべきではないですか?

仮に、お釈迦さんの無記の立場を継承するなら、神や悪魔の出てくる原始仏教経典を解説する場合に、どのような認識をもって解説されているのでしょうか?

存在をほのめかた経典を扱いながらも、無記の立場を継承しつつ、神や悪魔や霊魂を、いわば、宙ぶらりんなまま話をすすめる・・・。

・・・。

原始仏教経典のあの部分をみていると、あれらの存在は、お釈迦さんの偉大さ、すばらしさを表現する、いわば、演出にもとれる側面がある訳です。

仮に、これを演出と呼ぶことを許して頂けるならば。

例えば、江戸時代の浄土門妙好人に宇右衛門(うえもん)さんという人がいました。

五井先生の本(生きている念仏)で読んだ宇右衛門さんの行いには、決して、神様だの、悪魔さんだの、絢爛豪華で派手なことや、美辞麗句は、一切出てきません。

ひたすら地味ですが、私には胸を打つものがあったのです。

特に村の悪い青年達を立ち直らせた話は、胸に染み入るような感じでした。

私がおかしいのかもしれませんが、涙がこぼれたことさえあったのです。

何もわざわざ御大層に、神様や悪魔さんに出張って頂かなくとも、立派な行いはできるのです。

本当に信仰心の篤(あつ)い人には、派手な演出は関係ありません。

必要ないはずです。

ただただ、人として(神様の子として)よき(想念と)行い、これさえあればいい、できればいい。

宇右衛門さんのように、神様(阿弥陀如来様)の中に入りきって、無心になれば、このようになるはずです。

なので。

五井先生の本で、いくつか書かれているように、神様のみ心に沿った行いができるかどうか、これが大事なのではないでしょうか。

話がそれました。

まあ、神や悪魔のことを、霊的な存在を指して言ったのか、修行者を惑わす妄念を指して言ったのかは、わかりません。(*1)

あるいは、五井先生の言われるところの、幽界の生物に相当する存在なのかもしれません。

とにかく。

こういった、霊的な存在があることを前提とした上で、以降は話を進めていきたいと思います。

この本の、この箇所では、中村さんは、なぜか、一切、この問題には触れることなく、話を進めてしまっています。

**********

二 誕生

まず、お釈迦さんの誕生(これから肉体界である現界に、彼が肉体人間として生まれてくること)を神々が喜んでいる場面があります。

よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十人の神々の群と帝釈天とが、
恭しく衣をとって極めて讚嘆しているのを、
アシタ仙は日中の休息のときに見た。(*2)

スッタニパータ(六七九)

アシタという名の仙人が、食後の休憩の座禅・瞑想をしている時に、三十三人(三十は概数なので)の神々と帝釈天が、その誕生を寿いだのを見たとされています。(*3)

こころ喜び、躍りあがっている神々を見て、ここに仙人は恭しく、このように問うた。

「神々の群れがきわめて満悦しているのはなぜですか。
どうしたわけで彼らは衣をとって、それを振り回しているのですか。
たとえアシュラと戦って神々が勝利を博したときでも、神々がこんなに喜んだことはありません。」

と問いました。

これに対して、神々はこう答えたとされます。

「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(未来に仏になる方)は、もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです。 
ー シャカ族の村に、ルビンニーの聚落に。」(*4)

お釈迦さんの属していた種族は、シャカ族で、誕生地はルビンニーです。

続けて神々は言います。

「だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。
生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、やがて( 仙人(のあつまる所) )という名の林で(法)輪を回転するであろう。
ー 猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」

スッタニパータ(六八三ー六八四)

仙人(のあつまる所)名の林は、ベナレス郊外の鹿の園です。

仙人は神々の語るその声を聞いて、急いで人間世界に降りてきた。
そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のように言った。
ー 「王子さまはどこにいますか。私もまたお会いしたい。」と。

(六八五)

スッドーダナ王は、お釈迦さんの父で、漢訳仏典の浄飯王です。

そこでシャカ族の人々は、その児をアシタ仙人に見せた。
ー 溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき、幸福に光輝く尊い顔の児を。
火炎のように光り輝き、空行く星の王(月)のように清らかで、雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ、昂まる喜びでわくわくした。」(*5)

(六八六ー六八七)

インドの秋の空は澄んでいて、雲の影がほとんど見られないために、「雲なくして照る秋の太陽」という形容がなされ、これはのちの仏典にもよく出てきます。

神々は、多くの骨のある千の円輪のある傘蓋(傘)を空中にかざした。
また黄金の柄のついた払子で身体を上下に扇いだ。
しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。」(*6)

(六八八)

これはインドの習俗です。インドやネパールでは、国王などの後ろには待者が立ち、傘をかざします。だから、仏像には上に傘蓋(さんがい)があります。また、虫を打ち殺すことを嫌うので、払子で虫を追い払います。日本でも高僧は儀式を行う時には払子を用いるそうです。

いやー、おそらく当時の言葉と表現をあらんかぎりに用いたであろう、これでもかといった美辞麗句の嵐ですね。

あまりの大絶賛の嵐のためか、何か書いてても、かなり疲労感をもよおしてきたので、ここで区切ります。

次は、アシタ仙人の言葉からになります。

~~~~~

(*1)・妄念~もうねん~仏教語~迷いの心。迷妄の執念。妄執。

(*2)・帝釈天~たいしゃくてん~インドラ。バラモン経典のリグ・ヴェーダにおける最も強大な神。
・恭しい~うやうやしい~敬(うやま)いつつしむさま。丁重であるさま。

・讚嘆~さんたん~国語辞典にも漢和辞典にも出ていません。

(*3)寿ぐ~ことほぐ~新年・結婚・長寿などを祝う。喜びの言葉を言う。ことぶく。

(*4)・聚落~じゅらく~むらざと。落は村里。
・聚~しゅう、しゅ、じゅ~①あつまる。あつめる。
②あつまり。あつまった人。あつまった多くの物品。
③つむ。つもる。
④たくわえ。
⑤むらざと。村落。
ここでは⑤の意。

(*5)・溶炉~ようろ~金属を溶かすための炉。

・金工~きんこう~金属に細工を施す工芸。また、その職人。

・昂まる~たかまる、と読むと思うのだが、漢和辞典の読みには、こう、ごう、あがる、しか出ていない。
わかりません。

(*6)払子~ほっす~禅宗の僧のもつ法具の一つ。馬の尾や麻などをたばねて柄をつけたもの。

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①追記: 2020/11/06 06:26
②追記: 2024/04/10 01:45
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

151_原仏8ー1

第一章 誕生と求道 ー「スッタニパータ」(1)

一 「スッタニパータ」について

これは、仏典の中でも最も古く、お釈迦さんの思想や当時の人々の生活を伝えているものです。

スッタニパータは、元は別々の経典として五章にわかれていたものを、一つにまとめたものです。

スッタは経典、ニパータは集成の意味です。(*1)

スッタ←経典
ニパータ←集成

ここでは、素朴な最初期の仏教が示されています。大規模な僧院(精舎)での生活はまだで、修行者たちは樹下岩上に座して、洞窟で瞑想する簡素な生活を楽しんでいました。(*2)

修行者(比丘)は世を厭(いと)うて、人のいない(座)所や樹木や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。
修行者は音のしないところに坐臥していても、それらを恐れて震えてはならない。(*3)

「スッタニパータ」九五八ー九五九

当時は、墓石もなく、人の亡骸は森の中に投げ捨てたままでした。腐乱してもそのままで、鳥の餌にもなっていたようです。

そんな環境で、修行をして精神統一をする当時の修行者には、大変な覚悟が求められた訳です。

この経典では、お釈迦さんは、あくまでもすぐれた一人の修行者であり、新たな宗教の開祖たる意識はない形で描かれています。(*4)

彼が歴史上の人物であり、素朴な描写からも、その様子が歴史上の事実として、偲ばれる所以です。(*5)

中村さんは、彼はどこまでも諸々の宗教に通じる真の道を明らかにしたつもりだった、とお書きになっています。

以下、お釈迦さんの生涯に関する三つのパッセージを取り出して伝えたい、とお書きになっています。(*6)

~~~~~

(*1)・集成~しゅうせい~多くのものを集めて一つにまとめあげること。また、そのもの。集大成。

(*2)・樹下~じゅか~樹木の下。

・樹下石上~じゅかせきじょう~修行僧が露宿する木の下や石の上。出家の境涯のたとえ。じゅげせきじょうとも読む。

・露宿~ろしゅく~戸外に宿ること。野宿。

・境涯~きょうがい~この世に生きていく上でその人が置かれている立場・環境。身の上。境遇。

・岩上~これは、例によって、国語辞典にも、漢和辞典にも出ていません。

従って、樹下石上が一般的に用いられると考えられます。

(*3)厭う~いとう~①いやだと思って避ける。いやがる。
(用例)世を厭う。労を厭わない。
②いたわる。大事にする。
(用例)寒さの折から、お体をお厭いください。

・比丘~びく~仏教語で、出家して一定の戒を受けた男子。僧。
なお、女子は、比丘尼(びくに)。

・坐臥~ざが~すわること寝ること。日常生活。

・行住坐臥~ぎょうじゅうざが~ふだんの立ち居振る舞い。

(*4)中村さんは、釈迦が新たな宗教を開創したという意識はない、とお書きになっています。

・開創~かいそうでしょうか?
これも、またまた、例によって、国語辞典にも漢和辞典にも出ていません。

(*5)偲ぶ~しのぶ~①遠く離れている人や昔のことなどをなつかしく思う。恋い慕う。
(用例)亡き母を偲ぶ。
②心ひかれて慕わしく思う。
(用例)人柄が偲ばれる。
ここでは、②の意。

・所以~ゆえん~理由。いわれ。わけ。根拠。
(参考)語源は、漢文訓読語の「ゆえ(故)になり」、または、ゆえなりの音便形「ゆえんなり」からできた語。

(*6)パッセージ( passage )~文章や談話の句・節。音楽の楽曲の節。
passage パッサージ(フランス語)とも言う。

しかし。

学術的に意義があるのか、高度な意義があるのか知らないか、パッセージなんて(多分)初めて聞いたよ(忘れているのかもしれないが)。

耳慣れない言葉だなあ。

しゃれているのか、高等なのかは知らないが、私のような教養不足の人間には、わざわざこのような言葉を使う意味がわからない。

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①追記: 2020/10/31 06:26
②追記: 2024/04/09 23:35
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。