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まず、はじめにお断りをしておきます。
以下、中村さんの言うところの、釈迦の生涯に関する3つのパッセージ(文章や談話の句・節)が、
二 誕生、
三 出家、
四 降魔(ごうま。悪魔を下すこと)、
の3つにわけて、簡潔に述べられています。
まず、この3つ、特に ( 二 誕生 ) と ( 四 降魔 ) ですが、経典の中に、肉体人間とは明らかに異なると生き物しか解釈できない、神や悪魔といった類いの存在が登場します。
以前、六師のところで出てきた人々(や弟子なのかな?)の
「我(霊魂)および世界は常住であるか、あるいは無常であるか?
我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか?
身体と霊魂とは一つであるか、あるいは別のものであるか?
修行を完成した人格者は死後に生存するか、あるいは生存しないのか?」
といった質問には、お釈迦さんは答えなかったとされています。
いわゆる、無記と呼ばれるものですね。
しかし、経典を見ていく以上、しかもその中に、明らかに肉体人間や動物とは異なる、神や悪魔といったものが登場してくるからには、無記で済ませることはできません。
無記では、話が進められないのです。
いくら、形而上学的な議論が無意味だといったところで、それでは済まされないはずです。
お釈迦さんほどの人ならば、仏教経典がつくられ、その中に神や悪魔が登場する内容になることを、わからなかったはずがありません。
神通力をもっていたはずだからです。
未来のこと、仏教経典の歴史的な展開もわかっていたはずです。
だから、せめてこういった存在、肉体を持たない何らかの形で存在を認識できる生物(ですかね。うまく表現できませんが)については、最低限言及しておくべきだったのではないかと思うんですよ。
六師の人達にしても、その弟子筋の人達にしても、当時の最高の修行者であるお釈迦さんに、五感で認識できるような唯物論での結論は出せないまでも、最も信頼できる修行者として話を聞きにきているんです。
ただ、お釈迦さんを論破したい、理屈でねじ伏せたい、だけではなくて、その深層には、真実が知りたい、本当のことが知りたい、当代随一の修行者でブッダとなったお釈迦さんの考えが知りたい、とらえ方が知りたい、と訪ねていった側面があるはずです。
二千五百年ほども前の話です。
当時の知識も、これを補う道具だても何もかも、今とは比較にならないほど不便だったでしょう。
それでも、お釈迦さんの一言さえあれば、彼のとらえ方さえわかれば、だいぶ状況は変わった可能性があるのではないか、と考えてしまうんです。
ですので、唯物論での証明は、できないまでも、お釈迦さんの知りうること、考えを明らかにしておくべきだったのではないでしょうか?
それを、無記としてしまうとは・・・。
なぜ、こんなにグダグダいうかですが。
量子や素粒子レベル?なりで、証明はできなくとも、お釈迦さんが感得した限りでは、霊魂とはこのようなものだ、神とはこのようなものだ、悪魔とはこのようなものだ、と一応結論を出しておけば、あとは彼を信じるかどうかは質問者の判断に任せればいいですよね?
そうして、霊魂なり、神なり、悪魔なりが一応規定できれば、神や悪魔の載っている原始仏教経典の意味がよりわかりやすくなるはずです。
もし、これらの存在を否定してしまう、あるいは架空な想像上の産物としての存在とする、もしくは単なるたとえ話での存在としてしまうと、あれは一体、何をいっているのかかが、わからなくなってしまうからです。
仮にたとえ話での存在とすれば、あれらのお経の意味はどうなると思いますか?
大乗仏教の経典なら、もうかなり飛躍的ですから、いいのかもしれませんが、原始仏教経典ならば、こうした行き方は、お釈迦さんの言葉の裏付けがなければ、あまりふさわしくないのではないですか?
個人的な偏見ですみませんが、梵天という神様のことも含めて、ずっと引っかかっていたもので。
ご勘弁下さい。
お釈迦さんの人となりを偲び、その生き方にそって学ぶといっても、神や悪魔がその物語に彩りを添える形なら、それなりにその存在を明らかにしておくべきではないですか?
仮に、お釈迦さんの無記の立場を継承するなら、神や悪魔の出てくる原始仏教経典を解説する場合に、どのような認識をもって解説されているのでしょうか?
存在をほのめかた経典を扱いながらも、無記の立場を継承しつつ、神や悪魔や霊魂を、いわば、宙ぶらりんなまま話をすすめる・・・。
・・・。
原始仏教経典のあの部分をみていると、あれらの存在は、お釈迦さんの偉大さ、すばらしさを表現する、いわば、演出にもとれる側面がある訳です。
仮に、これを演出と呼ぶことを許して頂けるならば。
例えば、江戸時代の浄土門の妙好人に宇右衛門(うえもん)さんという人がいました。
五井先生の本(生きている念仏)で読んだ宇右衛門さんの行いには、決して、神様だの、悪魔さんだの、絢爛豪華で派手なことや、美辞麗句は、一切出てきません。
ひたすら地味ですが、私には胸を打つものがあったのです。
特に村の悪い青年達を立ち直らせた話は、胸に染み入るような感じでした。
私がおかしいのかもしれませんが、涙がこぼれたことさえあったのです。
何もわざわざ御大層に、神様や悪魔さんに出張って頂かなくとも、立派な行いはできるのです。
本当に信仰心の篤(あつ)い人には、派手な演出は関係ありません。
必要ないはずです。
ただただ、人として(神様の子として)よき(想念と)行い、これさえあればいい、できればいい。
宇右衛門さんのように、神様(阿弥陀如来様)の中に入りきって、無心になれば、このようになるはずです。
なので。
五井先生の本で、いくつか書かれているように、神様のみ心に沿った行いができるかどうか、これが大事なのではないでしょうか。
話がそれました。
まあ、神や悪魔のことを、霊的な存在を指して言ったのか、修行者を惑わす妄念を指して言ったのかは、わかりません。(*1)
あるいは、五井先生の言われるところの、幽界の生物に相当する存在なのかもしれません。
とにかく。
こういった、霊的な存在があることを前提とした上で、以降は話を進めていきたいと思います。
この本の、この箇所では、中村さんは、なぜか、一切、この問題には触れることなく、話を進めてしまっています。
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二 誕生
まず、お釈迦さんの誕生(これから肉体界である現界に、彼が肉体人間として生まれてくること)を神々が喜んでいる場面があります。
よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十人の神々の群と帝釈天とが、
恭しく衣をとって極めて讚嘆しているのを、
アシタ仙は日中の休息のときに見た。(*2)
スッタニパータ(六七九)
アシタという名の仙人が、食後の休憩の座禅・瞑想をしている時に、三十三人(三十は概数なので)の神々と帝釈天が、その誕生を寿いだのを見たとされています。(*3)
こころ喜び、躍りあがっている神々を見て、ここに仙人は恭しく、このように問うた。
「神々の群れがきわめて満悦しているのはなぜですか。
どうしたわけで彼らは衣をとって、それを振り回しているのですか。
たとえアシュラと戦って神々が勝利を博したときでも、神々がこんなに喜んだことはありません。」
と問いました。
これに対して、神々はこう答えたとされます。
「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(未来に仏になる方)は、もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです。
ー シャカ族の村に、ルビンニーの聚落に。」(*4)
お釈迦さんの属していた種族は、シャカ族で、誕生地はルビンニーです。
続けて神々は言います。
「だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。
生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、やがて( 仙人(のあつまる所) )という名の林で(法)輪を回転するであろう。
ー 猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」
スッタニパータ(六八三ー六八四)
仙人(のあつまる所)名の林は、ベナレス郊外の鹿の園です。
仙人は神々の語るその声を聞いて、急いで人間世界に降りてきた。
そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のように言った。
ー 「王子さまはどこにいますか。私もまたお会いしたい。」と。
(六八五)
スッドーダナ王は、お釈迦さんの父で、漢訳仏典の浄飯王です。
そこでシャカ族の人々は、その児をアシタ仙人に見せた。
ー 溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき、幸福に光輝く尊い顔の児を。
火炎のように光り輝き、空行く星の王(月)のように清らかで、雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ、昂まる喜びでわくわくした。」(*5)
(六八六ー六八七)
インドの秋の空は澄んでいて、雲の影がほとんど見られないために、「雲なくして照る秋の太陽」という形容がなされ、これはのちの仏典にもよく出てきます。
神々は、多くの骨のある千の円輪のある傘蓋(傘)を空中にかざした。
また黄金の柄のついた払子で身体を上下に扇いだ。
しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。」(*6)
(六八八)
これはインドの習俗です。インドやネパールでは、国王などの後ろには待者が立ち、傘をかざします。だから、仏像には上に傘蓋(さんがい)があります。また、虫を打ち殺すことを嫌うので、払子で虫を追い払います。日本でも高僧は儀式を行う時には払子を用いるそうです。
いやー、おそらく当時の言葉と表現をあらんかぎりに用いたであろう、これでもかといった美辞麗句の嵐ですね。
あまりの大絶賛の嵐のためか、何か書いてても、かなり疲労感をもよおしてきたので、ここで区切ります。
次は、アシタ仙人の言葉からになります。
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(*1)・妄念~もうねん~仏教語~迷いの心。迷妄の執念。妄執。
(*2)・帝釈天~たいしゃくてん~インドラ。バラモン経典のリグ・ヴェーダにおける最も強大な神。
・恭しい~うやうやしい~敬(うやま)いつつしむさま。丁重であるさま。
・讚嘆~さんたん~国語辞典にも漢和辞典にも出ていません。
(*3)寿ぐ~ことほぐ~新年・結婚・長寿などを祝う。喜びの言葉を言う。ことぶく。
(*4)・聚落~じゅらく~むらざと。落は村里。
・聚~しゅう、しゅ、じゅ~①あつまる。あつめる。
②あつまり。あつまった人。あつまった多くの物品。
③つむ。つもる。
④たくわえ。
⑤むらざと。村落。
ここでは⑤の意。
(*5)・溶炉~ようろ~金属を溶かすための炉。
・金工~きんこう~金属に細工を施す工芸。また、その職人。
・昂まる~たかまる、と読むと思うのだが、漢和辞典の読みには、こう、ごう、あがる、しか出ていない。
わかりません。
(*6)払子~ほっす~禅宗の僧のもつ法具の一つ。馬の尾や麻などをたばねて柄をつけたもの。
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①追記: 2020/11/06 06:26
②追記: 2024/04/10 01:45
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。