おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

155_原仏8ー5

四 降魔

降魔。

ごうま。悪魔を降(くだ)す。

とうとう出ました。

悪魔の話です。

国語辞典では、降魔は、悪魔を降伏させること、と出ています。

神々のところでも感じましたが、これらは固有の意思と人格を持ち、あたかも人間のような形で、お釈迦さんに対比、あるいは、対話する形で描かれています。

以前述べましたが、やはり、これらは、お釈迦さんや周辺の人々の頭の中で作り出した想像上の産物としての存在か、話をつくるためのたとえとしての存在ではなく、固有の何らかの霊的な存在か、これに準じるもの、と考えるほうが自然だと思います。(*1)

ただ、お釈迦さんの生まれてくることを、まるで、無邪気な子供のように喜んでいる神々の姿は、可愛らしく描写されているな、あまり、「われは神であるぞよ」と威張った感じではないな、と思いましたが。

慈愛に満ちて落ち着いた感じとは、また、ちょっと異なるような。

それはともかく。

悪魔は、出家して修行中のお釈迦さんを、悟りを開かせないよう、挫折させるべく、誘惑や(悟りを得た後には)脅しなど、様々な形で仕掛けてきます。

しかし、これを見事に退散させたように経典に描くことで、お釈迦さんの偉大さを表現しているのでしょう。

正義の味方のようなヒーローものよろしく、お釈迦さんの偉大さに彩りを加えるためには、悪役としての悪魔が必要、ということなのでしょうか?

わかりませんが。

言い方は悪いですが、いわば、お釈迦さんの権威づけの脚色をするための存在として、悪魔は出てくる側面がある訳です。

修行によって、やせさらばえていく、健康を害するかのようなお釈迦さんの姿を見て、悪魔は誘惑にかかります。

そんなに、死にそうになるほど突き詰めて苦行しなくても、形式的なバラモンの祭祀を行って、これが(バラモンでは)善行とされているのだから、十分ではないか、生きていてこそのものだねだろう、と。(*2)

これが、スッタニパータの 第 四二五 以下に出ています。

以下の通りです。

まずは、悪魔がお釈迦さんを惑わすために近づくところから始まります(段落分けなどの改変あり)。

ネーランジャラー河の畔(ほとり)にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、
(悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った。(*3)

(四二五ー四二六)

ネーランジャラー河は、お釈迦さんが悟りを開いた場所で、ナムチは、インドのリグ・ヴェーダ以降にあらわれてくる悪魔の名前です。

「あなたは痩(や)せていて、顔色も悪い。
あなたの死が近づいた。
あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。
君よ、生きよ。
生きたほうがよい。
命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。」
(四二七)

善行は、ヴェーダの祭祀をすることで、功徳を積む意味です。

「あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物(そなえもの)をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。
苦行に身をやつれさせたところで、何になろうか。
つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」
こう言って、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。
ところが尊師(ブッダ=お釈迦さんのこと)は次のように告げた。 
ー 「怠け者の親族よ、悪(あ)しき者(悪魔の別称)よ。
汝(なんじ)は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、わたくしにはその世間の善業を求める必要は微塵もない。
悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。」

(四二八ー四三一)

つまり、福にあずかりたい(一般的な)人々には、世間一般に善とされていた、ヴェーダの祭祀儀礼を行うように語りかければいいだろう、しかし、私(お釈迦さん)にはまったくその気はないのだから関係ないのだ、と。

「わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。
このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命(いのち)をたもつことを尋ねるのか?
このはげみから起こる風は、河水の流れをも涸(か)らすであろう。
ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇(こかつ)しないであろうか。
(身体の)血が涸れたならば、胆汁(たんじゅう)も痰(たん)も涸れるであろう。
肉が落ちると、心はますます澄んでくる。
わが念(おも)いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。
わたくしはこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない。
見よ、心身の清らかなることを。」

(四三二ー四三五)

このように、お釈迦さんは修行により、清らかなる心身を得ていく訳ですが、悪魔はあきらめずに、さらに様々な誘惑を仕掛けてきます。

長くなりましたので、この話は、次回に譲ります。

~~~~~

(*1)五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)は、悪魔の存在は認めていないので、ここに出てくるような悪魔の存在は、さしずめ、迷った妄念の消えてゆく姿か、あるいは、肉体を持たない、キツネやタヌキやヘビといった、神性を有しない幽界(想いの世界)の迷った生物となると思います。

(*2)・祭祀~さいし~神を祭ること。祭り。祭典。

(*3)・安穏~あんのん~(あんおんの連声)変わったこともなく、穏やかなこと。平穏。

・連声~れんじょう~二つの語が連接するときに、前の音節の末尾の m・n・t が、あとの音節の母音・半母音に添加されて マ・ナ・タ 行の音となる現象。

・雪隠 せついん
setuin → setutin( t追加)
せっちん ア行→タ行

・観音 かんおん
kannonn → kannnonn (n追加)
かんのん ア行→ナ行

・三位 さんい
sani → sanmi(m追加)
さんみ ア行→マ行

因縁 いんえん
inen → innen(n追加)
いんねん ア行→マ行

なお、中世の現象で、近世以後は固定した特定の語だけが残った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①追記: 2020/11/04 04:47
②追記: 2024/04/13 02:35
③追記: 2024/04/13 02:44
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。