おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

434_非モテコミット異論5

前回( 433_非モテコミット異論4 )の補足です。

もし、あれをお読みになった方がいらしたら、一体、何をバカなことを言っているんだ、コイツは? とお感じになった人がおられるかもしれません。

世界平和の祈りと霊性の開発を推奨(すいしょう)している人間が、何で人類が滅亡しても構わない、ととれるような愚かしいことを言うのか、と。

仮に、地球上にたった一人の女性しか残っていなくても、その女性が霊性がダメダメで救い難い場合には、すっぱりと未練を捨て去り、かかわらない(ただし、彼女の天命がまっとうされますように、とだけは祈る)。

そうなると、以降の人類の世代の引き継ぎは、なしになってしまいますからね。

つまり、人類は途絶えてしまうことになる。

これが、何を意味しているかというと。

神様のみ心をまったくあらわすことができない、唯物論に縛(しば)られまくったような自分勝手(エゴイズム)きわまる生き方、すなわち、具体的には(極端な例を挙げます)、絶対権力の恐怖支配を目論(もくろ)む独善的・独占的な生き方、そして、神性からかけ離れまくったヤリチン、ヤリマンなどの生き方しかできない人類(肉体人間)しか残っていないのであれば、神様の子供として存在している意義が疑われてしまう、という意味合いです。

神様のみ心をあらわそうと努力しても、世界の全体としての趨勢(すうせい)が、上記のようになって、とことんまで行き着いて、絶体絶命にまで行き着いてしまったならば、これも神様のみ心だと、とらえることができるからです。

神様の世界を、この世にあらわすために、地球さんを始めとする、ありとあらゆる環境を整えられて、お与えになり、もちろん、肉体人間に神様の分霊として命もお与えになって、そしてご慈愛から、人類が相争い自滅してしまわないように、わざわざ、守護の神霊様を遣(つか)わして、あらゆる手立てを尽くしても・・・。

そして、おそらく、時宜(じぎ)を見計らって、お釈迦さんのような聖者をこの世にあらわして、人としての良き生き方、良き指針を教えるように働きかけても・・・。

それでも、どうしようもないほどに世の中が、世界が荒廃していまい、手がつけられないほどになってしまったら、地上天国化は取りやめとするか、または、次の機会を考えて、一旦、すべてを御破算(リセット)するとお考えになるかもしれない、と思えるからです。

そのようになってしまったら、これも神様のみ心ではないか、と。

霊性の向上に働きかけるお釈迦さんのような人がいて、そのご遺志を引き継ぐ人々が、できるだけ、するだけの努力をしたら、あとは成り行きに任せるしかないんですね、残されている私達人類としては。

人事を尽くして天命を待つ、ということで。

いや、神様はそんな無慈悲なことはなさらない、今度(現在は 7 回目の試みらしい)こそ、地上天国化はなされるはずだ。

神様が私達肉体人間をこの世にあらわした、産んで下さったのは、それぞれに期待されるそれなりの役割があり、だからこそ、この世に生まれてきている、と信じるべきだと。

これまで見てきた仏教の話でも、「人身得難し」がありましたよね。

この世に(肉体)人間として生まれてくることは、(この世は苦だから大変ではあるけれども)きわめて稀なことなのだ、ありがたいことなのだ、と。

だから、この世に肉体人間として生まれてくることは、神様から天命を授けられているのと同時に、ありがたいお計らいでもある訳ですね。

このように考えてくると、五井先生が書かれていたように、「天命を信じて人事を尽くせ」で、結果はどうなろうと、神様のみ心に沿うように生きて行けば、あとの結果は神様にお任せするしかない、と思うんですよね。

ただし、良きと思える方向に、生き方に、できる限りの努力だけはしておくべきだ、となります。

あの唐突と思われるかもしれない書き方は、以上のように考えた上で書いたものです。

彼女のような霊性の低い人間が、女性が、この世に、この地球上に(女性としては)たった一人しか残されていない状況。

ああ、ここまでの悲惨な状況にまで至ってしまったのは、神様のご意志なんだな、と思える訳です。

そこから、どのように成り行きが展開しようとも、すべては神様のみ心次第で、私達肉体人間の預かり知らないことである、と。

つまり、全託であり、肉体人間としてなすべきことをしたら、あとはすべてを神様にお任せするしかない、ということです。

そのまま、人類の存続が望めないことになったとしても、一縷(いちる)の望みからの大逆転劇が展開されて、人類が存続することになったとしても、すべては神様のみ心次第。

お任せするしかないという意味です。

そのように解釈した訳です。

やるべきことをやらないで滅びてしまうのなら致し方のないこと。

神様のみ心から外れまくったように、自由奔放にデタラメの限りを尽くしてばかりいれば、多分、誰しも納得がいくのではないでしょうか。

やるべきことをやって、それでも、滅びてしまうのならば、これもまた致し方のないこと。

神様のみ心に沿うように生きても、そのような結果がもたらされるなら、それもまた神様のみ心。

肉体人間としての利害得失を超えて、神様の子供としてあるべき形を体現することだけがすべて、それこそが大事であるとすれば、これもまた、一つの行き方。

どちらを選ぶのかは、その人次第。

まあ、霊性を開発して頂きたい側からすれば、ただただ、全体の状況の改善を願って祈るしか、やりようがない(批判や非難や説教は業想念を巻き起こすだけで、因縁因果を悪くすることにしかならないのがほとんどなため)訳ですけれども。

五井先生のようなお考えならば、神様は愛だから、神様のみ心に沿うように生きた人類を滅ぼすはずがない、だから、「天命を信じて人事を尽くせ」と書かれていたのだと思います。

以上、かなり長くなりましたが、前回の補足です。

~~~~~

・推奨~すいしょう~物や人のすぐれた点をほめて、人にすすめること。
(用例)推奨品。

・エゴイズム~自分の利益だけを追求し、他人や集団の利害をかえりみない考え方。利己主義。

・目論む~もくろむ~心の中に考えを立てる。計画する。
(用例)一攫千金を目論む。

(参考)
・目論見~もくろみ~計画すること。企(くわだ)て。
(用例)目論見がはずれる。

・趨勢~すうせい~物事の移りゆく勢いや世の中の動き。時のなりゆき。動向。趨向。
(用例)時代の趨勢。

・遣わす~つかわす~①(目下の者を)行かせる。派遣する。
(用例)使者を遣わす。
②目下の者に与える。
(用例)ほうびを遣わす。
ここでは、①の意。

・時宜~じぎ~時期が適当であること。ちょうどよいころあい。
(用例)時宜を得た処置。時宜にかなう。

・御破算~ごはさん~①ソロバンに置いた数を崩して零にすること。
(用例)御破算で願いましては。
②はじめの状態に戻すこと。白紙に戻すこと。
(用例)この話は御破算にする。
ここでは、②の意。

・一縷~いちる~(ひとすじの細い糸の意から)今にも絶えそうなわずかなつながり。かすか。
(用例)一縷の望みをかける。

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①追記: 2021/07/14 05:00
②追記: 2021/07/14 05:22
③追記: 2021/07/14 12:49
〜訂正内容~

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

433_非モテコミット異論4

今、まだ仏教に関するこれからの方向性について逡巡中だし、何を書いていいのかわからないので、久々に非モテコミットについて、書いてみようと思います。

個人的には、やたら長ったらしいし、何だ、この訳のわからない変な造語は?ってのが第一印象だったことを覚えています。

で、だいぶ前にいろいろなサイトを調べた時に、いくつか書いてあったのは、この非モテコミットが、男性が今現在の彼女の確保だけに躍起(血眼?)になってしまい、余裕のない状態になってしまうと、女性の方から愛想をつかされる、といった内容だったと記憶しています。

なぜ、女性がそのように愛想をつかすようになるかというと、一般的な女性(?)は、主としてチャラくて軽くて余裕があり、他の似たような女性(?)にモテる男性に惹(ひ)かれるものであり、自分にまとわりついて、ゴリゴリになってしまった(?)男性には、魅力を感じなくなってしまう、といった話でした。

今は、経済的に厳しい時代ですし、疾病(しっぺい)など健康面でもいろいろな事情がありますが、やはり、ありがたい時代なんですね。

女性がこんなに余裕を持って、男性を選り好みをして、気ままにふることができるのだから。

今、生きていることがありがたい、健康であることがありがたい、動けることがありがたい、お付き合いできることがありがたい、暮らしていけることがありがたい・・・は、暗黙の前提条件で忘却の彼方(かなた)ってことですか。

何とも言いようがありませんね。

ただ、一つ感じたのは、俺がこれだけ尽くしてやったんだから、見返りがあって当たり前だ、ましてや、彼女の確保(キープ)は言わずもがなだ、というあり方は、まぎれもない執着だ、ということですね。

相手のために尽くすことはいいのですが、見返りを求めなければいいんですけどね。

そして、行き過ぎにならないように相手の生活や経済状況を見極めて、過度にならないように気をつければ。

つまり、尽くし過ぎにならない、執着しないように気をつけるということです。

この世で巡り合って、お互いに、こうして同時代に生きていける、話もできる、一緒の時を過ごせて、尽くし合えるだけでも本当に幸せ、と心から思うことができれば。

それ以上は望まない。

縁あって巡り合った、同じ神様の分霊を宿した同胞のために、自然に尽くす。

わざとらしくなく。

自然法爾(じねんほうに)に。

同時代に生きて、紆余曲折を経ても、様々な喜びと悲しみを分かち合い、しかも信頼関係を築きながら生きていける。

そして、協力し合い、尽くし合える。

これだけでも、十分に幸せだし、ありがたいことだ、と思うんですけどね。

仮に、過干渉しすぎず、適度な距離感を保ったとしても、それでもこうした男性をつまらない、魅力(?)がない、と捨てるような女性は、こっちから引けばいいと考えます。

失礼ながら、世の中の様々なことに、まったくありがたみを感じない段階の霊性しか持たない女性だから。

唯物論的にいうと、かかわらない方が得策だと考えられる女性だから。

前にも書いたように、こうした人には、未練は持たないのがいいですね。

未練など、未来永劫断ち切るぐらいでちょうどいい。

自分の価値至上主義にこだわり、男性に本当の愛を施すことをしない、できない段階の霊性の人には、祈り心で対処するより、最善の道はない。

なぜならば、唯物論の批判や非難などで対処するのは、真善美に悖る想いと行いの業想念を引き起こすことにしかならないから。

お相手の女性にも自分にも、霊性上、つまり、輪廻転生上、悪影響しか残さないから。

業想念は、原則として隔世を経て(輪廻転生を経て)来世以降に悪い結果しかもたらすことはないからです。

たとえ、その女性が地球上、最後に残るたった一人の女性であったとしても、これでいい。

ジタバタしない。

悲しさも、悔しさも、わびしさも、みんな祈りと感謝行に変えていく。

そうして頂けるとありがたいなと思っています。

~~~~~

自然法爾~じねんほうに~仏教語~なんら人為的な手を加えることなく、自ずからの姿であること。

また、その姿のまま救われることから、自力をすてて如来絶対他力につつまれ、まかせきった境界(きょうがい)をいう。
 
自然は本来そうであること、そうなっていることで、法爾はそれ自身の法則にのっとっていること。

すなわち、上記のような場合なら、男性も女性もお互いに神様の分霊を本体とする神様の子供同士として、自然に愛し合い、慈しみ合い、尽くし合うのが、本来のあるべき形となります。

現段階で、このようになっていないのは、男女ともにまだまだ霊性が開発されずに、輪廻転生を通して業想念が積み重なってしまっているから。

なので。

世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をお願い致します。

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追記: 2021/07/13 08:01 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

432_逡巡

般若心経の一般的な解釈に対する疑問から始まって、じゃあ、般若経大乗仏教をほんのわずかでも知らなければ、と思ったけれど、そのあまりの分量の膨大さに、これはごくごく一部を理解するだけでも、自分には到底不可能だと感じました。

ならば、せめて起点になっているお釈迦さんの考え方はどうなのかを、少しでも知りたいと、中村さんや S さん( アルボムッレ・スマナサーラ長老 )の仏教の初期の経典について解説した本を、いくつか見てきました。

しかし、正直なところ、まだ、よくというか、全然、概要を把握・理解できていません。

ただ、あまりに初期の仏教ばかりにこだわり、話をこねくりまわしているだけでは、全く先に進めないので、いきなり般若経に行くか、それとも、別の本にちょっと寄り道をするか、と迷っています。

~~~~~

・逡巡~しゅんじゅん~決断がつかないでためらうこと。ぐずぐずすること。しりごみすること。
(用例)遅疑逡巡する。

・遅疑~ちぎ~疑い迷ってぐずぐずすること。

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追記: 2021/07/13 05:00 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

431_趣向

ユーチューブのハートカフェの動画で笑ってしまった。

男女逆転!どれだけ女性の婚活がワガママかすぐ分かる

という動画。

人を笑わせることも大変で難しいから、そうそう、やらないのかもしれないが、変わった演出(炎の演出?)が面白かった。

何度も笑ってしまった。

これは私の独断と偏見ですが、女性は自分中心にすべてが回っている世界観をお持ちだと思います。

ハートカフェの作者さん達は、あえて男女の立場を逆転させて、ほんの少しでも、彼女達に客観的な見方をさせよう、ものの見方を気づかせよう、と作った動画シリーズの一つなのでしょうね。

これまでも、何度か男女逆転ものがありましたが、個人的には、今回の動画が一番面白かった(何度も笑わせてもらったという意味で)。

嘲笑にまではなっていない笑いだし、その点でも、ちょうどいいさじ加減に仕上がっている動画のように感じました。

~~~~~

・趣向~しゅこう~おもむきやおもしろみ。また、おもむきやおもしろみを出すための工夫。
(用例)趣向をこらす。

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追記: 2021/07/12 22:22 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

430_法悟28-28-2

第 4 週 人格の完成をめざす

7 人格者には敵もライバルもいない

( S さん訳)
愚か者は名誉・財産を得ても、
それは彼の一切の道徳を破壊し、
頭(智慧)までも切り落としてしまう。

(七二) (第5章 愚か者 より)

(今枝さん訳)
愚か者は、知識と名声を得ても
ついには自滅する。
彼はそれによって、自らの幸運をだめにし、
打ち砕かれる。

(七二) (第5章 愚か者 より)

気ままに書きます。

S さん( スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老 )の言われていることを、きわめておおざっぱにまとめると。

私達は、競争社会に置かれているために、知らず知らずのうちにその生き方を習慣づけられてしまっている。

それは、知識と財産と名誉を追い求める道だ。

そこでは、当然に、他人を蹴落(けお)とし、自らが這(は)い上がっていくという、弱肉強食を余儀なくされることになる。

無論、競争を勝ち抜いて、他人を蹴落としていくためには、怒りや憎しみを抱くようにもなり、いくら高い地位にたどり着くことができてかなりの成功者になったとしても、常に、足を引っ張られないか、攻撃されないか、と備えをしておかなければ潰されてしまうかもしれないし、精神的にも疑心暗鬼になり、心安らかな時はない。

これが、唯物論の世界であり、競争社会の帰結なのだ。

こうしたやり方をしている限り、やがては、すべての道徳は荒廃し、すべてが失われてしまうことになるだろう( S さんは、智慧に特に力を入れて力説しているが、ここでは深入りしない)。

法句経(ダンマパダ)の上記の経文は、こうしたことを意味している。

このような状況の下で成功するためには、一般的に幸福の条件と見られる、知識と財産と名誉を追い求める道を歩むことになり、世の中に争いをもたらし、不穏にしていくのを免れることはできない。

こうしたやり方は、いわば、幸せになりたくて、幸せから遠ざかるという、きわめて矛盾しものになってしまっているからだ。

ならば、これを解決するためには、どうすればいいのか?

それは、誰からも反感を買わない(買えない)ように、しかも、攻撃されないようにすることだ。

すなわち、知識と財産と名誉を追い求めると同時に、必ず人格の向上を必須としていくことだ。

自分のためにすることがみんなのためにもなり、みんなのためにすることが自分のためにもなる。

無為にして自然な形で人様に尽くすようにすれば、「情けは人のためならず」でそれは自らにも返ってくる。

今流に言うならば、ウィンウィン( Win - Win )の関係、が自ずと築かれていくようになるのである。

しかも、人格的には申し分がない訳だから、お互いに、優しく、思いやり、さらには、好ましい相互扶助の形が自然に築かれていくだろう。

残念なことに、現代の競争社会で、かなりの成功者になることができるのは、ごく一部に過ぎない。

このような形で社会が連綿として続いてきた以上、いかに人格を向上させて、様々なことに勤(いそ)しんでも、成功と破壊が表裏一体となっている今の社会の仕組みを、劇的に変えることはできないだろう。

だから、とりあえずは、敵を作らず、自らも攻撃しない、人格の向上という形で、あらゆる努力を押し進めていくものと、心に決めてしまうことだ。

そうしていけば、人格の伴った成功者の輪も拡大して、世の中もよい方向に向かうことになるだろう。 

S さんの言いたいことを意訳すれば、大体、上記のようになると思います。

個人的な独断と偏見を書かせてもらえば。

残念なことに、既存の競争社会では、競争から生じる様々な軋轢は、避けて通ることができない。

やはり、段階的に少しずつ、徐々に徐々に、改善していくより他にない。

80対20の法則ということもあるし、この厳しい現実を打開していくのは、一気呵成という訳にはいかない。

急展開は不可能である。

しかも、唯物論では、エゴの生き方が浸透しているから、この改善はきわめて難しい。

どうしても、限界がある。

やはり、私達が神性に戻るしか、解決の道はない。

そして、手近なところから始めることになるが、もしうまく行けば、個人だけでも平安と安穏のままに、精進していく道が開かれる。

人格の向上をはかることは、究極的には、悟りを得ること=涅槃の境地に至ること、ではあるが、これは霊性の開発の段階がまだまだな場合には、あくまでも最終目標。

よって、とりあえずは、少しずつ段階的に霊性を向上させるようにしながら、各種の努力をしていくべき、となります。

なので。

世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をお願い致します。

~~~~~

・軋轢~あつれき~仲違(たが)いすること。不和。反目。
(用例)軋轢を生じる。

・一気呵成~いっきかせい~ひといきに物事を仕上げてしまうこと。
(用例)一気呵成に書き上げる。一気呵成に仕上げる。

・80:20の法則~「結果の80%は、たった20%の原因から生み出される」という考え方。
代表例としては
「売上の80%は、たった20%の顧客によってもたらされる」
「世界の富の80%は、たった20%の富裕層が所有している」
などがある。

429_法悟28-28-1

第 4 週 人格の完成をめざす

7 人格者には敵もライバルもいない

愚か者は名誉・財産を得ても、
それは彼の一切の道徳を破壊し、
頭(智慧)までも切り落としてしまう。

(七二) (第5章 愚か者 より)

適当に書きます。

ただ、この S さんの訳は、前( 426_法悟28-26-2 )に取り上げた今枝さんの訳とは、ちょっと趣(おもむき)が違うような気もするので、こちらもあげておきます。

愚か者は、知識と名声を得ても
ついには自滅する。
彼はそれによって、自らの幸運をだめにし、
打ち砕かれる。

(七二) (第5章 愚か者 より)

では。

普通は大人の誰しもが、子供達に「よく勉強しなさい」という。

なぜか。

将来にお金持ちになり、安定収入を得て、名誉を得て名を残すことが、とてもいいことで、私達の人生の目的だと思っているからだ。

収入を得て、競技などで優勝したり入賞して記録を残し、名誉を得て、知識を残すことが大事なことだ、と。

要は、現代の私達の人生の目的は、知識人となり、収入を得て、それなりの名誉を得ること、の 3 つなのだ。

これら 3 つを同時に満たしたいという人は、あまりいないかもしれないが、人間はこの中のいずれかに引っ掛かってしまうものなのである。

知識を得ようとすれば、他が疎(おろそ)かになって貧乏になる。財産獲得に夢中になると、知識はなくても、お金のためにどんなに悪いこともしてしまう。名誉だけを欲しがっても、お金や知識は欠落する。だから、知識、財産、名誉をすべてそなえている人は稀だ。 

私達がよく聞かされるのは、これら 3 つの獲得に挑(いど)みなさい、それこそが人生だという話ばかりだ。

だから、子供からどんな生き方をすればいいかときかれたら、「よく勉強しなさい」と答えるところから話が始まり、次に「いい仕事をしなさい」が加わる。そして、不名誉な烙印(らくいん)を押されると生きづらくなるので、「悪いこと、人様に迷惑をかけることはしないように」と言われる。

私達が受けてきた人生のアドバイスは、この程度のものなのである。

問題は、この個人の生き方だけで、果たして世界はうまく行っているのか、ということなのだ。知識人もいる、お金持ちもいる、有名人もいる。

それなのに、こうした人達から、犯罪者は出るし、社会に起こる問題は一向に解消しないだけではなく、増えていくばかりなのだ。

人々はこの知識、財産、名誉の 3 つの目標を目指した生き方をしているのに、社会がうまく行っていないのである。

教育の世界では、社会が発達すればするほど、学校でいろいろなトラブルや解決の道筋の見えない問題が次々とあらわれてくる。

加えて、経済発展をしようとして、社会崩壊を引き起こしてしまう例も枚挙に暇(いとま)がない。

世の中には知識人があふれているのに、相変わらず戦争やテロ事件が起きている。

世界は対立の構図にはまりこんで、誰も仲良くしようとはしないのである。

名誉追求についても、その危険性に気づいてしまうと、名誉を求めなさいとは単純にはいい難くなる。

競技でも、優勝できるのはたった一人しかいない。競争をする中で、優勝できなかった者達は、怒り、憎しみ、ライバル意識を募(つの)らせているのである。自分が優勝して、名誉を得て、トロフィーをもらうために、かなりの怒りと憎しみを胸に、競争心をむき出して戦わなければならないからだ。

たとえ、優勝して、トロフィーをもらえても、それはもう、戦いの技を身につけただけのことになってしまう。他人を潰す技が、自然に身についてしまったのだ。

そうやって他人を抑えて、自分だけが前に出る技術をもつ人々がどんどん増えていくのは、きわめて危険な事態なのではなかろうか。

お金儲けにしても同様だ。競争社会だから、勝ち抜いた人が経済的に豊かになり、収入をたくさん得る。富をたくさん持つのは、戦いに勝ち抜いた人に他ならないのである。

この競争の勝利者が何を身につけたかと言えば、競争に勝ち抜く技術であり、競争相手を打ち負かす技術なのだ。

残念なことだが、知識人の世界でもこれは同じだ。名誉や財産の場合と同じように、ライバル競争はあるのだ。

せめて知識人の間くらいはお互い平和に仲良くやればいいのにと思っても、そうはなっていないのである。

この世では、知識人の間でも、常に競争を強いられるのである。なぜならば、同じ分野でも、やはり何人もの人達が研究に挑み、競争をしているからだ。そこで、競争に勝ち抜かなければ、世間から認められる訳にはいかない仕組みになっている。

一人が知識を発見すると、後から他の人がこれを発見しても、もう他の人のものにはならない。最初の発見者に全部とられたことになるのである(世の中には、優秀な技術を特許の申請がされていないことをいいことに、他国の技術を学ぶフリをして取り入れた挙げ句、素早く特許を申請する、きわめて狡猾な成果の横取り事例があるので、必ずしもこうとは言えませんね)。だから、知識人の間でも、憎しみや怒り、高慢は決してなくなることはない。「アイツより自分の方が上だ」と言いたくてたまらないのである。発見者がたとえ優秀な科学者であっても、これでは人格的にだらしないままと言わざるを得ないのである。

お金儲けを追い求める人、名誉を追い求める人、知識を追い求める人、どの人々をとってみても、結局のところは、知識も躾(しつけ)もない不道徳な人々や不法行為で生活している人々と比べても、そんなに違いはしないのだ。そうしたアウトローの人々は、些細(ささい)なことで怒るし、ケンカもする。彼らにとっては、生きるための競争はきわめて厳しいだろう。そうしたことは、文化人でも同じことなのである。

だから、ひたすらお金儲けをして、世間に認められようとするのも、各種の大会で優勝したり、入賞したり、勲章やトロフィーやメダルを獲得して名誉を得ようとするのも、そうして自分の世間的な立場を確立させようとする必死の努力に他ならないのだ。知識人にしても、自分の立場を確立しようとみんな努力をしている。こうしたことは、世代をこえて皆同じように頑張っているのである。

しかし、そこには大きな問題があるのだ。それはそのような競争をすると、結果的にみんな激しい気性の持ち主になってしまうということなのである。競争社会に適応するために、人格的にはどんどん残酷になっていくのである。

もしも、競争の敗残者としての相手の痛みを感じる人間では、競争社会では成功できない。従って、「相手はどうなってもいい」という気持ちで競争をしなければならないのだ。

今の社会で言えば、人格者でない方が、成功の道にのってしまうのである。人の痛みを感じず、残酷ならば、その分、社会で成功できるのである。

という次第で、世界が全体的に悪くなっていくのは必然的な結果であると言えるだろう。

とは言うものの、だからといって、今さらに、なぜ世の中がガタガタなのか、なぜ自然破壊が止まらないのか、なぜ戦争が続くのか、なぜテロ事件が起こるのか、などなどとあわててみても、解決策はまったく見つからないだろう。

世界は根本的に道を間違えているのである。「社会的な成功をおさめつつ、平和な社会を築こう」という理屈は、あまりにも矛盾していて成り立ちはしないのだ。

成功する道とは、すなわち競争する道であり、相手を倒す道を意味するからだ。相手を倒すと同時に、平和と調和を手に入れることなど、誰にもできないのである。

もはや、恐ろしいほど残酷な人間でなければ、現代を生き抜くことは難しくなっているのである。

たとえ、人格的に立派な人間ではなく、性格の悪い人であっても、いろいろな勉強をすれば、専門的な知識を身につけることができるし、お金を儲けることができるし、名誉を得ることもできる。

しかし、こうした人々がビジネスで成功すると、社会に多大な迷惑をかけることになってしまう。なぜならば、彼らは、自らの目的達成のためには、手段を選ばないからだ。そして、場合によっては、戦争までをも引き起こして、何もかも破壊し尽くしてしまうからだ。

それとは反対に、心が柔らかで平和主義を堅持する人や、他人のことを心配する人、相手を思いやる人は、この恐ろしい競争社会に入ることはできない。

こうした観点で現代を見ると、私達は平和を壊す人や、お互い憎しみ殺し合う人々で成り立っていると言っても過言ではないであろう。

だから、ブッダ(お釈迦さんのこと)は説いているのだ。「愚か者が知っている智慧が、すべて自己破壊になるのだ」と。

勉強をして知識を身につけるよりも、お金儲けに入れ込むよりも、名誉を得ようとするよりも、まずは人格者になりなさい、と。

なぜならば、人格ができていない人が、いくらお金儲けをしたとしても、身の破滅を招き、他人をも巻き込んでしまうことがあるからだ。これはとても危険なことなのである。

それに対して、私達が人格者になって富や名誉を得るなら、世の中に必ずいい結果がもたらされる。

次世代を担う子供達やこれから社会人となる若者達が、まずは、人格的に立派になるための土台を築き、その上で自らの目的に向かって努力すれば、世の中はもっと素晴らしくなるであろう。

こうした、社会の一人一人の努力によって、はじめて平和な社会を築くことができるのである。

では、立派な人格はなぜ必要なのか。

それは、今の社会では、たとえ知識人と呼ばれるような人達でも、絶えず危険な状況に晒(さら)されるからだ。スキャンダル騒ぎに巻き込まれ、裁判を起こされれば、様々な攻撃を受けることにもなってしまう。そして、場合によっては、潰されることにもなりかねない。

ビジネスの世界でも同様だ。成功して大会社を築き、多くの収入を得ていても、いつ思いがけなく足を引っ張られて、攻撃され、経営が破綻して、生きていくのが難しいほど困窮するかはわからない危険があるのである。

これを要するに、お金持ちであろうが、知識人であろうが、名誉人であろうが、死ぬまでに攻撃を受ける危険を抱えた仕組みになっているのである。

しかも、上に行けば行くほど、激しい攻撃に晒される危険は高くなる。これでは、自分が何のために、成功の頂点を目指してきたのか、わからなくなってしまうのではないか。

これに対して、ブッダの教えを実践すれば、結果は逆のものとなる。立派な人格を築けば、自らの立場は安定したものとなるからだ。

人格が立派で、思いやりがあって、やさしい心があって、人を憎まずに、他人のために貢献するといった、基本的な姿勢ができていれば、知識をいくら得ようとも、その人は攻撃されることはない。

自らが築いた地位で安定を得る。それなりに目標を達成したから、自らも「ああ、よかった」という穏やかさとやさしさを感じることができる。自らが決めた目標を達成したことに安心して満足できるのである。

こうした人が、お金儲けに目標を定めたならば、これも成功するであろう。そもそも、敵が存在しないのだから、誰からも攻撃を受けることがないためである。人生は、ライバル(敵)がいなければ、必ず成功するものなのである。

自分に対しても、また、誰からもテロ行為を起こさない、起きない、つまり、敵対者がいないという、安全感や安心感を得るためには、人格者になる以外に道はないからである。

このような努力をすれば、人はとても安定して平和に過ごすことができる。

努力は、自らがしなければならないものだ。世の中は、そうした一人一人の努力が合わさって成り立っている。

そこで、各自が人格者として努めるようにして、知識、名誉、財産のいずれかを得ようとするならば、安定して穏やかに平和でいることができる。

一人こうした人格者ができれば、それにかかわる人々も皆、平和主義で穏やかな人間に変わっていくであろう。

この道を歩むことは、大変で、難しいものであることは確かだ。

再度、経文を掲げる。

愚か者は名誉・財産を得ても、
それは彼の一切の道徳を破壊し、
頭(智慧)までも切り落としてしまう。

(七二) (第5章 愚か者 より)

この偈(げ。詩文。この経文のこと)の原文を意訳するならば、

「人格のできていない者が、知識を得よう・財産を得よう・名誉を得ようとしても、その者は激しく自らの道徳を破壊してしまう。それと同時に智慧も、自らの人格的な将来もすべて潰して壊してしまう」

といった内容になる。「自らの頭を切断するという道だ」という非常に激しい文学的な表現になっているが、ここでは「すべてを失う」と言いたい訳だ。

仏教の注釈書には、頭(ムッダ)とは智慧のことだとされている。仏教では智慧こそが目指すべきものだとされているので、これがなくなってしまうと、すべてがなくなったことになるのである。

仏教では、財産や名誉を得ることを目指すべきだとはされていない。欲しい人が、頑張って手に入れればいいだけのことだ。

仏教では、人間が理想として目指すべきものは、智慧とされる。これこそが唯一価値があるものであり、智慧がなくなってしまえば、生きていても何の意味もないのである(?)。

この偈で言っていることは、単なる競争原理で知識を使う限り、結局、智慧が生まれる土台さえもなくなってしまうということなのである。

今一度、要点をおさらいしておこう。

この世では、誰しもが、経済的に豊かになること、知識を得ること、名誉を得ることが、素晴らしい生き方である、それこそが人生の成功だと一貫して説かれている。財産、知識、名誉の 3 つを得ることを、誰しもが人生の目標に掲げるのである。

しかし、社会は競争原理で成り立っているので、これらの目標を達成するためには、過酷な競争を勝ち抜いていかなければならない。

成功者は、たくさんのライバルを蹴落とし、激しい競争を勝ち抜いてきた人のことだ。勝ち抜いたということは、ライバルをたくさん増やしていったことでもある。

だから、社会的におさめた成功が大きければ大きいほど、敵対するライバルの数や力もどんどん大きくなってしまうことになる。

例えば、性格が素直で立派な人が、政治に参加したとする。この人が政界の頂点を目指し、やがて大統領などになった時点で、みんなから攻撃されるようになるのである。誰も協力などしてくれない。なぜなら、政治は競争原理の上に成立する、他人を倒してのしあがっていくシステムだからだ。

競争原理の上に成り立つものは、何であろうとも不安定さを免れないのである。だから、成功者がたくさんいれば、それだけ社会は不幸になってしまうという大きな矛盾を抱えたものとなってしまうのだ。

アメリカン・ドリームという言葉があるが、成功者が派手な成功をするほど、不幸な将来はどんどん増えてしまう。みんなが成功者に嫉妬して、隙あらば攻撃しようとする。

これは、学者のような知識の世界でも、競技のような名誉の世界でも見られる光景だ。世の中が、決して平和にはならない矛盾したやり方によって、私達は幸せを手に入れようとしているのである。

こうした矛盾を解決するためには、どうすればいいのか。それは、「皆が人格を育てることが何よりも大事である」と覚悟を決めることだ。

やさしさと思いやり、人のことを心配する気持ちを育むこと、そして、財産も、知識も、名誉も、自分のためだけではなくて、みんなのために使おうと努めること。

これらを、みんなが、仲良く、調和して、共存して生きるために使おうという気持ちがあれば、競争原理はなくなってしまうのである。

そして、あとには、自らに挑戦するという道が出てくることになる。自分で努力して能力を向上させて、それと同時にみんなにも協力してあげる。

こうした人が、人の上に立ち、進化・向上していけば、誰からも感謝されるだろう。そして、その人を取りまく輪も大きく広がっていくことだろう。

このやり方ならば、誰かを踏み倒しながら頂点を目指している訳ではないので、誰からも敵対されることはない。

このような成功者ならば、世の中にいくら増えても、ありがたい、となる。

今の世の中は、誰もが億万長者になれる訳ではないし、すべての人がアメリカン・ドリームを叶えることができる訳でもない。

現実には、ほんのごくわずかな一握りの人々が成功を手にするだけだ。だから、十万人に一人、あるいは百万人に一人にしか、今の競争社会では私達には勝ち目がない。

いつまでも成功者はそんなに増えないし、増えて困ると殺し合いまでしでかすのである。このように、現代社会は、成功と破壊が表裏一体なので、成功は多くの人にとっては望みようがないのである。

このような悪循環から抜け出したいならば、教育でも、日常でも、ビジネスでも、それぞれの世界で、やはり、人格者であることが一番大切だ、と心に決めることだ。

これを重視すれば、どんな状況に置かれても大丈夫だ。敵対するライバルも、もう、いなくなってしまうだろう。

そして、何もかもが、安定することになるだろう。

ブッダの道を歩むならば、いくらでも成功者は増えていく。

みんな誰しもが、自分の夢を叶えることができるのである。

とのこと。

・・・。

ああ、疲れた。

428_法悟28-27-2

第 4 週 人格の完成をめざす

6 人生にグッドタイミングはあり得ない

飢えることは、最悪の病である。
現象(サンカーラ)は最悪の苦しみである。
このことをあるがままに知る(人にとって)、
涅槃(ニッバーナ)は最高の幸福である。

(二〇三) (第15章 幸せ より)

勝手に書きます。

その前に、お断りがあります。

都合により、過去の記事の内で、雑感と題して通し番号をつけて書いてあったものを、独自の表題をつけたものに変更することにしました。

ただ、今までに雑感と題した記事は、全部で 27 個あるので、いっぺんにすべてのものの更新をせずに、5 個ずつ更新をしていきます。

更新の通知がバタバタとして、読者となられておられる方々には、大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、何卒、お許し下さりますようお願い申し上げます。

では。

S さん( スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老 )のお書きになっていることを、私なりの意訳を加えて、きわめておおざっぱまとめてみると。

あらゆる生命には、その寿命のある限りは、生命維持のために栄養の補給が必要だ。

あらゆる栄養分を採り入れて、消化・吸収し、不要なものは排泄物として、体外に出している。

この寿命が尽きるまで、栄養補給から排泄までの一連の過程を繰り返すことになる。

従って、栄養分の補給は、生命として生きていく以上は、どうしても避けることのできないものとなる。

だから、これが個々で必要とする水準を満たすことができないと、渇きという飢えを感じることになる。

しかも、この栄養分には、大別して、物質的な体の栄養分と精神的な心の栄養分の2つのものがある。

そして、心の栄養分は、3 つに分かれる。

1.情報に触れる(感じる)
2.意志
3.心そのもの(の生滅)
の 3 つである。

とにかく、私達は、特に現代では、生活に必要最小限の栄養分だけではなくて、あれこれと、栄養分を増やしたがる、五感にまつわる欲望を満たそうとするので、どうしても、体と心、ともに栄養分は不足しがちになるのが常態となっている。

だから、S さんは、人間はあまり自慢できる生き方をしておらず、栄養分を探すことに追われて、常に飢えている、としているのだろう。

これに、執着しない、つまり、苦しみを感じないようにするためには、悟りを開くことが手っ取り早いのですが、残念なことに、これは到底一般的とは言えず、ほぼ不可能です。

従って、次善のやり方として考えられるのは、霊性を徐々に開発しながら、生活に必要最小限の栄養分で満足できるような人格に、ほんの少しでも近づけていくように、あまり、欲をかいて贅沢をし過ぎないように、心のあり方を変えていくことですね。

それが、まずは、飢えを抑えていくための出発点になるように思います。

ただ、世の中は広いし、様々な因縁の人が多種多様にいる(たくさん稼いで経済を回す役割の人など)ので、一概には言えませんが、基本線は、上記のようになります。

霊性の開発が、まだまだ不十分な段階では、これが少しでも飢えを少なくするやり方だと考えます。

次に、現象が苦しみだと言うのは、要するに、世の中が万物流転、諸行無常を完全に感得できないと、どうしてもあらゆるもに、何かしらの執着を抱くことが避けられずに、悩み、悲しみ、苦しむことから逃れることができないことを指していますね。

(神様以外の)あらゆるものが万物流転をして、諸行無常であることを感得するのは、悟りを得ることでしか、なし得ないこと。

従って、悟りを得る=涅槃の境地に達することで、万物流転、諸行無常を感得し、悩み、悲しみ、などの迷いから解き放たれて、心安らかな境地にいられるようになる。

これらの経文の意味するところは、おおよそ、こんな感じだと思います。

要は、悟ること=涅槃の境地に達することが、いかに、(肉体)人間にとって心安らかに生きるためには、大事なことなのかを、示唆している経文ということになるのでしょう。

ただ、S さんの、「現象の世界にいる限り、グッドタイミングは絶対にあり得ない、というのがブッダ(お釈迦さんのこと)の教え」だ、というのは、今一つピンとこないなあ。

何か、よくわかりません。

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・示唆~しさ~他の物事やヒントなることを与えて、それとなく教え示すこと。
(用例)示唆に富む。