第 4 週 人格の完成をめざす
7 人格者には敵もライバルもいない
愚か者は名誉・財産を得ても、
それは彼の一切の道徳を破壊し、
頭(智慧)までも切り落としてしまう。
(七二) (第5章 愚か者 より)
適当に書きます。
ただ、この S さんの訳は、前( 426_法悟28-26-2 )に取り上げた今枝さんの訳とは、ちょっと趣(おもむき)が違うような気もするので、こちらもあげておきます。
愚か者は、知識と名声を得ても
ついには自滅する。
彼はそれによって、自らの幸運をだめにし、
打ち砕かれる。
(七二) (第5章 愚か者 より)
では。
普通は大人の誰しもが、子供達に「よく勉強しなさい」という。
なぜか。
将来にお金持ちになり、安定収入を得て、名誉を得て名を残すことが、とてもいいことで、私達の人生の目的だと思っているからだ。
収入を得て、競技などで優勝したり入賞して記録を残し、名誉を得て、知識を残すことが大事なことだ、と。
要は、現代の私達の人生の目的は、知識人となり、収入を得て、それなりの名誉を得ること、の 3 つなのだ。
これら 3 つを同時に満たしたいという人は、あまりいないかもしれないが、人間はこの中のいずれかに引っ掛かってしまうものなのである。
知識を得ようとすれば、他が疎(おろそ)かになって貧乏になる。財産獲得に夢中になると、知識はなくても、お金のためにどんなに悪いこともしてしまう。名誉だけを欲しがっても、お金や知識は欠落する。だから、知識、財産、名誉をすべてそなえている人は稀だ。
私達がよく聞かされるのは、これら 3 つの獲得に挑(いど)みなさい、それこそが人生だという話ばかりだ。
だから、子供からどんな生き方をすればいいかときかれたら、「よく勉強しなさい」と答えるところから話が始まり、次に「いい仕事をしなさい」が加わる。そして、不名誉な烙印(らくいん)を押されると生きづらくなるので、「悪いこと、人様に迷惑をかけることはしないように」と言われる。
私達が受けてきた人生のアドバイスは、この程度のものなのである。
問題は、この個人の生き方だけで、果たして世界はうまく行っているのか、ということなのだ。知識人もいる、お金持ちもいる、有名人もいる。
それなのに、こうした人達から、犯罪者は出るし、社会に起こる問題は一向に解消しないだけではなく、増えていくばかりなのだ。
人々はこの知識、財産、名誉の 3 つの目標を目指した生き方をしているのに、社会がうまく行っていないのである。
教育の世界では、社会が発達すればするほど、学校でいろいろなトラブルや解決の道筋の見えない問題が次々とあらわれてくる。
加えて、経済発展をしようとして、社会崩壊を引き起こしてしまう例も枚挙に暇(いとま)がない。
世の中には知識人があふれているのに、相変わらず戦争やテロ事件が起きている。
世界は対立の構図にはまりこんで、誰も仲良くしようとはしないのである。
名誉追求についても、その危険性に気づいてしまうと、名誉を求めなさいとは単純にはいい難くなる。
競技でも、優勝できるのはたった一人しかいない。競争をする中で、優勝できなかった者達は、怒り、憎しみ、ライバル意識を募(つの)らせているのである。自分が優勝して、名誉を得て、トロフィーをもらうために、かなりの怒りと憎しみを胸に、競争心をむき出して戦わなければならないからだ。
たとえ、優勝して、トロフィーをもらえても、それはもう、戦いの技を身につけただけのことになってしまう。他人を潰す技が、自然に身についてしまったのだ。
そうやって他人を抑えて、自分だけが前に出る技術をもつ人々がどんどん増えていくのは、きわめて危険な事態なのではなかろうか。
お金儲けにしても同様だ。競争社会だから、勝ち抜いた人が経済的に豊かになり、収入をたくさん得る。富をたくさん持つのは、戦いに勝ち抜いた人に他ならないのである。
この競争の勝利者が何を身につけたかと言えば、競争に勝ち抜く技術であり、競争相手を打ち負かす技術なのだ。
残念なことだが、知識人の世界でもこれは同じだ。名誉や財産の場合と同じように、ライバル競争はあるのだ。
せめて知識人の間くらいはお互い平和に仲良くやればいいのにと思っても、そうはなっていないのである。
この世では、知識人の間でも、常に競争を強いられるのである。なぜならば、同じ分野でも、やはり何人もの人達が研究に挑み、競争をしているからだ。そこで、競争に勝ち抜かなければ、世間から認められる訳にはいかない仕組みになっている。
一人が知識を発見すると、後から他の人がこれを発見しても、もう他の人のものにはならない。最初の発見者に全部とられたことになるのである(世の中には、優秀な技術を特許の申請がされていないことをいいことに、他国の技術を学ぶフリをして取り入れた挙げ句、素早く特許を申請する、きわめて狡猾な成果の横取り事例があるので、必ずしもこうとは言えませんね)。だから、知識人の間でも、憎しみや怒り、高慢は決してなくなることはない。「アイツより自分の方が上だ」と言いたくてたまらないのである。発見者がたとえ優秀な科学者であっても、これでは人格的にだらしないままと言わざるを得ないのである。
お金儲けを追い求める人、名誉を追い求める人、知識を追い求める人、どの人々をとってみても、結局のところは、知識も躾(しつけ)もない不道徳な人々や不法行為で生活している人々と比べても、そんなに違いはしないのだ。そうしたアウトローの人々は、些細(ささい)なことで怒るし、ケンカもする。彼らにとっては、生きるための競争はきわめて厳しいだろう。そうしたことは、文化人でも同じことなのである。
だから、ひたすらお金儲けをして、世間に認められようとするのも、各種の大会で優勝したり、入賞したり、勲章やトロフィーやメダルを獲得して名誉を得ようとするのも、そうして自分の世間的な立場を確立させようとする必死の努力に他ならないのだ。知識人にしても、自分の立場を確立しようとみんな努力をしている。こうしたことは、世代をこえて皆同じように頑張っているのである。
しかし、そこには大きな問題があるのだ。それはそのような競争をすると、結果的にみんな激しい気性の持ち主になってしまうということなのである。競争社会に適応するために、人格的にはどんどん残酷になっていくのである。
もしも、競争の敗残者としての相手の痛みを感じる人間では、競争社会では成功できない。従って、「相手はどうなってもいい」という気持ちで競争をしなければならないのだ。
今の社会で言えば、人格者でない方が、成功の道にのってしまうのである。人の痛みを感じず、残酷ならば、その分、社会で成功できるのである。
という次第で、世界が全体的に悪くなっていくのは必然的な結果であると言えるだろう。
とは言うものの、だからといって、今さらに、なぜ世の中がガタガタなのか、なぜ自然破壊が止まらないのか、なぜ戦争が続くのか、なぜテロ事件が起こるのか、などなどとあわててみても、解決策はまったく見つからないだろう。
世界は根本的に道を間違えているのである。「社会的な成功をおさめつつ、平和な社会を築こう」という理屈は、あまりにも矛盾していて成り立ちはしないのだ。
成功する道とは、すなわち競争する道であり、相手を倒す道を意味するからだ。相手を倒すと同時に、平和と調和を手に入れることなど、誰にもできないのである。
もはや、恐ろしいほど残酷な人間でなければ、現代を生き抜くことは難しくなっているのである。
たとえ、人格的に立派な人間ではなく、性格の悪い人であっても、いろいろな勉強をすれば、専門的な知識を身につけることができるし、お金を儲けることができるし、名誉を得ることもできる。
しかし、こうした人々がビジネスで成功すると、社会に多大な迷惑をかけることになってしまう。なぜならば、彼らは、自らの目的達成のためには、手段を選ばないからだ。そして、場合によっては、戦争までをも引き起こして、何もかも破壊し尽くしてしまうからだ。
それとは反対に、心が柔らかで平和主義を堅持する人や、他人のことを心配する人、相手を思いやる人は、この恐ろしい競争社会に入ることはできない。
こうした観点で現代を見ると、私達は平和を壊す人や、お互い憎しみ殺し合う人々で成り立っていると言っても過言ではないであろう。
だから、ブッダ(お釈迦さんのこと)は説いているのだ。「愚か者が知っている智慧が、すべて自己破壊になるのだ」と。
勉強をして知識を身につけるよりも、お金儲けに入れ込むよりも、名誉を得ようとするよりも、まずは人格者になりなさい、と。
なぜならば、人格ができていない人が、いくらお金儲けをしたとしても、身の破滅を招き、他人をも巻き込んでしまうことがあるからだ。これはとても危険なことなのである。
それに対して、私達が人格者になって富や名誉を得るなら、世の中に必ずいい結果がもたらされる。
次世代を担う子供達やこれから社会人となる若者達が、まずは、人格的に立派になるための土台を築き、その上で自らの目的に向かって努力すれば、世の中はもっと素晴らしくなるであろう。
こうした、社会の一人一人の努力によって、はじめて平和な社会を築くことができるのである。
では、立派な人格はなぜ必要なのか。
それは、今の社会では、たとえ知識人と呼ばれるような人達でも、絶えず危険な状況に晒(さら)されるからだ。スキャンダル騒ぎに巻き込まれ、裁判を起こされれば、様々な攻撃を受けることにもなってしまう。そして、場合によっては、潰されることにもなりかねない。
ビジネスの世界でも同様だ。成功して大会社を築き、多くの収入を得ていても、いつ思いがけなく足を引っ張られて、攻撃され、経営が破綻して、生きていくのが難しいほど困窮するかはわからない危険があるのである。
これを要するに、お金持ちであろうが、知識人であろうが、名誉人であろうが、死ぬまでに攻撃を受ける危険を抱えた仕組みになっているのである。
しかも、上に行けば行くほど、激しい攻撃に晒される危険は高くなる。これでは、自分が何のために、成功の頂点を目指してきたのか、わからなくなってしまうのではないか。
これに対して、ブッダの教えを実践すれば、結果は逆のものとなる。立派な人格を築けば、自らの立場は安定したものとなるからだ。
人格が立派で、思いやりがあって、やさしい心があって、人を憎まずに、他人のために貢献するといった、基本的な姿勢ができていれば、知識をいくら得ようとも、その人は攻撃されることはない。
自らが築いた地位で安定を得る。それなりに目標を達成したから、自らも「ああ、よかった」という穏やかさとやさしさを感じることができる。自らが決めた目標を達成したことに安心して満足できるのである。
こうした人が、お金儲けに目標を定めたならば、これも成功するであろう。そもそも、敵が存在しないのだから、誰からも攻撃を受けることがないためである。人生は、ライバル(敵)がいなければ、必ず成功するものなのである。
自分に対しても、また、誰からもテロ行為を起こさない、起きない、つまり、敵対者がいないという、安全感や安心感を得るためには、人格者になる以外に道はないからである。
このような努力をすれば、人はとても安定して平和に過ごすことができる。
努力は、自らがしなければならないものだ。世の中は、そうした一人一人の努力が合わさって成り立っている。
そこで、各自が人格者として努めるようにして、知識、名誉、財産のいずれかを得ようとするならば、安定して穏やかに平和でいることができる。
一人こうした人格者ができれば、それにかかわる人々も皆、平和主義で穏やかな人間に変わっていくであろう。
この道を歩むことは、大変で、難しいものであることは確かだ。
再度、経文を掲げる。
愚か者は名誉・財産を得ても、
それは彼の一切の道徳を破壊し、
頭(智慧)までも切り落としてしまう。
(七二) (第5章 愚か者 より)
この偈(げ。詩文。この経文のこと)の原文を意訳するならば、
「人格のできていない者が、知識を得よう・財産を得よう・名誉を得ようとしても、その者は激しく自らの道徳を破壊してしまう。それと同時に智慧も、自らの人格的な将来もすべて潰して壊してしまう」
といった内容になる。「自らの頭を切断するという道だ」という非常に激しい文学的な表現になっているが、ここでは「すべてを失う」と言いたい訳だ。
仏教の注釈書には、頭(ムッダ)とは智慧のことだとされている。仏教では智慧こそが目指すべきものだとされているので、これがなくなってしまうと、すべてがなくなったことになるのである。
仏教では、財産や名誉を得ることを目指すべきだとはされていない。欲しい人が、頑張って手に入れればいいだけのことだ。
仏教では、人間が理想として目指すべきものは、智慧とされる。これこそが唯一価値があるものであり、智慧がなくなってしまえば、生きていても何の意味もないのである(?)。
この偈で言っていることは、単なる競争原理で知識を使う限り、結局、智慧が生まれる土台さえもなくなってしまうということなのである。
今一度、要点をおさらいしておこう。
この世では、誰しもが、経済的に豊かになること、知識を得ること、名誉を得ることが、素晴らしい生き方である、それこそが人生の成功だと一貫して説かれている。財産、知識、名誉の 3 つを得ることを、誰しもが人生の目標に掲げるのである。
しかし、社会は競争原理で成り立っているので、これらの目標を達成するためには、過酷な競争を勝ち抜いていかなければならない。
成功者は、たくさんのライバルを蹴落とし、激しい競争を勝ち抜いてきた人のことだ。勝ち抜いたということは、ライバルをたくさん増やしていったことでもある。
だから、社会的におさめた成功が大きければ大きいほど、敵対するライバルの数や力もどんどん大きくなってしまうことになる。
例えば、性格が素直で立派な人が、政治に参加したとする。この人が政界の頂点を目指し、やがて大統領などになった時点で、みんなから攻撃されるようになるのである。誰も協力などしてくれない。なぜなら、政治は競争原理の上に成立する、他人を倒してのしあがっていくシステムだからだ。
競争原理の上に成り立つものは、何であろうとも不安定さを免れないのである。だから、成功者がたくさんいれば、それだけ社会は不幸になってしまうという大きな矛盾を抱えたものとなってしまうのだ。
アメリカン・ドリームという言葉があるが、成功者が派手な成功をするほど、不幸な将来はどんどん増えてしまう。みんなが成功者に嫉妬して、隙あらば攻撃しようとする。
これは、学者のような知識の世界でも、競技のような名誉の世界でも見られる光景だ。世の中が、決して平和にはならない矛盾したやり方によって、私達は幸せを手に入れようとしているのである。
こうした矛盾を解決するためには、どうすればいいのか。それは、「皆が人格を育てることが何よりも大事である」と覚悟を決めることだ。
やさしさと思いやり、人のことを心配する気持ちを育むこと、そして、財産も、知識も、名誉も、自分のためだけではなくて、みんなのために使おうと努めること。
これらを、みんなが、仲良く、調和して、共存して生きるために使おうという気持ちがあれば、競争原理はなくなってしまうのである。
そして、あとには、自らに挑戦するという道が出てくることになる。自分で努力して能力を向上させて、それと同時にみんなにも協力してあげる。
こうした人が、人の上に立ち、進化・向上していけば、誰からも感謝されるだろう。そして、その人を取りまく輪も大きく広がっていくことだろう。
このやり方ならば、誰かを踏み倒しながら頂点を目指している訳ではないので、誰からも敵対されることはない。
このような成功者ならば、世の中にいくら増えても、ありがたい、となる。
今の世の中は、誰もが億万長者になれる訳ではないし、すべての人がアメリカン・ドリームを叶えることができる訳でもない。
現実には、ほんのごくわずかな一握りの人々が成功を手にするだけだ。だから、十万人に一人、あるいは百万人に一人にしか、今の競争社会では私達には勝ち目がない。
いつまでも成功者はそんなに増えないし、増えて困ると殺し合いまでしでかすのである。このように、現代社会は、成功と破壊が表裏一体なので、成功は多くの人にとっては望みようがないのである。
このような悪循環から抜け出したいならば、教育でも、日常でも、ビジネスでも、それぞれの世界で、やはり、人格者であることが一番大切だ、と心に決めることだ。
これを重視すれば、どんな状況に置かれても大丈夫だ。敵対するライバルも、もう、いなくなってしまうだろう。
そして、何もかもが、安定することになるだろう。
ブッダの道を歩むならば、いくらでも成功者は増えていく。
みんな誰しもが、自分の夢を叶えることができるのである。
とのこと。
・・・。
ああ、疲れた。