おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

721_ひしみー142

10 初めて法輪を転ず

・釈迦の教えを理解できた者がいた!

前回( 720_ひしみー141 )の続きです。

ひろさんによると、古代インドでは、自治組織の同業者組合はサンガと呼ばれており、仏教でも自らの教団をサンガと呼んだそうだ。

サンガ(修行者・僧)は修行者の集まりというのが本来の意味だそうだ。

従って、サンガというのは、本来は複数形の意味合いなのだが、日本においては、僧=一人のお坊さんの意味で使われてしまっているとのこと。

サンガは漢訳仏典で僧伽(そうぎゃ)であり、その略が、日本の僧となっているらしい。

ということで。

とにかく、最初のお釈迦さんを先生として、生徒を 5 人とした鹿野苑での学びの修行者の集まりである集団は、 6 人ということになる。つまり、お釈迦さんもサンガの構成員の一人だった。

この生徒に当たる元修行仲間の 5 人は、仏典では五比丘(ごびく)と呼ばれている。

比丘の原義は「乞う者」「乞食者(こつじきしゃ)」であり、托鉢によって生活する者を指すもので、お釈迦さんを含めた 6 人のサンガは托鉢によって生活をしていたそうだ。これが一番最初のサンガだそうだ。

生徒に当たる 5 人は、順にお釈迦さんの教えを理解することができた。

仏典には、以下のようになっている(改変あり)。

「確かに、修行僧達よ、私(わたし)は 5 人の修行僧達に了解させることができた。
修行僧達よ、実に私が 2 人の修行僧に教えている時に、他の 3 人の修行僧は托鉢に行き、 3 人の修行僧が托鉢で得たものによって、 6 人の群れは生活した。
修行僧達よ、実に私が 3 人の修行僧達に教えている時に、他の 2 人の修行僧が托鉢に行き、 2 人の修行僧が托鉢に行き、 2 人の修行僧が托鉢で得たものによって、 6 人の群れは生活した」

そうして、最初に悟りを開いたのが、カウンディニヤ(パーリ語表記はコーンダンニャ)で、お釈迦さんはよほどうれしかったらしく、以下のように感歎の言葉を発したそうだ(律蔵。改変あり)。

「ああ、コーンダンニャは悟ったのだ!
ああ、コーンダンニャは悟ったのだ!」

で、ひろさんはその教えの普遍性について、いろいろお書きになっているが、勝手ながら独断と偏見でまとめさせてもらうことにする。

お許し頂きたい。

要は、お釈迦さんがお弟子さんを悟りに導く方法が、それなりに成功しなければ、再現性がないから科学的な方法とは言えず、お釈迦さんただ一人個人的な独りよがりなやり方にしか過ぎない、ということらしい。

お釈迦さんたった一人にしか適用できない方法であるなら、単なるお釈迦さんだけの「狂信」となってしまうらしい。

そして、ひろさんは、こうした考え方を超能力や強い霊感のある人々を信じる基準としている。

そして、他の人々にそうした能力を獲得できる道が公開されない限り、それは信用できない、としている。

そうして再現性がない、普遍性がないから、正しい能力ということはできず、それは単なる創作であるとする。

そのような能力は、作家が作った素晴らしい文学作品であり、その超能力者の創作物語であり、信じるか否かは、読者の勝手として、普遍性を認めない。

しかし。

超能力を認める、霊感を認める立場から言わせてもらえば、これはその人その人のたくさんの過去世の積み重ねを元にして、今生でどのように生まれつくかは、神様のみ心次第であり、これにひろさんのような唯物論的な価値判断を持ち込むことに、そもそも無理がある。

残念ながら、私達のような悟りを開けない一般的な人間には、こうした人々の生まれつく素養を決めつけることには無理があるのだ。

じゃあ、どうすればいいか、判断すればいいのか、と言えば。

私達各自にそなわった神性を頼りに、神様のみ心に適うか、適わないか、を判断すればいい。

どんなに、超能力や霊感があり、人の過去世や心が読めても、普段の行いがお金や豪奢な生活や酒池肉林にまみれていたり、傲慢尊大な態度をとるような人は、結果として自分のためにもならず、みんなのためにもならない、つまり、神様のみ心に適わない想いを抱くことになるから、一切かかわらないようにすればいいのである。

話がそれた。

私流に言わせてもらえば、ひろさんのお考えになるような普遍性を獲得したお釈迦さんの教えも、本当に普遍的な方法とは言えないと考えられる。

なぜならば、その人生までのそれなりの過去世におけるそれなりの積み重ねがなければ、今生だけで悟りを開くことができないと考えられるからだ。

お釈迦さんに巡り合い、修行仲間になるということは、その人達は過去世においてお釈迦さんとそれなりの縁がある人達であり、その過去世でたくさんの修行の積み重ねがある人達だからこそ、悟りを開けた人達だと考えられるからだ。

それをこの世にあらわれたもの、目に見えるものだけで判断する、つまり、唯物論的な価値判断をすると、ひろさんのようなお考えになる。

つまり、古(いにしえ)のお釈迦さんの時代の人達にしろ、後世で悟りを開いた人達にしろ、こうした人達には、お釈迦さんの認めた一定水準を超えるだけのそれまでの過去世の積み重ねがあった人達だ、と考えられるのである。

お釈迦さんの時代でも、後世の時代でも、悟りを開けずに志半ばで、断念した人達がいると思われる理由である。

なぜ、一生懸命、誠心誠意、修行に打ち込んでも、悟りに至る人と至ることができない人がいるのかは、その人その人のそれまでの過去世のありように依存する、と考えられるのである。

だから、ひろさんも普遍性と言いながらも、すべての人々に適用できるとは断言していない。

要するに、私達の様々な能力には、過去世の積み重ねというか、しがらみというか、絶対的な基準があり、能力には、それぞれに差があるように生まれつくのは仕方がないことだ、と考えられる訳である。

過去世の積み重ねという因縁をすべて度外視すれば、私達の本体は神様(仏様)なのであるから、真善美と愛に悖らず、完全で神通力などの超能力があらわせるはずである。

なぜならば、肉体人間の本体(本質)として神様(仏様)の分けられたお命そのままを頂いている、つまり、神様(仏様)であるからだ。

しかし、この世に肉体人間として生きていく便宜上、自己保存の本能を与えられたために、たくさんの輪廻転生を通して、神様(仏様)として相応しくない想いと行いを積み重ねてしまったために、本来持っている能力を発揮できずにいる、と解釈できるのである。

だいぶ話がそれた。

とにかく。

ひろさんは、お釈迦さんの方法で、それなりに悟りを開いた人々が出た以上は、普遍性があり、キリスト教イスラム教などの信じることによって成り立つ宗教(詳細は略。深入りしない)とは異なり、誰もが真理に、悟りに至ることができる道を指し示したという点で、根本的に違っているとお考えのようだ。

ひろさんは、それを以下のようにお書きになっている(改変あり)。
「釈迦の仏教は、キリスト教イスラム教と本質的に違っている。
釈迦は、自分が悟った真理の世界に、誰でもが到達できる方法を教えた。
釈迦は、誰もがその真理の世界に到達できると考えていた。
だから、そこに到達できる方法を人々に教えたのである。
その点において、仏教はあらゆる人々に対する教えである。
そこが、キリスト教イスラム教と根本的に違っているところである」と。

これは、あらゆる肉体人間の本体(本質)は、神様(仏様)の分けられたお命であるから、その神様(仏様)のお命そのままを、つまり、真善美と愛に悖らない想いと行いを、できる限りこの世にあらわしていけるように自らを修めて行く、つまり、霊性の開発をすることに似ていますね。

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追記: 2023/07/11 12:10
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

720_ひしみー141

10 初めて法輪を転ず

・ダルマをみずから味わうための道筋

前回( 719_ひしみー140 )の続きです。

また、前回の内容と重複するが、ご了承頂きたい。

ひろさんのおっしゃりたいと思われる内容を、独断と偏見で、ざっとまとめる。

要は、お釈迦さんだけが、悟りを開いて、唯一無二の特別な高みに達したとされている。

ひろさんの表現によると、
お釈迦さんは、菩提樹の下で悟りを開いた直後は「無言語状態」にあり、
「釈迦は宇宙の真理(ダルマ)と一体化していた」
か、あるいは
「釈迦は宇宙の真理(ダルマ)に帰入した」
と表現すべきとのこと。

その特別な高みのうちのある程度(仮に一定水準とする)に達したら、とりあえずは修行仲間を合格(=教えが理解できた)とすることのようだ。

しかし、ひろさんの本もそうだが、一般的な仏教の本も、ここのところがどうもはっきりしない。

仮に、このような一定水準としておくしかない。

以前、ひろさんは、
戒学(戒律を守ること)、
定学(禅定を修めること)、
慧学(悟りの智慧を得ること)、
の三学が揃わないと仏教にはならない、としていた。

この三学のうち、どこまでを教えたのかが、まったく書いておらず、ただ、お釈迦さんと 5 人の修行仲間がいずれ悟るであろう水準には、かなりの開きはありそうだということくらいしかわからない。

きわめて抽象的で、わかりにくいとしか言いようがない。

お釈迦さんは、仲間を托鉢に行かせているから、慧学だけということでもなさそうだ。

ただ、四諦・八正道・十二縁起が、後世の高僧か仏教学者のあとづけと考えられることもあわせて考えると、これら全部を網羅的に教えたのかどうかは、ちょっと疑問が残る。

とにかく、話が漠然とし過ぎているように思えて仕方がない。

なので、とりあえずは、 5 人の修行仲間には、その一定水準までを教えたと解釈するしかない。

719_ひしみー140

10 初めて法輪を転ず

・ダルマをみずから味わうための道筋

前回( 718_ひしみー139 )の続きです。

以下は、ちょっとひろさんのご本の本筋から外れ、かなりの独断と偏見になってしまうので、あらかじめそれをご了承下さい。

前回の後半の五井先生的と思われる内容(=五井先生の本に書かれている内容を私なりに敷衍・拡大解釈したもの)が、一般的な仏教を奉じる人(=唯物論的な思考をする人とさせて頂く)や唯物論者の人からすると、かなり、オカルトっぽく感じる内容になってしまったかもしれない。

今回も、それを含めた話になってしまうが、お許し頂きたい。

ご興味のない方は、お時間の無駄になると申し訳ありませんので、以下はお読みにならずにお済ませ下さい。

一般的な仏教では、ひろさんもそうだが、お釈迦さんだけを特別扱いして、その悟りの境地を大宇宙の真理を悟ったように理解しているようだ。

しかし。

お釈迦さんの悟りまで、数十段階の悟りがあり、誰がどこまで、かれがここまで云々とするあたかも禅問答のような仏典があっても、これにそんなに意味はあるのか?と疑問を抱いてしまうのだ。

お釈迦さんだけが、特別な高みにのぼったたった一人の大教祖扱いで、下に段をつけて、誰がどうの、かれがこうの、という問答の実質的な意義に疑問を感じてしまうのだ。

私が五井先生の話を持ち出したのは、真理を悟るのも結構だが、それが行いにあらわれなければ、意味をなさない、と思うからだ。

行いの前には、必ず私達肉体人間の抱く想いがあるから、この想いが、実質的な最終産出物(=最終アウトプット)とみなすことができる。

どんなに、深い真理を理解しようが、肝心の想いと行い(以下、想いと行いを想いにまとめて表記する)が悪ければ、それは意味をなさないのではありませんか?

極端な言い方になって申し訳ないが、どんなに偉そうなご高説を垂れていても、日頃の想いが、神様のみ心に適わないもの、すなわち、真善美に悖り、(神様の)愛に背くものでは、何にもならない。

簡単にいうと、いい意味での言行一致でないと、宗教談義に花を咲かせていても意味がない、ということになってしまう、と思うのですよ。

肝心な最終産出物は、想い。

それも、熟慮に熟慮を重ねて、ようやく出るようなものではなくて、瞬時にサッと良い想いが出せるようになる必要がある。

(肉体)人間とは何か、この五感で認識される世界=この世とは何か、この世の理(ことわり)はどうなっているのか、この世以外の世界があるのか、大宇宙の真理はどうなっているのかに、どんなに深い造詣があって、議論をたたかわせることができたとしても、普段の何気ない想いに反映されなければ、絵に書いた餅にしかなりません。

人間の抱く想いは、うつろです。ほんのコンマ何秒以下の単位(いや、それ以下かもしれない)で、クルクル変わる。

様々な想いが頭脳を去来する。

想いを鎮めて制御(統一)するのは容易ではない。

多分、悟りを開いた人くらいでないと、制御できない。

これは瞑想をかじったことのある人なら、誰でもわかるはずです。

やっぱり、こうしたところからしても、私達肉体人間の本質は、肉体を有機的な生命体として成り立たせている元は、限りなく微妙で、微細で、表現できないような神秘的な波動、すなわち、神様に行き着くとしか考えられない。

だから、肉体人間としてこの世に生を受け、この物質世界となるこの世で肉体を維持していくために、やむを得ない形で、自己保存の本能を与えられ、利己的な行動を取らざるを得ないという、厳しい制約がある中で、普通に肉体人間として良いと思われる想いを抱くように、努めて、自らを修養していくこと、すなわち、上記の言い方ならば、真善美と愛に悖らない想いを自然に出せるように、自らを修めていくことが、やはり、求められてくると思うんですよ。

ではなぜ想いを鎮めて制御して、できる限り良い想いが出せるように、頭の中ができるだけ良い想いで満たされるようにしなければならないか、というと。

私達の抱く想いが私達の運命をひいては、その集積としての世の中の運命を決めていく、と考えられるからです。

以下、肉体人間の本質は、神様の分けられたお命である霊魂魄であり、霊魂魄は輪廻転生をするものとして、話を進めます。

私達には、はなはだわかりにくく、厄介なことに、この想いの結果というか、行く末は、輪廻転生を通すことが原則になっているのです。

つまり、現時点で肉体人間として新たに抱いた想い(=因縁)は、原則として来世以降に結果(=因果)としてあらわれるようになっているのです。

つまり、初めてこの世に生を受けてから、繰り返す人生の中で、過去の何度もの生まれ変わり死に変わりのたくさんの想いの集積が、次の世、そしてまた次の世と、バッハのフーガというか、海の波のように、繰り返し繰り返し、あらわれていくのが、輪廻転生だと考えられるのです。

ということは、現在の想いもかなりの部分が過去世(=前世、前々世、・・の総称)で占められていて、この世にあらわれてくる運命も、かなりの程度過去世の想いを反映したものだ、ということになります。

従って、良い想いも、悪い想いも、私達がたくさん抱く想いは、輪廻転生を通して私達の人生を作り出し、巡っていくのが、輪廻転生ということになります。

肉体人間としての生物的な寿命は限らているために、20 才をピークとして肉体が衰えるのが恐ろしい、病気になるのが恐ろしいなど、肉体か衰え、損なわれ、最終的に肉体が失われる死に恐怖を抱き、過去世の真善美に悖り愛に背く、その本質である神様からすると誤った想いの結果としての病争貧苦を味わい、迷わざるを得ないようになっている。

こうした形になるのも、自己保存の本能により利己的な想いを抱かざるを得ないという制約があるから仕方がないとはいえ、この制約の中でも、その本質の神様そのものの命をあらわすべきことには変わりがないことになります。

なので、普段からの想いが真善美と愛に悖らない想いで満たされるように、それも何気なく自然にサッと出せるように、つまり、神様のようになるように、できるだけ近づいていくための修行が、輪廻転生であり、その一部分が私達の味わうことになる個々の人生と考えられるのです。

端的に言うと、肉体人間という生物としては、動物のような利己的な行動を取る傾向があることはやむを得ないとしても、その本質が神様である以上は、肉体人間各々は、どんなに見た目が異なり、年齢が異なっていても、肉体人間である以上、神様のお命を分け与えられたことによって生きている神様の子供である、兄弟姉妹、同胞であり、従って、互いに愛し合い、慈しみ合い、互いのために生きるべきだ、ということになります。

過去世の因縁により、この世にどんなに反目する形であらわれているとしても。

ただし、実際には、そうした利己的な想いのために、他者を損なう想い、他者を憎む想い、出し抜く想いなどがぶつかりあって、過去世の因縁となり、次の世以降に、いさかいや争いという形にあらわれてきてしまう。

しかも、さらに厄介なことには、私達は輪廻転生を経ると、原則としてそれまでの過去世の記憶は消されてしまう。

これでどうなるかというと、今生の今現在にあらわれてくる意図せずに起こってくる出来事は、過去世の想いをその原因(因縁)のあらわれとしてのものが、かなりある、ということになります。

ただただ、偶然に良い想いをした、悪い想いをさせられたという出来事は、過去世の中にあったいわば身に覚えがない抱いた想いを原因とした、今生にあらわれた結果である可能性がかなり高いということです。

以上のように見てくると、私達の輪廻転生を通した神様のあり方に近づいていくために、すなわち、真善美に悖らない愛に満ちた想いを抱くように努めていく、修行としての人生は、想いを整えることが、最重要課題ということができます。

想いが(主として来世以降の)肉体人間の運命を決める。

想いがすべて。

仏教でよく出てくる、愛する人、家族、物に対するあらゆる執着は、結局は人間の本質が神様であるということがわからず、肉体にばかり、目に見える、肌で感じる、いわゆる、五感に感じるものがすべてと感じるから生じてくる。

本当の人間というのは、その本質は、本体は、神様の分けられたお命、すなわち、神様であると感得することができれば、この世の肉体も、肉体が 20 才までの成長の後に、徐々に衰退していくことも、やがていつかは肉体が朽ち果てて死に至ることも、過去世で抱いた様々な誤った想いの今生への病争貧苦としてのあらわれも、すべては、輪廻転生を通してたくさんの人生を経ていくために体験していく、通りすぎていく出来事(=五井先生のいう消えてゆく姿)であり、神様の分けられたお命そのものは変わらない。

肉体人間として、この世に動物のように生きがちな性質を与えられても、これを克服して、五感に感じられることに対するあらゆる執着から解き放たれて、本当の人間は神様だったんだ、肉体人間として、迷いに迷い、様々な紆余曲折を経ても、こっち(神様)が本物だったんだ、実態だったんだ、とわかれば、肉体にまつわる、衰弱、死、肉親や近しい人、その生活にかかわるあらゆる物に対する執着から解き放たれることになる。

自分が神様の命を肉体を場として働きながら、様々な喜怒哀楽、病争貧苦に周章狼狽、右往左往しているのも、単なる迷いに過ぎなかったんだ、となれば、安らかな、安穏な境地に至ることができると考えられる。

ただ、言葉では簡単にこのようにあらわしてみても、実際に悟りを開くようにして、感得しないとこれはわからない。

そうした境涯というのは、体験した人でないとわからない。

残念ながら。

仏教には、そうした境地に至るための修行方法が大別して、2 つある。

それが、お釈迦さんのような自力で様々な修行をして戒律を守る難行道と、浄土門の易行道となっている。

ざっとまとめると、要するに、私達肉体人間として抱く想いを、真善美と愛に悖らないように想いを整え、最終的には肉体にも、肉体にまつわる五感で認識されるあらゆる事象(人と物や名誉などを含む)を取り払って、自らの身に起きてくる、世の中に起きてくる様々な出来事に、右往左往せず、周章狼狽しない、安穏な境地に至ることを目指して、進化・向上していくのが私達に求められてくる内容、特に仏教は、と言えるでしょうね。

718_ひしみー139

10 初めて法輪を転ず

・ダルマをみずから味わうための道筋

前回( 717_ひしみー138 )の続きです。

独断と偏見で申し訳ないが、どうもひろさんのお書きになっている書き方が、散発的でわかりにくいように思えるので、勝手にまとめさせて頂く。

ひろさんによると、大体、以下の通り。

ダルマという宇宙の真理(以下、すべてダルマとする)とされているものは、あくまでもお釈迦さんだけが味わえた特別なもので、そのすべてをお弟子さんとなる、 5 人の元修行仲間に授けられる訳ではない。

ダルマとしては、あくまでも、そのごく一部しか伝授できないはずである。

つまり、ダルマを悟ったとすべきではなく、それなりにある程度の部分までダルマを悟った、すなわち、ダルマ全体のごく一部分、ある程度のダルマまでを悟った、とすべきだと書かれているように見える。

だから、自らダルマの全体の一部分を悟り、普通の人とは異なり、ダルマのその一部分という、ある程度目覚めたと解釈すべきだとされているように見える。

ブッダという言葉は、元々が自動詞であり、「目覚めた」という意味であることからしても、「ダルマを悟った」と訳すべきではなく、「ダルマに目覚める」と解釈すべきだとされている。

では、お釈迦さんが、元修行仲間の 5 人に何を味わわせたかったのか、どのような程度や形に導きたかったのか、は次のように示されているところから推察するしかない。

律蔵には、以下のように記されている(段落分けなどの改変あり)。

「修行者ども、耳を傾けよ。
不死が得られた。
私(わたくし)は教えるであろう。
私は法を説くであろう。
汝らは教えられた通りに行なうならば、久しからずして、良家の子らが正しく家から出て出家修行者となった目的である無上の清浄行の究極を、この世において自ら知り、証し、体現するに至るであろう。」

これが、仏教で一般的に言われているお釈迦さんが最初に、四諦・八正道・十二縁起という、最初の教えとなる初転法輪の枕詞らしい。

初転法輪は、お釈迦さんが、法(ダルマ)を輪(チャクラ)という、あたかも古代インドの円盤状の武器=この場合は人を説得するための言葉などにたとえ、転がして敵を倒す=教えで人を説得する・納得させるようにして、初めての教えをしたことを指しているらしい。

ただ、ひろさんは、お釈迦さんの鹿野苑での初転法輪では、四諦・八正道・十二縁起といったいかにも体系的でまとまった教えを説いた訳ではないとお考えのようだ。

これは、多分、そうだろう。

後世の高僧や仏教学者さんがこのように学問のようにまとめ上げたのだろう。

とにかく。

ひろさんは、お釈迦さんが 5 人にダルマの限定された部分に至るまでの道筋を教えたことが、初転法輪だとされている。

・・・。

悪いけど、どうもクネクネしてつかみどころがないなあ。

律蔵を元に、素人なりに勝手に解釈させて頂くと。

「不死が得られた」というのは、病争貧苦などのこの世の苦しみや、肉体にまつわるあらゆる欲望をはじめとする妄執から解き放たれて、この世のありようの仕組みをかなりの程度理解して、とりあえず、周章狼狽しない、安穏の境地に入ることができたと考えられる。

いわゆる、涅槃(ニルヴァーナ)の境地ですね。

ただ、五井先生の別の観点から、この「不死が得られた」を解釈するとするならば。

人間は、あたかも動物と同じように目に見える形でこの世にあらわれているが、その本質は、本体は、神様の分けられたお命という、肉体を有機的生命体として成り立たせている神様の子供としての霊なる人間、霊魂魄そのもの、命そのものが本当の人間である。

従って、霊なる人間からすれば、時間とともに衰退していく肉体も、この世にあらわれてくる病争貧苦も、すべては時間の経過とともに消え去っていく、あたかも仮想現実のような、それぞれが過去世で抱いた想いのこの世での形になってあらわれては消え去っていく、消えてゆく姿である。

(悟りを開けない私達には到底実感はできないけれど)私達は、神様の永遠の命を生きていくものであり、そのお命である光明の一筋一筋の分かれ分かれが肉体に宿り、肉体を場として、働いているものである。

ただ、肉体人間としてこの世にあらわれてくる以上は、その本質に相応しくあるように、人格を向上させ、行いを整えていかなければならない。

この物質世界となるこの世を生きていくために、わが身を守るという利己的な行動を取らざるを得ない自己保存の本能を与えられていても、この神様としての本質に相応しく生きていかなければならないということに変わりはない。

つまり、私達肉体人間は、本来的に気高く、清廉に生きていかなければならない宿命を背負っている存在と言える。

輪廻転生という、生まれ変わり、死に変わりという修行を、何度も何度も経験することによって。

つまり、「不死」というのは、私達は神様の分けられたお命、すなわち、神様としてその命は、永遠のものである。

肉体人間として、この世に生まれて、やがていつかは死を迎えることになったとしても、その命は輪廻転生を通して永遠である。

だから、魂を浄めるための修行として、この世に生を受ける以上、肉体の衰えや死、そして、病争貧苦などは避けられないものとなっていても、これは霊なる人間という本体そのものが損なわれるものでもなければ、消失するものでもない。

つまり、私達は、その本質としての霊なる人間としては、肉体が死を迎えても霊体として、死ぬことはなく、永遠である。

だから、人は死なない、不死の境地とは、霊性の観点からすれば、このように見ることができる。

717_ひしみー138

10 初めて法輪を転ず

・五人の仲間との邂逅

今回から、第 10 章( 10 初めて法輪を転ず )に入る。

悟りを開いた自らの教えを理解する者を探すべく、お釈迦さんはヴァーラーナシーに向かった。

仏典によると、お釈迦さんが、旧知の修行仲間の 5 人に会うために、ヴァーラーナシーに来たようになっていて、そこで再会した彼らを短期間のうちに魅了したように書いてあるが、これについて、ひろさんは疑問を呈している。

まず、旧知の 5 人に再会したのは、たまたまだっただろう、とされている。すなわち、当時のヴァーラーナシーの北東 7 km のリン・パタナと呼ばれた仙人の集まる所であった鹿野苑(ろくやおん。ムリガターヴァ)には、多くの宗教者が集まり、修行する土地であったので、そこを目指してきたお釈迦さんが、たまたま彼らと再会したのが事実だろうと推測されている。

また、お釈迦さんが短期間に彼らを魅了したのではなくて、数ヶ月など、もっと時間を要した可能性があると推測されている。

なぜ、短期間ではなかったとお考えになったのかは、以下の通り。

まず、彼らにとって、そもそもお釈迦さんは修行の脱落者であったことがあげられる。

それは、お釈迦さんが、ともに苦行に打ち込んでいた修行仲間であり、かなりの境地まできていたと思われる状態でありながら、苦行を途中で放棄して彼らの下を去って行った経緯があったからだ。

こうしたお釈迦さんの修行者としてのあり方は、彼らにとっては中途半端な堕落者にしかならないのであり、軽蔑すべき人間に映っていた。

だから、ひろさんは、彼らの気持ちを以下のように推察している。

「われわれは、彼(お釈迦さん)を歓迎はできないが、まあ、再び、修行をしたいなら、仲間に加えてやるか、くらいの気持ちだっただろう」と。

ひろさんは、仏典に書かれている、彼らが再会したお釈迦さんに対して呼びかけた言葉、
「お前さん」
がそれを裏付けているとしている。

そんな彼ら 5 人の修行者に対して、お釈迦さんはこう返した。

「悟りを開いた如来に向かって、「お前さん」といった呼びかけをしてはならない。
如来は尊敬されるべき人である。
あなた方は、私の教えに耳を傾けるべきだ」

そして、お釈迦さんは彼らに向かってこう言った。

「私の態度を見てごらん」

ひろさんは、その時のお釈迦さんには、宗教者として他者を敬服させる物腰や人格、取り巻きなどの威容がないから、態度で彼らを信用させるしかなかったとされている。

それゆえに、ひろさんは、お釈迦さんが、彼ら(元修行仲間の 5 人)を信用させるまでかなりの時間がかかった可能性があるとお考えになっているようだ。

~~~~~

・法輪~ほうりん~仏教語~仏の教え。仏法。仏の教えが悪をくじき、それが他に伝わっていくのを、車輪が動くのにたとえた語。

・邂逅~かいこう~思いがけなく出会うこと。巡り会い。
(用例)邂逅の喜び。

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追記: 202/06/19 06:55
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

716_ひしみー137

09 梵天による懇請

・「無師独悟」の釈迦

前回( 715_ひしみー136 )の続きです。

悟りの境地を1ヶ月近く味わっていたお釈迦さんは、世の人々の教化を梵天様に再三懇請され、それにほだされる形で伝道の旅に出ることになった(ここでは、仏教の通説やひろさんのお考えに従って書いている)。

この節 ( ・「無師独悟」の釈迦 ) で書いてあることを簡単にまとめると、教えを説くに値する修行者を求めて、ヴァーラーナシーに向かい始めたお釈迦さんが、道すがら宿命論を教義としていたアージーヴィカ教徒のウパカさんという修行者に出会い、彼(ウパカさん)はさすがに修行者だけあって、お釈迦さんの尋常ではない浄まり具合に気づいて、話かけてきたが、お釈迦さんが誰にも師事せずに悟りを開いたことを知ると、これはすなわち無師独悟で、こりゃ信用できんということで、去って行ってしまったという話である。

そのために、お釈迦さんは結果としてウパカさんに教えを説くことができずじまいになったというもの。

要は、世間一般的な価値尺度の裏付けがなければ、いくら悟りを開いたように浄まって見えたとしても、師匠に師事せずに悟りを開いたという自己主張は、信用を勝ち得るまでには至らないという、当時のインドの事情だったのだろう。

あるいは、ウパカさんの過去世の因縁がお釈迦さんの悟りを感得できる水準にまでは、至っていなかったのかもしれない。

ひろさんによると、大体、以下の通り(省略・改変あり)。

ヴァーラーナシーへの街道を歩む釈迦に、アージーヴィカ教徒のウパカという遍歴修行者が声をかけてきた。

ウパカは、
「あなたの五感は清浄であり、素晴らしい。
あなたの師は誰であり、誰の教えをあなたは信受しているのか?」
と釈迦に尋ねた。

これに対して釈迦は、
「我は一切に打ち勝った者、一切を知る者である。
一切の物事に汚されていない。
すべてを捨てて、妄執を無くしたから解脱している。
自ら知ったならば、誰を(師と)目指すであろうか。
我に師は存在しない。
我に似た者は存在しない。
神々を含めた世界の内に、我に比肩し得る者は存在しない。
我こそは世間において尊敬さるべき人である。
我は無上の師である。
我は唯一なる正覚者である。」
と答えている。

そして、ウパカは、
「あるいは、そうかもしれん・・・」
と言いながら、首を振りながら去って行った(のようにひろさんはお書きになっている)。

つまり、お釈迦さんの悟りの自己申告(宣言?)だけでは、ウパカさんの信用を勝ち得るまでには至らなかった、無師独悟は認められなかったという話である。

後々、お釈迦さんがたくさんの人を導き、仏教を興すことになったのだから、このような結末となったのは、やはり、ウパカさんの慧眼が足りなかった、ウパカさんの過去世の積み重ねが足りなかった(後の 5 人の元修行仲間と比べれば、ウパカさんの境涯がやはり足りなかったと解釈できる)から、ウパカさんはお釈迦さんに教えを授かる機会を逃した、と言えるのだろう。

その後のヴァーラーナシーまでの道すがらは、どうなったのかは、わからないが、とにかく、お釈迦さんは教えを説くことはなかったとされている。

ひろさんによると、大体、以下の通り(改変あり)。

「 「誰か私を理解してくれる者はいないだろうか  ・・・」
そう思いながら釈迦はヴァーラーナシーへ歩みを進めた。あるいは、途中でウパカのような他の修行者に出会ったかもしれない。あるいは、釈迦の方(ほう)から声をかけた修行者もいたのかもしれない。しかし、誰一人として、釈迦の教えを聴聞しようとする者はいなかった。
だから、釈迦は一人でヴァーラーナシーに行った。
そして、はからずも旧知の 5 人の修行仲間と再会したのである。
釈迦は、その 5 人に教えを説いた。
一体、どのような教えを釈迦は説いたのか・・・。」

こうして、お釈迦さんは、ヴァーラーナシーに行き、かつての修行仲間の 5 人と再会することになる。

以上で、第 9 章( 09 梵天による懇請 )を終わります。

次回から、第 10 章( 10 初めて法輪を転ず )になります。

715_ひしみー136

09 梵天による懇請

・ヴァーラーナシーへ向かった釈迦

前回( 714_ひしみー135 )の続きです。

一応、前回のお釈迦さんが伝道を決意したところまで書いたので、今回はその始まりからになる。

ただ、前回までかなりグダグダとお釈迦さんが伝道に立ち上がるまでにの経緯を書いてしまったので、以下は重複となるが、仏教の通説とはかけ離れた私の異論を含めて(大雑把になるが)軽くおさらいしたい。

ご了承頂きたい。

私が異論で述べたように。

そもそも、本当の人間とは、動物のような形でこの世にあらわれている目に見えて、手に触れることができるような肉体の人間ではない。

本当の人間とは、その肉体を有機的な生命体として成り立たせている、目には見えない、神様の分けられたお命=霊魂魄という、命そのものである。

ということは、人間の本質は、この世を生きていく便宜上、肉体をまとって、さらには、自己保存の本能という、霊魂魄には本来はなかった性質を与えられたために、どうしても自己の肉体を中心とした利己的な想いを抱き、行動をするようになってはいても、本体は神様そのものに他ならないことになる。

したがって、その肉体人間として、あるべき想いと行いは、当然に神様のようにあらねばならないことになる。

つまり、真善美に悖らず、愛に満ちた想いを抱き、行いをしなければならない、ということになるのである。

このように肉体人間を定義すれば、お釈迦さん在世当時の古代インドの慣習のように悟りを開いたから、速やかに涅槃に入るべきという結論にはならない。

なぜならば、上記のように神様は愛そのものの存在なのであるから、何もわざわざ大乗仏教にいうところの慈悲のような考え方を持ち出すまでもなく、この世の不条理や苦しみに呻吟している人がいれば、救いに立つのは、当然のことになるからだ。

たとえ、悟りにはほど遠く、何世の輪廻転生を通しても、なかなか救えない、つまり、今生のみでは救えないような人がその中にたくさん含まれていて、伝道の道半ばで挫折することになろうとも、伝道を始めるのが自然な成り行きになるからだ。

だから、一般的な仏教の通説にあるように、悟りを開きその境地を楽しんだお釈迦さんが、速やかに涅槃には入らず、世の中の不条理や病争貧苦などに苦しむ、悟りにはほど遠い人達を救うのはきわめて困難をきわめることを憂い、伝道に赴いて、教化をしても、お釈迦さんの教えを理解できる人はある程度限られてしまうことを憂い、梵天様の懇請により、あたかも三顧の礼に似た形で、やむを得ず(???)伝道に立ち上がった経緯は、あまりしっくりこないのである。

中でも、ひろさんがお書きになっていた(改変あり)、
「自分が悟った真理に至る道を人々に示してやろうか・・・」
とか、
お釈迦さんの言葉とされる、
梵天よ、人々を害するであろうかと思って、 微妙な法を人々には説かなかったのだ」(律蔵)
とされている物語の経緯があまりすっきりしなかったのである。

まあ、とにかく。

お釈迦さんのように、今生のみで悟りを開く素養があった人(=つまり、今生だけで悟りを開けるほどに、たくさんの過去世での良い想いと行いの積み重ねと人間の本質に対する探求心があった人)でさえ、 6 年もの大変な修行期間を要している訳だから、ごく一般的な人に教えを説いても、まず、理解されることはない。

なぜならば、世の中の人は、お釈迦さんの過去世のような背景を持っていない人がほとんどだからだ。

だから、それなりの過去世の積み重ねがある人、言い換えれば、この世にそれなりの道を求め、修行に明け暮れて来たような人でなければ、到底、自分の教えを理解することはできない。

教えを理解するということは、仏教という道を拓いたお釈迦さんという開拓者としての高い境地ほどではないにしろ、ある程度の修行者としてこの世にあらわれている、すなわち、それなりの過去世の積み重ねがある人でないと、教えが理解されることはないので意味がないことになってしまうからだ。

つまり、過去世の積み重ねがない、この世に修行者としてあらわれてもいない、ごくごく一般的な人に教えを説いても理解される可能性はない、ということになる。

そうなると。

お釈迦さんは、悟れる素養のある人(=それなりの過去世の積み重ねがある人)を探して、訪ねていくことになる。

そこで、思い当たったのが、お釈迦さん自らの禅定の師匠だった、アーラーダ仙、ウドラカ仙だったが、このお二人はすでにこの時点で亡くなっていたと神に知らされる。

すなわち、
「・・・二人の禅定家は、それなりの有名人であったから、その死去の情報が伝わっており、誰かが釈迦にそれを伝えたのであろう。仏伝作者は、それを神として描いたのである」
と。

そこで、お釈迦さんは、かつての修行仲間の 5 人を当たろうと、その居場所を天眼(千里眼のこと)で、ヴァーラーナシーにいることがわかり、そこに向かうことになる。

ただし、ひろさんによると、アーラーダ仙とウドラカ仙の亡くなったことは、神のお告げとされているが、これは仏伝作者の創作だろうとしている。

また、修行仲間の 5 人を探し出した天眼通についても、ブッダガヤーからヴァーラーナシーまでは、251 km あるので、いくら天眼通でもわからないとして、当時宗教都市であったヴァーラーナシーに行けばたくさんの修行者が集まっているから、そこに向かおうと考えたとしている。

そこで、たまたま、かつての修行仲間の 5 人に再会したのだろうとしている。

ひろさんは、天眼の話も仏伝作者が、創作したものだろう、と以下のように推測している。
「・・・それを仏伝作者は、釈迦は天眼でもって 5 人の仲間がヴァーラーナシーにいることを確認して、その 5 人を教化するためにヴァーラーナシーに行ったのだと書いた訳である」(改変あり)
と。

つまり、ひろさんによると、アーラーダ仙もウドラカ仙の亡くなったことの神のお告げも、かつての修行仲間の 5 人の居場所を天眼で探り当てたことも、仏伝作者の創作ということらしい。

しかし。

天眼は、距離には関係なく、たとえ地球の裏側でもわかるんじゃなかろうか。

なんか、唯物論と唯心論がごっちゃになっている気がしますねえ。

ちなみに。

お釈迦さんは、ヴァーラーナシーに行く途中で、一人の修行者に出会い、教えを説こうとした。

それは、うまくいかなかったのだが、それは次回に含む話となる。

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追記: 2023/06/17 18:25
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。