おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

721_ひしみー142

10 初めて法輪を転ず

・釈迦の教えを理解できた者がいた!

前回( 720_ひしみー141 )の続きです。

ひろさんによると、古代インドでは、自治組織の同業者組合はサンガと呼ばれており、仏教でも自らの教団をサンガと呼んだそうだ。

サンガ(修行者・僧)は修行者の集まりというのが本来の意味だそうだ。

従って、サンガというのは、本来は複数形の意味合いなのだが、日本においては、僧=一人のお坊さんの意味で使われてしまっているとのこと。

サンガは漢訳仏典で僧伽(そうぎゃ)であり、その略が、日本の僧となっているらしい。

ということで。

とにかく、最初のお釈迦さんを先生として、生徒を 5 人とした鹿野苑での学びの修行者の集まりである集団は、 6 人ということになる。つまり、お釈迦さんもサンガの構成員の一人だった。

この生徒に当たる元修行仲間の 5 人は、仏典では五比丘(ごびく)と呼ばれている。

比丘の原義は「乞う者」「乞食者(こつじきしゃ)」であり、托鉢によって生活する者を指すもので、お釈迦さんを含めた 6 人のサンガは托鉢によって生活をしていたそうだ。これが一番最初のサンガだそうだ。

生徒に当たる 5 人は、順にお釈迦さんの教えを理解することができた。

仏典には、以下のようになっている(改変あり)。

「確かに、修行僧達よ、私(わたし)は 5 人の修行僧達に了解させることができた。
修行僧達よ、実に私が 2 人の修行僧に教えている時に、他の 3 人の修行僧は托鉢に行き、 3 人の修行僧が托鉢で得たものによって、 6 人の群れは生活した。
修行僧達よ、実に私が 3 人の修行僧達に教えている時に、他の 2 人の修行僧が托鉢に行き、 2 人の修行僧が托鉢に行き、 2 人の修行僧が托鉢で得たものによって、 6 人の群れは生活した」

そうして、最初に悟りを開いたのが、カウンディニヤ(パーリ語表記はコーンダンニャ)で、お釈迦さんはよほどうれしかったらしく、以下のように感歎の言葉を発したそうだ(律蔵。改変あり)。

「ああ、コーンダンニャは悟ったのだ!
ああ、コーンダンニャは悟ったのだ!」

で、ひろさんはその教えの普遍性について、いろいろお書きになっているが、勝手ながら独断と偏見でまとめさせてもらうことにする。

お許し頂きたい。

要は、お釈迦さんがお弟子さんを悟りに導く方法が、それなりに成功しなければ、再現性がないから科学的な方法とは言えず、お釈迦さんただ一人個人的な独りよがりなやり方にしか過ぎない、ということらしい。

お釈迦さんたった一人にしか適用できない方法であるなら、単なるお釈迦さんだけの「狂信」となってしまうらしい。

そして、ひろさんは、こうした考え方を超能力や強い霊感のある人々を信じる基準としている。

そして、他の人々にそうした能力を獲得できる道が公開されない限り、それは信用できない、としている。

そうして再現性がない、普遍性がないから、正しい能力ということはできず、それは単なる創作であるとする。

そのような能力は、作家が作った素晴らしい文学作品であり、その超能力者の創作物語であり、信じるか否かは、読者の勝手として、普遍性を認めない。

しかし。

超能力を認める、霊感を認める立場から言わせてもらえば、これはその人その人のたくさんの過去世の積み重ねを元にして、今生でどのように生まれつくかは、神様のみ心次第であり、これにひろさんのような唯物論的な価値判断を持ち込むことに、そもそも無理がある。

残念ながら、私達のような悟りを開けない一般的な人間には、こうした人々の生まれつく素養を決めつけることには無理があるのだ。

じゃあ、どうすればいいか、判断すればいいのか、と言えば。

私達各自にそなわった神性を頼りに、神様のみ心に適うか、適わないか、を判断すればいい。

どんなに、超能力や霊感があり、人の過去世や心が読めても、普段の行いがお金や豪奢な生活や酒池肉林にまみれていたり、傲慢尊大な態度をとるような人は、結果として自分のためにもならず、みんなのためにもならない、つまり、神様のみ心に適わない想いを抱くことになるから、一切かかわらないようにすればいいのである。

話がそれた。

私流に言わせてもらえば、ひろさんのお考えになるような普遍性を獲得したお釈迦さんの教えも、本当に普遍的な方法とは言えないと考えられる。

なぜならば、その人生までのそれなりの過去世におけるそれなりの積み重ねがなければ、今生だけで悟りを開くことができないと考えられるからだ。

お釈迦さんに巡り合い、修行仲間になるということは、その人達は過去世においてお釈迦さんとそれなりの縁がある人達であり、その過去世でたくさんの修行の積み重ねがある人達だからこそ、悟りを開けた人達だと考えられるからだ。

それをこの世にあらわれたもの、目に見えるものだけで判断する、つまり、唯物論的な価値判断をすると、ひろさんのようなお考えになる。

つまり、古(いにしえ)のお釈迦さんの時代の人達にしろ、後世で悟りを開いた人達にしろ、こうした人達には、お釈迦さんの認めた一定水準を超えるだけのそれまでの過去世の積み重ねがあった人達だ、と考えられるのである。

お釈迦さんの時代でも、後世の時代でも、悟りを開けずに志半ばで、断念した人達がいると思われる理由である。

なぜ、一生懸命、誠心誠意、修行に打ち込んでも、悟りに至る人と至ることができない人がいるのかは、その人その人のそれまでの過去世のありように依存する、と考えられるのである。

だから、ひろさんも普遍性と言いながらも、すべての人々に適用できるとは断言していない。

要するに、私達の様々な能力には、過去世の積み重ねというか、しがらみというか、絶対的な基準があり、能力には、それぞれに差があるように生まれつくのは仕方がないことだ、と考えられる訳である。

過去世の積み重ねという因縁をすべて度外視すれば、私達の本体は神様(仏様)なのであるから、真善美と愛に悖らず、完全で神通力などの超能力があらわせるはずである。

なぜならば、肉体人間の本体(本質)として神様(仏様)の分けられたお命そのままを頂いている、つまり、神様(仏様)であるからだ。

しかし、この世に肉体人間として生きていく便宜上、自己保存の本能を与えられたために、たくさんの輪廻転生を通して、神様(仏様)として相応しくない想いと行いを積み重ねてしまったために、本来持っている能力を発揮できずにいる、と解釈できるのである。

だいぶ話がそれた。

とにかく。

ひろさんは、お釈迦さんの方法で、それなりに悟りを開いた人々が出た以上は、普遍性があり、キリスト教イスラム教などの信じることによって成り立つ宗教(詳細は略。深入りしない)とは異なり、誰もが真理に、悟りに至ることができる道を指し示したという点で、根本的に違っているとお考えのようだ。

ひろさんは、それを以下のようにお書きになっている(改変あり)。
「釈迦の仏教は、キリスト教イスラム教と本質的に違っている。
釈迦は、自分が悟った真理の世界に、誰でもが到達できる方法を教えた。
釈迦は、誰もがその真理の世界に到達できると考えていた。
だから、そこに到達できる方法を人々に教えたのである。
その点において、仏教はあらゆる人々に対する教えである。
そこが、キリスト教イスラム教と根本的に違っているところである」と。

これは、あらゆる肉体人間の本体(本質)は、神様(仏様)の分けられたお命であるから、その神様(仏様)のお命そのままを、つまり、真善美と愛に悖らない想いと行いを、できる限りこの世にあらわしていけるように自らを修めて行く、つまり、霊性の開発をすることに似ていますね。

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追記: 2023/07/11 12:10
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。