おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

716_ひしみー137

09 梵天による懇請

・「無師独悟」の釈迦

前回( 715_ひしみー136 )の続きです。

悟りの境地を1ヶ月近く味わっていたお釈迦さんは、世の人々の教化を梵天様に再三懇請され、それにほだされる形で伝道の旅に出ることになった(ここでは、仏教の通説やひろさんのお考えに従って書いている)。

この節 ( ・「無師独悟」の釈迦 ) で書いてあることを簡単にまとめると、教えを説くに値する修行者を求めて、ヴァーラーナシーに向かい始めたお釈迦さんが、道すがら宿命論を教義としていたアージーヴィカ教徒のウパカさんという修行者に出会い、彼(ウパカさん)はさすがに修行者だけあって、お釈迦さんの尋常ではない浄まり具合に気づいて、話かけてきたが、お釈迦さんが誰にも師事せずに悟りを開いたことを知ると、これはすなわち無師独悟で、こりゃ信用できんということで、去って行ってしまったという話である。

そのために、お釈迦さんは結果としてウパカさんに教えを説くことができずじまいになったというもの。

要は、世間一般的な価値尺度の裏付けがなければ、いくら悟りを開いたように浄まって見えたとしても、師匠に師事せずに悟りを開いたという自己主張は、信用を勝ち得るまでには至らないという、当時のインドの事情だったのだろう。

あるいは、ウパカさんの過去世の因縁がお釈迦さんの悟りを感得できる水準にまでは、至っていなかったのかもしれない。

ひろさんによると、大体、以下の通り(省略・改変あり)。

ヴァーラーナシーへの街道を歩む釈迦に、アージーヴィカ教徒のウパカという遍歴修行者が声をかけてきた。

ウパカは、
「あなたの五感は清浄であり、素晴らしい。
あなたの師は誰であり、誰の教えをあなたは信受しているのか?」
と釈迦に尋ねた。

これに対して釈迦は、
「我は一切に打ち勝った者、一切を知る者である。
一切の物事に汚されていない。
すべてを捨てて、妄執を無くしたから解脱している。
自ら知ったならば、誰を(師と)目指すであろうか。
我に師は存在しない。
我に似た者は存在しない。
神々を含めた世界の内に、我に比肩し得る者は存在しない。
我こそは世間において尊敬さるべき人である。
我は無上の師である。
我は唯一なる正覚者である。」
と答えている。

そして、ウパカは、
「あるいは、そうかもしれん・・・」
と言いながら、首を振りながら去って行った(のようにひろさんはお書きになっている)。

つまり、お釈迦さんの悟りの自己申告(宣言?)だけでは、ウパカさんの信用を勝ち得るまでには至らなかった、無師独悟は認められなかったという話である。

後々、お釈迦さんがたくさんの人を導き、仏教を興すことになったのだから、このような結末となったのは、やはり、ウパカさんの慧眼が足りなかった、ウパカさんの過去世の積み重ねが足りなかった(後の 5 人の元修行仲間と比べれば、ウパカさんの境涯がやはり足りなかったと解釈できる)から、ウパカさんはお釈迦さんに教えを授かる機会を逃した、と言えるのだろう。

その後のヴァーラーナシーまでの道すがらは、どうなったのかは、わからないが、とにかく、お釈迦さんは教えを説くことはなかったとされている。

ひろさんによると、大体、以下の通り(改変あり)。

「 「誰か私を理解してくれる者はいないだろうか  ・・・」
そう思いながら釈迦はヴァーラーナシーへ歩みを進めた。あるいは、途中でウパカのような他の修行者に出会ったかもしれない。あるいは、釈迦の方(ほう)から声をかけた修行者もいたのかもしれない。しかし、誰一人として、釈迦の教えを聴聞しようとする者はいなかった。
だから、釈迦は一人でヴァーラーナシーに行った。
そして、はからずも旧知の 5 人の修行仲間と再会したのである。
釈迦は、その 5 人に教えを説いた。
一体、どのような教えを釈迦は説いたのか・・・。」

こうして、お釈迦さんは、ヴァーラーナシーに行き、かつての修行仲間の 5 人と再会することになる。

以上で、第 9 章( 09 梵天による懇請 )を終わります。

次回から、第 10 章( 10 初めて法輪を転ず )になります。