10 初めて法輪を転ず
・ダルマをみずから味わうための道筋
前回( 717_ひしみー138 )の続きです。
独断と偏見で申し訳ないが、どうもひろさんのお書きになっている書き方が、散発的でわかりにくいように思えるので、勝手にまとめさせて頂く。
ひろさんによると、大体、以下の通り。
ダルマという宇宙の真理(以下、すべてダルマとする)とされているものは、あくまでもお釈迦さんだけが味わえた特別なもので、そのすべてをお弟子さんとなる、 5 人の元修行仲間に授けられる訳ではない。
ダルマとしては、あくまでも、そのごく一部しか伝授できないはずである。
つまり、ダルマを悟ったとすべきではなく、それなりにある程度の部分までダルマを悟った、すなわち、ダルマ全体のごく一部分、ある程度のダルマまでを悟った、とすべきだと書かれているように見える。だから、自らダルマの全体の一部分を悟り、普通の人とは異なり、ダルマのその一部分という、ある程度目覚めたと解釈すべきだとされているように見える。
ブッダという言葉は、元々が自動詞であり、「目覚めた」という意味であることからしても、「ダルマを悟った」と訳すべきではなく、「ダルマに目覚める」と解釈すべきだとされている。では、お釈迦さんが、元修行仲間の 5 人に何を味わわせたかったのか、どのような程度や形に導きたかったのか、は次のように示されているところから推察するしかない。
律蔵には、以下のように記されている(段落分けなどの改変あり)。
「修行者ども、耳を傾けよ。
不死が得られた。
私(わたくし)は教えるであろう。
私は法を説くであろう。
汝らは教えられた通りに行なうならば、久しからずして、良家の子らが正しく家から出て出家修行者となった目的である無上の清浄行の究極を、この世において自ら知り、証し、体現するに至るであろう。」
これが、仏教で一般的に言われているお釈迦さんが最初に、四諦・八正道・十二縁起という、最初の教えとなる初転法輪の枕詞らしい。
初転法輪は、お釈迦さんが、法(ダルマ)を輪(チャクラ)という、あたかも古代インドの円盤状の武器=この場合は人を説得するための言葉などにたとえ、転がして敵を倒す=教えで人を説得する・納得させるようにして、初めての教えをしたことを指しているらしい。
ただ、ひろさんは、お釈迦さんの鹿野苑での初転法輪では、四諦・八正道・十二縁起といったいかにも体系的でまとまった教えを説いた訳ではないとお考えのようだ。
これは、多分、そうだろう。
後世の高僧や仏教学者さんがこのように学問のようにまとめ上げたのだろう。
とにかく。ひろさんは、お釈迦さんが 5 人にダルマの限定された部分に至るまでの道筋を教えたことが、初転法輪だとされている。
・・・。
悪いけど、どうもクネクネしてつかみどころがないなあ。
律蔵を元に、素人なりに勝手に解釈させて頂くと。
「不死が得られた」というのは、病争貧苦などのこの世の苦しみや、肉体にまつわるあらゆる欲望をはじめとする妄執から解き放たれて、この世のありようの仕組みをかなりの程度理解して、とりあえず、周章狼狽しない、安穏の境地に入ることができたと考えられる。
いわゆる、涅槃(ニルヴァーナ)の境地ですね。
ただ、五井先生の別の観点から、この「不死が得られた」を解釈するとするならば。
人間は、あたかも動物と同じように目に見える形でこの世にあらわれているが、その本質は、本体は、神様の分けられたお命という、肉体を有機的生命体として成り立たせている神様の子供としての霊なる人間、霊魂魄そのもの、命そのものが本当の人間である。
従って、霊なる人間からすれば、時間とともに衰退していく肉体も、この世にあらわれてくる病争貧苦も、すべては時間の経過とともに消え去っていく、あたかも仮想現実のような、それぞれが過去世で抱いた想いのこの世での形になってあらわれては消え去っていく、消えてゆく姿である。
(悟りを開けない私達には到底実感はできないけれど)私達は、神様の永遠の命を生きていくものであり、そのお命である光明の一筋一筋の分かれ分かれが肉体に宿り、肉体を場として、働いているものである。
ただ、肉体人間としてこの世にあらわれてくる以上は、その本質に相応しくあるように、人格を向上させ、行いを整えていかなければならない。
この物質世界となるこの世を生きていくために、わが身を守るという利己的な行動を取らざるを得ない自己保存の本能を与えられていても、この神様としての本質に相応しく生きていかなければならないということに変わりはない。
つまり、私達肉体人間は、本来的に気高く、清廉に生きていかなければならない宿命を背負っている存在と言える。
輪廻転生という、生まれ変わり、死に変わりという修行を、何度も何度も経験することによって。
つまり、「不死」というのは、私達は神様の分けられたお命、すなわち、神様としてその命は、永遠のものである。
肉体人間として、この世に生まれて、やがていつかは死を迎えることになったとしても、その命は輪廻転生を通して永遠である。
だから、魂を浄めるための修行として、この世に生を受ける以上、肉体の衰えや死、そして、病争貧苦などは避けられないものとなっていても、これは霊なる人間という本体そのものが損なわれるものでもなければ、消失するものでもない。
つまり、私達は、その本質としての霊なる人間としては、肉体が死を迎えても霊体として、死ぬことはなく、永遠である。
だから、人は死なない、不死の境地とは、霊性の観点からすれば、このように見ることができる。