10 初めて法輪を転ず
・ダルマをみずから味わうための道筋
前回( 719_ひしみー140 )の続きです。
また、前回の内容と重複するが、ご了承頂きたい。
ひろさんのおっしゃりたいと思われる内容を、独断と偏見で、ざっとまとめる。
要は、お釈迦さんだけが、悟りを開いて、唯一無二の特別な高みに達したとされている。
ひろさんの表現によると、
お釈迦さんは、菩提樹の下で悟りを開いた直後は「無言語状態」にあり、
「釈迦は宇宙の真理(ダルマ)と一体化していた」
か、あるいは
「釈迦は宇宙の真理(ダルマ)に帰入した」
と表現すべきとのこと。
その特別な高みのうちのある程度(仮に一定水準とする)に達したら、とりあえずは修行仲間を合格(=教えが理解できた)とすることのようだ。
しかし、ひろさんの本もそうだが、一般的な仏教の本も、ここのところがどうもはっきりしない。
仮に、このような一定水準としておくしかない。
以前、ひろさんは、
戒学(戒律を守ること)、
定学(禅定を修めること)、
慧学(悟りの智慧を得ること)、
の三学が揃わないと仏教にはならない、としていた。
この三学のうち、どこまでを教えたのかが、まったく書いておらず、ただ、お釈迦さんと 5 人の修行仲間がいずれ悟るであろう水準には、かなりの開きはありそうだということくらいしかわからない。
きわめて抽象的で、わかりにくいとしか言いようがない。
お釈迦さんは、仲間を托鉢に行かせているから、慧学だけということでもなさそうだ。
ただ、四諦・八正道・十二縁起が、後世の高僧か仏教学者のあとづけと考えられることもあわせて考えると、これら全部を網羅的に教えたのかどうかは、ちょっと疑問が残る。
とにかく、話が漠然とし過ぎているように思えて仕方がない。
なので、とりあえずは、 5 人の修行仲間には、その一定水準までを教えたと解釈するしかない。