おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

715_ひしみー136

09 梵天による懇請

・ヴァーラーナシーへ向かった釈迦

前回( 714_ひしみー135 )の続きです。

一応、前回のお釈迦さんが伝道を決意したところまで書いたので、今回はその始まりからになる。

ただ、前回までかなりグダグダとお釈迦さんが伝道に立ち上がるまでにの経緯を書いてしまったので、以下は重複となるが、仏教の通説とはかけ離れた私の異論を含めて(大雑把になるが)軽くおさらいしたい。

ご了承頂きたい。

私が異論で述べたように。

そもそも、本当の人間とは、動物のような形でこの世にあらわれている目に見えて、手に触れることができるような肉体の人間ではない。

本当の人間とは、その肉体を有機的な生命体として成り立たせている、目には見えない、神様の分けられたお命=霊魂魄という、命そのものである。

ということは、人間の本質は、この世を生きていく便宜上、肉体をまとって、さらには、自己保存の本能という、霊魂魄には本来はなかった性質を与えられたために、どうしても自己の肉体を中心とした利己的な想いを抱き、行動をするようになってはいても、本体は神様そのものに他ならないことになる。

したがって、その肉体人間として、あるべき想いと行いは、当然に神様のようにあらねばならないことになる。

つまり、真善美に悖らず、愛に満ちた想いを抱き、行いをしなければならない、ということになるのである。

このように肉体人間を定義すれば、お釈迦さん在世当時の古代インドの慣習のように悟りを開いたから、速やかに涅槃に入るべきという結論にはならない。

なぜならば、上記のように神様は愛そのものの存在なのであるから、何もわざわざ大乗仏教にいうところの慈悲のような考え方を持ち出すまでもなく、この世の不条理や苦しみに呻吟している人がいれば、救いに立つのは、当然のことになるからだ。

たとえ、悟りにはほど遠く、何世の輪廻転生を通しても、なかなか救えない、つまり、今生のみでは救えないような人がその中にたくさん含まれていて、伝道の道半ばで挫折することになろうとも、伝道を始めるのが自然な成り行きになるからだ。

だから、一般的な仏教の通説にあるように、悟りを開きその境地を楽しんだお釈迦さんが、速やかに涅槃には入らず、世の中の不条理や病争貧苦などに苦しむ、悟りにはほど遠い人達を救うのはきわめて困難をきわめることを憂い、伝道に赴いて、教化をしても、お釈迦さんの教えを理解できる人はある程度限られてしまうことを憂い、梵天様の懇請により、あたかも三顧の礼に似た形で、やむを得ず(???)伝道に立ち上がった経緯は、あまりしっくりこないのである。

中でも、ひろさんがお書きになっていた(改変あり)、
「自分が悟った真理に至る道を人々に示してやろうか・・・」
とか、
お釈迦さんの言葉とされる、
梵天よ、人々を害するであろうかと思って、 微妙な法を人々には説かなかったのだ」(律蔵)
とされている物語の経緯があまりすっきりしなかったのである。

まあ、とにかく。

お釈迦さんのように、今生のみで悟りを開く素養があった人(=つまり、今生だけで悟りを開けるほどに、たくさんの過去世での良い想いと行いの積み重ねと人間の本質に対する探求心があった人)でさえ、 6 年もの大変な修行期間を要している訳だから、ごく一般的な人に教えを説いても、まず、理解されることはない。

なぜならば、世の中の人は、お釈迦さんの過去世のような背景を持っていない人がほとんどだからだ。

だから、それなりの過去世の積み重ねがある人、言い換えれば、この世にそれなりの道を求め、修行に明け暮れて来たような人でなければ、到底、自分の教えを理解することはできない。

教えを理解するということは、仏教という道を拓いたお釈迦さんという開拓者としての高い境地ほどではないにしろ、ある程度の修行者としてこの世にあらわれている、すなわち、それなりの過去世の積み重ねがある人でないと、教えが理解されることはないので意味がないことになってしまうからだ。

つまり、過去世の積み重ねがない、この世に修行者としてあらわれてもいない、ごくごく一般的な人に教えを説いても理解される可能性はない、ということになる。

そうなると。

お釈迦さんは、悟れる素養のある人(=それなりの過去世の積み重ねがある人)を探して、訪ねていくことになる。

そこで、思い当たったのが、お釈迦さん自らの禅定の師匠だった、アーラーダ仙、ウドラカ仙だったが、このお二人はすでにこの時点で亡くなっていたと神に知らされる。

すなわち、
「・・・二人の禅定家は、それなりの有名人であったから、その死去の情報が伝わっており、誰かが釈迦にそれを伝えたのであろう。仏伝作者は、それを神として描いたのである」
と。

そこで、お釈迦さんは、かつての修行仲間の 5 人を当たろうと、その居場所を天眼(千里眼のこと)で、ヴァーラーナシーにいることがわかり、そこに向かうことになる。

ただし、ひろさんによると、アーラーダ仙とウドラカ仙の亡くなったことは、神のお告げとされているが、これは仏伝作者の創作だろうとしている。

また、修行仲間の 5 人を探し出した天眼通についても、ブッダガヤーからヴァーラーナシーまでは、251 km あるので、いくら天眼通でもわからないとして、当時宗教都市であったヴァーラーナシーに行けばたくさんの修行者が集まっているから、そこに向かおうと考えたとしている。

そこで、たまたま、かつての修行仲間の 5 人に再会したのだろうとしている。

ひろさんは、天眼の話も仏伝作者が、創作したものだろう、と以下のように推測している。
「・・・それを仏伝作者は、釈迦は天眼でもって 5 人の仲間がヴァーラーナシーにいることを確認して、その 5 人を教化するためにヴァーラーナシーに行ったのだと書いた訳である」(改変あり)
と。

つまり、ひろさんによると、アーラーダ仙もウドラカ仙の亡くなったことの神のお告げも、かつての修行仲間の 5 人の居場所を天眼で探り当てたことも、仏伝作者の創作ということらしい。

しかし。

天眼は、距離には関係なく、たとえ地球の裏側でもわかるんじゃなかろうか。

なんか、唯物論と唯心論がごっちゃになっている気がしますねえ。

ちなみに。

お釈迦さんは、ヴァーラーナシーに行く途中で、一人の修行者に出会い、教えを説こうとした。

それは、うまくいかなかったのだが、それは次回に含む話となる。

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追記: 2023/06/17 18:25
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。