おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

673_ひしみー094

08 天魔よ、汝は破れたり

・経典はガウタマの迷いを語っている

前回( 672_ひしみー093 )の続きです。

ひろさんは、その迷いの部分(一部?)を増谷文雄さんの訳で引用しているが、勝手ながら、ここはひろさんのお師匠さんの中村元さんの訳を用いることにする。

その前に。

ひろさんは、沙門ガウタマ(お釈迦さん)が苦行だけはダメだと放棄して、この骨と皮までボロボロに痩せ果てた(?)身体( 651_ひしみー072 )を、スジャータさんをはじめ(おそらく)村の娘達に供養され続けた乳粥で回復させていったであろう、数ヶ月の間、苦行を放棄したことについて、迷いに迷ったのだろう、としている。

その内面の心の葛藤が、仏典の中の悪魔との問答の形式をとっているのだろう、と。

ここで、ひっかかることは 2 つ。

(話を蒸し返して申し訳ないが)苦行だけはダメだとあたかも確信をもてるかのように決めつけた理由は何か( 652_ひしみー073、653_ひしみー074 )、ということと、悪魔という存在はいかなるものか、ということ。

ここは、とりあえず、第 1 の決めつけ理由について考えたいのだが、とりあえずは、その端緒の部分をあげておこう(改変あり)。

「サンユッタ・ニカーヤ」
第一集 詩句をともなった集
第Ⅳ篇 悪魔についての集成
第一章 第一節 苦行と祭祀の実行

一 私はこのように聞いた。
ある時、尊師(=お釈迦さんのこと)は、ネーランジャラー河の岸辺で、ウルヴァルヴァー(村)において、アジャパーラという名のニグローダ樹(=バニヤン樹)の下にとどまっておられた。
悟りを開かれたばかりの時であった。

二 さて尊師が独り静かに座して瞑想しておられた時に、次のように思われた。
「私は、もはや、苦行から解放された。
私が、あのためにならない苦行から解放されたのは、善いことだ。
私が安住し、心を落ち着けて、悟りを達成したのは、善いことだ」

三 その時、悪魔・悪(あ)しき者は、尊師が心で思われたことを知って、尊師のところにおもむいた。
近づいてから、尊師に詩をもって語りかけた。
「人々は苦行によって浄められるのに、
その苦行の実行から離れて、
清浄に達する道を逸脱して、
浄くない人が、自ら浄しと考えている」

四 そこで尊師は、「この者は悪魔・悪しき者なのだ」と知って、悪魔・悪しき者に、次の詩をもって答えた。
「不死に達するための苦行なるものは、
すべてためにならぬものであると知って、
乾いた陸地に乗り上げた船の舵や艫(ろ)のように、
まったく役に立たぬものである。
悟りにいたる道、戒めと、精神統一と、智慧とを修めて、
私は最高の清浄に達した。
破壊をもたらす者よ、
お前は打ち負かされたのだ。」

五 そこで悪魔・悪しき者は、
「尊師は私のことを知っておられるのだ。
幸せな方は私のことを知っておられるのだ。」
と気づいて、打ち萎(しお)れ、憂(うれ)いに沈み、その場で消え失(う)せた。

申し訳ありませんが、長くなったので、今回はここで区切ります。ご了承願います(もったいつけてすみません)。

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①追記: 2022/06/04 22:30
②追記: 2022/06/09 06:25
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を訂正しました。