おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

197_原仏12ー10

前回 ( 196_原仏12ー9 - おぶなより ) の続きです。

終わりの部分を再度見ます。

その前に。

私が文句ばかりつけて元の文章をロクに読んでいないのではないか?と思われる方もいるかもしれないので、はじめから見てみます。

なお、引用の後に私が書くことは、まったくの個人的な独断と偏見によるものであることを、あらかじめお断りしておきます。

異論も多々あるとは思いますが、ご了承下さい。

本の元の文章です(段落分けなどの改変あり)。

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死を超える道

ある場合には、我執を離れるためには(空なりと観ぜよ)と教えています。

(ブッダが答えた)つねによく気をつけ、自己に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。
そうすれば死をわたることができるであろう。
このように世界を観ずる人は死王を見ることがない。

(一一一九)

死を超える道として、この『スッタニパータ』の中に「空」という教えが出ています。

それは結局万物は無常であって、いかなるものも固定的な永遠の実体を持っていないわけです。

固定的な実体がないということは、実体が変化しているということです。

その実体がないことを「シューニア」ともとのことばでいったわけですが、これを中国、日本の仏教では「空」と訳して使っているわけです。

実体がない。

それなのに現にわれわれが経験するようないろいろな姿があるではないか。

この問題を追及するとやがて因縁の教えになるのです。

いかなるものも因縁が集まって、無数に多くの原因や条件が働いて、そしてわれわれが見るとおりの世界ができ上がり、われわれの生存が成立している、その理(ことわり)まで見通すのが空の教えなのです。

そしてその理を知ったならば、死を克服することができる。

生理現象としての死というものは、これはだれでも迎えなければならないものです。

避けることのできないものです。

けれどもそれを因縁によるものと明らかに見ることによって、われわれの死に対する対処の仕方というものが成り立つわけでしょう。

そこに死を克服する道があるわけです。
だから「死王もまみえず」と非常に強い表現がなされているわけです。
生きながら死を克服するのです。

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はじめに、我執(がしゅう)とは、仏教語で、自己が存在するとしてそれにとらわれることを言います。

で。

私のような力不足の者には、これらの文章が何をいっているのか、さっぱりわかりません。

訳がわかりません。

何もないところから、訳のわからない因縁が勝手に出来上がり、それが、物質や肉体を作るって?

これは一体、何を言っているのでしょうか?

因縁という以上、因果がありますよね。

この文面から見る限り、この世が、あまたの生命が因果にあたる訳ですね。

原因である因縁の作りあげられ方が、まったく不明だったら、そもそも、因縁因果の法則さえも不明だし、無いのと違いますか?

そんな法則さえもあること自体がおかしい。

原因である因縁が、意味不明に生成されるのなら、そもそも計算式のような法則自体がある方がおかしいのではありませんか?

原因である因縁だけは、訳がわからず作られる。

しかも、結果が出来上がる法則だけはある。

だから、この世があり、私達をはじめとする生命がある。

しかも、これは実体がないだって?

そりゃあ、物質や生命体は変化しますよ。

生成流転、消滅もします。

しかし、一時的にあらわれているじゃないですか。

これを無い、実体が無いと言うんですか?

これを聞いて、すべての理、筋道が本当にわかりますか。

私には、全然わかりません。

従って、到底、死の恐怖を克服することなんかできません。

という訳で。

以下、まったく勝手に解釈しなおすことにします。

お許し下さい。

まず、大前提として、実体、あるものは、神様のみ心と神様のお命だけだ、とします(五井先生は「消えてゆく姿」と表記しますが、ここではあえて「消えていく姿」のように表記します)。

五感にまつわる世界を空なりと観ぜよ、というのはーーーーー。

私達肉体人間、そしてその五感で感じることのできる世界は、あらわれては消える仮初(かりそ)めの世界であり、この世で言うなら、すべてあまたの輪廻転生を繰り返したことにより生じた原因であるところの因縁、あまたの過去世の因縁のこの世で時を経て清算されていく、消えていく姿だ、ということです。

無いというのは、いずれこの世で時を経て消えていくから、一時的にはあらわれてはいても、いずれ、時が経った後ではなくなるから、(今から見て)結果的に無いとみなすことができる、という意味です。

仮にあらわれている。

一時的にあらわれている。

しかし、必ず消えていく。

消滅していく。

だから、結果としてはいずれ無くなるものだから、(今に引き戻して)無いと(みなして)言っている。

ただ、いきなり、ない、実体がない、では何を言っているのか訳かわかりません。

結果として、この世で時を経て消えていくから、そこから見て、無いと言っている。

あくまでも、結果論の言い方なんです。

結果論からの波及したものの見方なんです。

そうして、物質も生命体も、五感で認識されるものは、何もかも、この世で時を経る消えていく姿で、本当の、本来の生命は、本来の人間というものは、この消えていく肉体人間ではなく、これを生かしている命、神様から分け与えられた、分け命だ、と認識することができたならばーーーーー。

肉体人間の死は輪廻転生を通しての一時的な通過点で、神様の分けられたお命は、永遠に続くととらえることができたことになる。

つまり、人間の本体は肉体ではなく、神様の分けられたお命だ、と心身ともに感得できた場合です。

そして、輪廻転生を通して、あまたの過去世の因縁、特に負の因縁であるところの、真善美に悖る業想念による因縁を、きれいに清算し尽くすことができれば、輪廻転生を上がると考えられる。

悟りを得て、涅槃に入ることになる。

もう、輪廻転生を繰り返すことはない。

従って、肉体人間の死は経験しなくなりますから、死王にも会わない、と言っているのでしょう。

本当の人間は、(原則として)寿命数十年の生と死を、輪廻転生を通して繰り返す肉体人間ではなく、その肉体人間を生かしている、永遠の生き通しの神様の分けられたお命だとわかるからです。

だから、肉体人間としての死は、本当の人間の死ではない。

本当の人間は、神様の分けられたお命、もっと言えば神様そのもの、だから、その永遠の命だから、死ぬことはない。

つまり、本当の人間に死はない。

本当の人間、真実の人間に死はない。

これをつづめて、巷の人の言うように乱暴に言えば、「人は死なない」となる。

ただし。

私達肉体人間がこの世に生を受けているのは、基本的に修行、すなわち、あまたの過去世でためてきた真善美に悖る業想念を、清算する、あがなうために来ているし、自己保存の本能も付与されているから、到底、上記のようには思えない。

そもそも、惑星、地球さんの開発のために、便宜上、この自己保存の本能は付与されている。

だから、悟りを得ることができなければ、死の恐怖を克服することはできない。

自力にしろ、他力にしろ、かなりの修行を積まなければ、こんな境地、悟りの境地には至れないと思います。

ちなみに。

ないない尽くしのお経、般若心経。

色即是空で、この世にあらわれているあらゆるものは、神様のみ心と神様の分けられたお命以外、全部時を経て消えていく姿。

だから、五感で認識できる、この世にあらわれているものは、いずれ必ず無くなる、今は仮にあらわれていても、いずれ必ず無くなるから、無いとみなすことができるものなんだ、となる。

だから、色は無い、とする。

そうして、この理(ことわり)がわかった立場(見地)から、色をあらわす、この世に想念と行為をあらわすことになると、神様のみ心、神様のお命、そのままのものをあらわすことになるから、素晴らしいものがあらわれてくる。

これが、空即是色。

だから、悟りを得た人の行いは、素晴らしいものになる、と考えられます。

以上、個人的な勝手な独断と偏見でした。

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①追記: 2024/04/15 00:03
②追記: 2024/04/15 00:05
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。