おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

196_原仏12ー9

前回 ( 195_原仏12ー8 - おぶなより ) の続きです。

中村さんは、毒矢のたとえの後に、お釈迦さんの教えはどれも人々を目覚めさせる拠(よ)り所となるものであり、無数の、八万四千の法門と呼ばれる教えが説かれていて、目指すところは同じだ、と書かれています。

しかし。

仮に仏教を信奉して、厳しい修行は端(はな)から無理にしても、内容を学ぼうとした場合には、どうすればよいのでしょうか?

入試などの選抜テストよろしく、八万四千の法門とそれ以外にお釈迦さんが説いた教えを網羅して、暗記すればよいのでしょうか?

それとも、大字引のようにしてこれらを書籍化して、手もとに置きながら、ことあるごとに、随時参照しながら生きていけばよいのでしょうか?

あるいは、大蔵経をすべて頭に叩き込んで、分かれた解釈も含めて十二分に理解しなければならないのでしょうか?

どれも、現代の人には、実践的するのは難しいとしか思えないのですが。

修行もできない、膨大な教えも覚え切れない、膨大でしかも難解きわまる大蔵経を読むことさえままならない、これがおそらく一般的であろう現代人は、どうしたらよいのでしょうか?

以後、見ていく中で、中村さんの回答を見つけられたらいいなと思っています(私の力不足で見つけられずじまいになってしまう可能性が高いけど)。

次です。

中村さんは、スッタニパータの次の言葉を引いています。

見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、(名称と形態) (個体)に執著(しゅうじゃく)している。
「これこそ真理である」と考えている。

(七五六)

中村さんは、我々の執著(しゅうじゃく)の根元を見通した言葉だとしています。

中村さんは、ウパニシャッドまで出していろいろ認識の話をお書きになっていますが、私は教養がないのでわかりません。

ただ、問題だと思うのは、ここで書かれている神々は何を指しているのか、です。

この文面を読む限り、ここでの神々は、世人=真善美に悖る業想念にまみれた、輪廻転生を経巡らざるを得ない、悟りには程遠い、肉体人間と大して変わらないような存在として読めます。

神々が霊的な存在だとしても、肉体人間と同等とは考えられないんですけれど。

これは、一体、どういうことなのでしょうか?

とりあえず、神様は、法則の神様と救済の神様に大別されるとして。

法則の神様は、宇宙の運行から、因果律の仕組みから、肉体人間をはじめとする、ありとあらゆるものに命を吹き込むことから、何から何までの根元の存在としてある。

救済の神様は、法則だけでは、その軌道に乗れない、例えば業想念にまみれた肉体人間を神様の軌道に乗せるべく、影に日向に、様々な形で守りながら、支援して、支えて下さる存在としてある。

観音菩薩様は、救済の神様ですよね。守護神さんも守護霊さんも、同じですよね。

この中でも、一番下位になると考えられる守護霊さんでさえ、肉体人間として輪廻転生を繰り返すなかで、人間は肉体ではない、人間は神様の分け命そのものだ、霊なる人間こそが肉体人間だと悟った、偉い方々なのでしょう?

このスッタニパータに書かれている神々は、どのような存在を意味しているのでしょうか?

少なくとも、守護霊さんよりは、間違いなく下ではないですか。守護霊さんは悟ったのだから、迷いや業想念はないのだから。

迷いや業想念があるのは、肉体人間とそんなには変わらないように読み取れてしまいますよ。

一体、どのような存在をこのように言っているのでしょうか?

私にはわかりません。

あえて書き足しておくと。

自分というのは、神様の分霊(わけみたま)です。分霊、霊魂魄の分割や結合があっても、それなりの個性を持たされた、神様の分けられたお命です。

これが自我です。

肉体人間は、あまたの過去世からの因縁を反映して出来上がった、この世で時を経て、消えてゆく姿です。

ここでは、中村さんは、この、この世で時を経て消えてゆく姿の肉体や意識を、記号化して、我だ、自分た、と言っているだけだ、こんなものは非我なんだ、と書いているように読めます。

それが、小見出しにある、非我を我と見る、の中身だと読み取れます。

なので。

さしずめ、本当の自己とは、神様の分けられたお命であり、個性を与えられたもの、と言えると考えます。

中村さんは、まったく違う見方のようですが。

我ではない、つまり、それは、神様の分けられたお命ではないから、神様以外は、すべて万物流転、消えてゆく姿なのだ、となると思いますけどね。

次です。

中村さんは、死を超える道、の小見出しとともに、以下のものを挙げています(段落分けなどの改変あり)。

(ブッダが答えた)つねによく気をつけ、自己に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。
そうすれば死をわたることができるであろう。
このように世界を観ずる人は死王を見ることがない。

(一一一九)

万物は無常であり、固定した永遠の実体をもたず、それにもかかわらず、こうした肉体のような実体がある、これは因縁だ、という説明がされていますが。

それじゃあ、因縁、実体を生じさせる元は何なんですか、と尋ねたくなる。

何もないのに、因縁因果の法則だけがあるんですか?

元がなくて、法則だけがあって、この世界が出来上がるって?

おかしくないですか、これは。

意味がわかりません。

今回は、とりあえずここで区切ります。

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追記: 2024/04/14 23:37
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。