おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

681_ひしみー102

08 天魔よ、汝は破れたり

・経典はガウタマの迷いを語っている

前回( 680_ひしみー101 )の続きです。

前回の注釈の補足をします。

まあ、一般的な仏教を好まれる方には、私が今までに書いてきたことは、奇異に感じるでしょうね。

縁起にも否定的、中道にも否定的ですから。

まあ、これでも、一般的な仏教に対して、ズブの素人の率直な感想を書いているだけなので、仕方がないんですよ。

それはともかくとして。

で、前回の注釈の補足です。

これも、何回も書いてきたことなんですが、前回も含めて、再度、簡単にまとめてみます。

内容にも既出のものとかなり重複(ちょうふく)するものが含まれますが、ご容赦願います。

私達肉体人間(以下、人間または人と略)は、神様の分けられたお命である、分霊(わけみたま)を本質としている。

肉体という身体そのものを人間とするのは、肉体人間観で、ざっと言って唯物論

肉体は、神様の分けられたお命を入れる入れ物であり容器。

この身体を有機的な生命体として機能させている、摩訶不思議な働きかけをしている命そのものこそが、あくまでも本当の人間である、とするのが本来の霊性からの見方。

その神様の分けられたお命である魂(人間の場合は霊魂魄)は、輪廻転生を通しては、単独そのもので不変なのではなく、さらに、分裂や結合がある。

だから、話がさらにややこしく、わかりにくいのだが、その本質は、神様の分けられたお命ということでは変わらない。

それが肉体に宿って、人として肉体をまとうために与えられた自己保存の本能により、真善美に悖る想いと行いの業想念を、たくさんの輪廻転生を通して積み重ねることが一般的となっているために、この世での主として病争貧苦としての業想念を祓(はら)い浄めて、魂をきれいにするためのあがないがある。

前回述べたように、悟りを開くことは、この世でのこの人間の命が、神(仏)の命そのものであることに他ならないことを完全に体得=感得することであり、本体の分霊は、業想念で汚されること以外は、何ら傷つけられることもなく、損なわれることもない、霊体としての神様の命。

この世で肉体にあらわれてくるところの病争貧苦などなどは、あくまでもたくさんの過去世で溜め込んでしまった業想念の、この世での時を経て、消えてゆく(=過去世の因縁の解消されていく)姿であり、神様の分けられたお命自体は何ら損なわれることはない。

永遠に生き続ける神様の分けられたお命が、仮にこの世での肉体に宿っているだけだから、病争貧苦などに煩わされていてこの世にあらわれている姿=肉体人間の姿は、本来の自分ではない。

そのように心身ともに感得することができれば、本来の自分は、神様の分けられたお命とわかり、安心立命していられる。

それが完全にわかっていることが、悟りを開いた境地であり、涅槃の境地。

業想念も浄め去って、輪廻転生も卒業して、この境地に至れば、命も永遠なのだから、肉体に宿っている今生の肉体の死というものはあっても、本体の神体の死というものはない。

輪廻転生も卒業したから、来世以降もなく、人間としてこの世に生まれ、再び肉体人間としての死を迎えることもなくなる。

つまり、不死となる。

実感はできないので、あくまでもうわべの理屈の上だけの話になりますが、個人的には以上のように、理解しています。

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①追記: 2022/08/01 05:02
②追記: 2022/08/01 18:45
③追記: 2022/08/01 18:55
④追記: 2022/08/01 18:58
⑤追記: 2022/08/01 19:02
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。