おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

229_原仏13ー18

前回 ( 228_原仏13ー17 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
二 「ダンマパダ」のことば

になります。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。

ー さまざまな教え ー

(A) 第 一 五 章 以下にも、どれをとっても、「ああ、いいなあ」と思われるような教えが、色々と説かれています。

貪(むさぼ)っている人々のあいだにあって、患(わずら)い無く、
大いに楽しく生きよう。
貪っている人々のあいだにあって、
貪らないで暮そう。

(一九九)

(A) これは、大いに楽しく生きよう、つまり楽しい境地を教えてくれる言葉です。
 
(B) この患いという文言は、文脈からすると病(やまい)の意味ではなく、「煩い=心を悩ませること。心配ごと」の意味に見える。

こっちの煩いとすると、お諭し調や、規範遵奉調や、讃歌調のある経典様からすると、ちょっと異色のものに感じます。

でもあまり・・・。

なぜならば、迷っている人々の間に入り、悠々としていることが、必ずしも全面的にいい結果ばかりをもたらすとは限らない、と考えられるからです。

貪っている人すべてが、おおらかにゆったりと生きよう、ああ、あれはいいあり方だ、と必ずしも好感を抱く人ばかりではない、と考えられるからです。

そうじゃないですかね。

経典様としては、息抜きのおつもりなのでしょうか。

次です。

怒りを捨てよ、
慢心を除き去れ。
いかなる束縛をも超越せよ。
名称と形にこだわらず
無一物となった者は苦悩に追われることがない。

(二二一)

(A) (一部改変短縮省略あり。以下同様)ここにには、修行者の心得が出ています。

無一物という言葉がありますが、これは当時の他の宗教の聖典にも出てくるのです。ジャイナ教などにも出ています。

修行者はすべてを捨て去るのが理想でした。

現実の問題として、仏教の修行僧は三衣一鉢(さんえいつぱつ)、その他に坐具、それから水こしの袋、これで六物といわれることもありますが、その程度だけを持っていた。あとの財産はすべて教団に属していた訳です。

これは当時のお坊さんの生活ですが、現代の人々には、その通りの生活はできませんので、また違った形でこの無一物の精神が生かされるのではないでしょうか。

例えば非常に財産を持っている人がいる。けれどもそれを自分のものだと思って固執することなしに、自分が所有していながらも、しかも世の人々のために生かすことになったら、そこに無一物の精神が生かされていることになりましょう。

(B) 怒り、慢心、束縛を離れろとするのは、逆に怒り、慢心、束縛が常態で、しかも苦悩させられているとも読めます。

そして、それらの原因は物を持つことから生じている。

だから、無一物となれば、それらの執着とは、(かなり)離れることができる。

そう書いてあるように読めます。

次です。

(A) 有名な鉄さびのたとえも興味深いものです。

鉄自身より生じたさびが
鉄を損なうように、
罪をなすものたちは、
自分のなした行為によって
地獄に導かれる。

(二四〇)

(A) 身から出たさびという諺がありますが、仏教の言葉で言えば。自業自得です。自分のしたことの報いを受けるという訳です。

(B) ここでも、概念規定をすっ飛ばして、地獄という言葉が、当たり前のように使われています。

霊魂を無記としたように、地獄も想像の産物なのでしょうか? 

それとも、この世でいずれ苦しむことを言っているのでしょうか?

どちらにしても、経典様も中村様も、因果応報とおっしゃっりたかったものと推測されます。

次です。

(A) また、原始仏教の人々は、どうも世の中は住みにくい、ということを痛切に感じていました。

恥を知らず、
烏のように厚かましく、
図々しく、
ひとを責め、
大胆で不正なる者は、
生活し易い。

恥を知り、
常に清きことをもとめ、
執著をはなれ、
へりくだり、
清く暮す人は生活し難い。

(二四四 ー 二四五)

(A) これはまるで今の世の中を風刺しているようです。人の世の中はうるさいものです。

(B) なんか、ちょっと・・・。

(人様に対する)執着の少ない人(その代わり自らの五感にまつわる欲望を叶えることと、それへの執着は超強い)は、憎まれっ子世にはばかるではないけれど、何でもかんでも、人がどう思おうが、何と言われようが、ずんずん物事を進めてしまう。

対して、正義感は強くても、気の弱い人、気の小さい人は、小さいこと、細かいことが気になってしまい、くよくよして、あまり、物事を強引に運ぶことができない。

それだけならまだしも、執着の少ない人を、他人の細かい悪(神様のみ心に適わない真善美と愛に悖る行い)を責め裁く想いを抱きがちになる。

せっかく、正義感もあり、気持ちも優しくて、いい人なのに、多くの面で執着の少ない人に押しきられてしまう。

想いまで乱されてしまったら(霊性的に)損だし、せっかく清らかな心根なのにもったいない。

なので、こうした人こそ、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行で、強い信心を得て、責め裁く想いを無くして、積極的になって頂きたいと思います。

次です。

これは昔にも言うことであり、
いまに始まることでもない。
沈黙せる者も非難され、
多く語る者も非難され、
すこし語る者も非難される。
世に非難されない者はいない。

ただ謗(そし)られるのみの人、
またただ褒められる人は、
過去にもいなかったし、
未来にもいないであろう。
現在にもいない。

(二二七 ー 二二八)

(A) なし。

(B) この世の人は、生まれる=修行に出されてきている、ので、どうしても不完全(悟りを得た状態からはかなり遠いという意味)。

だから、どんなにいい人でも、程度の差こそあれ、妬(ねた)み、嫉(そね)み、批判とは、無縁ではいられない。

これが消失するのは、すべての人が悟りを開いた時だけなのではないでしょうか。

そのことをいっているみたいですね。

~~~~~

・諭す~さとす~(主に目下の者に)道理を言い聞かせて教え導く。

・規範~きはん~物事を判断したり、行動したりするときに、従わなければならない基準または模範。

・遵奉~じゅんぽう~法律・主義・教えなどに従い、それを固く守ること。
(用例)師の教えを遵奉する。

・無一物~むいちもつ~①財産などを何ももっていないこと。
②一切の煩悩を離れた境地。
ここでは、①と②、どちらの意味なのか(私の能力では)判断しかねます。
読者の皆様のご自身でのご判断をお願い致します。

・心根~こころね~心の奥底。本性。性質。
(用例)心根のやさしい人。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記: 2024/04/17 22:31
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。