第 4 章 これから先がどうなるか不安
57.自分を救えるのは自分
子供も、父親も
親戚も
親族といえども
死に神に捉えられた人を救えない。
(ダンマパダ) (二八八) (第21章 さまざまなこと より)
ここでの死に神に捉えられた人(佐々木さんの訳では死に捉えられた者となっている)というのは、煩悩にまみれて、安楽を得られない、先行きに苦しみしかないような間違った生き方をしている人のことを意味しているそうだ。
そうした人には、自分から内面を変えていくしか救われる道がない、自ら生き方を変えていくしかない、つまり、暗に自分を変えていく、自らを救う者は自分しかいないのだ、と示しているんでしょうね。
以前に、頼れるのは己自身という内容について、似通った話があったので、とりあえず、下記に引用しておく。
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509_仏言葉ー043 ー すべては自分次第
第 3 章 自分が何のためにいるのかわからない
43.自分を手なずける
自分こそは自分の主(しゅ)であり
自分こそは自分の依(よ)りどころである。
それゆえに自制せよ。
(キャラバン)(*)商人が良馬(りょうば)を制御するように。
(三八〇) (第25章 出家修行者 より)
(*)キャラバン(英: caravan)~隊を組んで砂漠を行く商人の一団のこと。
(今枝さんの注釈)
自分について、(一六〇)偈(げ。詩のこと。ここでは経文のこと)参照とあるので、これも引用する。
自分こそが自分の主である
他人(ひと)がどうして主であり得ようか?
自己をよく制したならば
得難(えがた)い主が得られる。
(一六〇) (第12章 自己 より)
これは、果てしない欲望の沼に溺れるのも、抜け出すのも、自分次第、つまり、自らの身を律するのが鍵を握るという経文だろう。
だから、仏教、ことに、出家修行者は、物への執着を、とらわれを放つことを徹底するために、無一物としていたのだろう。
外部の情報に惑わされ、心を乱さないためには、まだまだ、悟りには程遠い状態では、一種の情報の遮断状態をつくりだす必要がある。
そのために、座禅観法が行われていたのだろう。
ただ・・・。
やはり、現代とのすり合わせをどうするか、という課題が残る。
いかなる環境においても、道を選びとるのは、つまるところは、自分自身しかない。
きわめて限られている選択肢であっても、その中からどの道を選びとるか、はあくまでも個人に帰着するということ。
限られた自由の中から何を選びとるか、は自分次第。
これらの経文は、そうしたことを再認識させてくれる経文であるとも言えるだろう。