おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

508_仏言葉ー042 ー 名称と所有と執着

第 3 章 自分が何のためにいるのかわからない

42.所有は憂いの元

名称とかたちを
「わがもの」と思うことなく
無一物(むいちぶつ)でも憂えることのない人
彼こそは出家修行者と呼ばれる。

(三六七) (第25章 出家修行者 より)

なお、今枝さんの本では、この名称について、(二二一)偈参照と注釈してあるので、これも引用しておく。

怒りと奢(おご)りとを除き去り
すべての束縛を超越せよ。
名称とかたちとに執着せず
無一物になれば執着はなくなる。

(二二一) (第17章 怒り より)

(今枝さんの注釈)
名称とかたち~漢訳仏典では名色(みょうしき)と訳される。「自己」を含む現象界のすべてのことを指す。

現実の世界(この世のことを言っているのだろう)では、強いて名称をつけなくても、あらゆるものは存在している。

お釈迦さんによると、こうしたことから、私達は、名称をつけない次元と、様々な固有の名称をつけた次元の2つの異なる次元を見ているのだそうだ。

名称をつけることは、これはすなわち、区別をする目安を作っていることに他ならないからだろう。

さしずめ、こうした名称をつけて、しかも、所有するという概念から離れる、つまり、執着を捨てて生きるのが出家修行者と言えるのだろう。

ただ・・・。

現代では、残念ながら、こうした生き方には、かなりの無理があるので、やはり、そこそこにそれぞれの立場で慎んだ生活をしながら、霊性の向上を目指すのが、妥当な形となるだろう。