おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

271_原仏18ー1

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決ー「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を(A)として、私の文を(B)と記します。内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

一 「ミリンダ王の問い」の成立とその意義

ー ミリンダ王登場の背景 ー

(A)(一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)本章では、ギリシャ思想との対決を取り上げます。具体的には、ミリンダ王の問いという書物がパーリ語で伝わっています。
東西の思想が対決した記録という意味では、これほど重要な典籍はおそらくまたとないと思われます。ここでは、インド発の仏教思想とギリシャ思想が対決し、交流しているのです。
双方の文化交流は、かなり古い時代からたどれますが、そのきっかけは紀元前327年にアレクサンドロス大王ペルシャの方を征服し、その余勢を買ってインダス川流域に侵入してきた時代から始まります。
その後、インドのチャンドラグプタが、ギリシャ人の勢力を一掃してマウリヤ王朝を建設、ここにインド全体がその史上初めての空前の大国家が成立しました。
前章で出ましたが、チャンドラグプタ王の孫、アショーカ王は、紀元前3世紀にさらに領土を広げ、マウリヤ王朝は栄えました。仏教が急速に広まったのもこの頃からです。
当時、ギリシャとの交流が非常に盛んだったためか、ギリシャ人が仏典にもよく出ています。色々な交渉があり、インドに入ってきたギリシャ人の支配者達や商人達の間にも、いつの間にか仏教信仰が段々と広まるようになりました。そして、ギリシャ人達は、仏教の霊場や寺院に色々なものを寄進するようになりました。例えば、立派な彫刻の施されている窟院や、そこにつくった貯水地や、ストゥーパの部分を寄進するなどをギリシャ人がしていたと多くの碑文に出ています。
マウリヤ王朝は、アショーカ王没後は次第に衰え、紀元前180年頃にプシヤミトラという将軍に滅ぼされました。すると、インド全体は以前と同様に、分裂状態になってしまいました。ギリシャ人の諸王達が、勢力が弱まったところにつけこみ、インド西北の地方(現在のパキスタン北部)から北インドにかけて相次いで侵入してきたのです。そして、いくつかの王朝を成立させました。
多数のギリシャ人国王の系譜はよくわかりませんが、彼らはそれぞれに通貨をつくり、発行しています。また、碑文にも彼らの名が載っているので、それらを合わせ考えると、少なくとも40人以上のギリシャ人の王達が、パキスタン北部(いわゆるガンダーラと呼ばれる地方)からインドの北部に向かう形で、それぞれに王朝を成立させて、支配していました。

(B)なし。