Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決 ー 「ミリンダ王の問い」 です。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を (A) として、私の文を (B) と記します(段落分けなどの改変あり)。
また、内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。
一 「ミリンダ王の問い」の成立とその意義
ー 「ミリンダ王の問い」の成立 ー
(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)ミリンダ王はシャーカラ(パーリ語ではサーガラ)で、仏教の長老であるナーガセーナと対談をしました。
それがパーリ語で記録されて伝えられ、「ミリンダ王の問い」(ミリンダパンハー)という書物として、今日南アジアの国々に伝えられています。
そのはじめの三分の一ほどは、「那先比丘経(なせんびくきょう)」として漢訳でも伝えられています。
那先というのは、ナーガセーナというお坊さんの名前の音写で、比丘(びく)は仏教の修行僧のことです。漢訳では経と名付けられていても、厳密には経典ではありません。釈尊(お釈迦さんのこと。釈迦の尊称)が亡くなった以後につくられたからです。
ですから、スリランカなどに伝えられているパーリ語聖典(三蔵)においては、ミリンダ王の問いは、経のうちには含められていません。しかし、ビルマではクッダカ・ニカーヤの中に収められ、経典としての権威が付されています。
那先比丘経には、二巻本と三巻本とがあります。どちらも翻訳者名は不明ですが、東晋の時代、大体 4 世紀から 5 世紀のはじめ頃に訳されたと思いますが、原典はもっと早くて、その原型はおそらく紀元前2世紀後半にできたものでしょう。
さらに、この那先比丘経の主要部分が、現存のパーリ文の「ミリンダ王の問い」の中に含まれていますが、そのパーリ文と漢訳との対応する部分が特に古くて、紀元前1世紀から後1世紀にかけてつくられたと思います。
その後、パーリ語で付け足されて、430年頃までには、パーリ文の原型ができあがったと見られています。
次節では、この両者符号する部分を主題として取り上げます。
この書物には二人が対談した内容が、対話形式で述べられていますが、これが大変に面白いのです。
それはインド人同士なら何の疑問も抱かないような当たり前のことが、ギリシャ人の目から見ると奇妙で信じられない、そういうところを衝(つ)いているからです。
それに触発されて仏教の修行僧のナーガセーナが応じるという訳で、これは東西の思想交流を示した非常に重要な古典です。
ガンダーラ美術は、ギリシャ美術の影響が多分に見られますが、それと同様に思想面でも必ず何かしらの影響があったに違いありません。
多くの書物は消えて無くなっていますが、この「ミリンダ王の問い」は、東西の思想交流や対決を示した貴重な文献なのです。
(B)なし。
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①追記: 2024/04/21 18:26
②追記: 2024/04/21 18:28
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。