空即是色_その3。
ー 常住坐臥(じょうじゅうざが)の祈りを ー
悪いものも現れなければ消えないとすると、これも大変です。どれだけ悪いことがあるかわからないですから。
「現れれば消えるというけれど、先生、私は今後どれだけ現れるんですか」と聞きにくる人もあります。
それは現れる前に消すのです。
幽界で消す方法が一番いい。
肉体界に現れないうちに消す方法です。
それはどうしたらいいかというと、世界平和の祈りを常住坐臥(じょうじゅうざが)、寝ても起きても、便所へ行っても、顔を洗っていても、電車の中でも、どこでもいいから、いつも声を出して、”世界人類が平和でありますように“とやらなくていいから、心の中に、一杯染み込むように、世界平和の祈りをやっていることです。
やっていると、肉体界に現れるものも、幽界で消えてしまうのです。
例えば、大怪我をして三月(みつき)も四月(よつき)も入院しなければならないようなものが、かすり傷で治ってしまう。
そのようになるのです。
だから、世界平和の祈りにすべてを切り替えるのです。
いいとか悪いとか、向こうと相対的に比べていてはだめです。
相手を見てはだめ、敵であると、敵と見ているうちは、敵になるからです。
過去世からのクセで、自分と相手は他人だ、みんな他人だ、と思います。
ところが、遡(さかのぼ)ってごらんなさい。
みんな兄弟姉妹なんです。
もっと遡れば、神様の中に入ってしまうのです。
それなのに他人だと思う。
それは長い間のクセで、また肉体の自分を守る方法として仕方がないんです。
自分の家族のほうが他人の家族よりも可愛いのは当たり前です。
自分を可愛がるように出来ているのでして、それはそれでいいのです。
そういうものが肉体の生活です。とすると、その愛情も消えてゆく姿なんです。
真理の愛というものは、自分の子も他人の子も同じに見ます。
この理論をそのまま実行しようとすると、天と地がつながらない。
真理がそのまま降りてくれば、
「神の愛は平等である。お前の子供も隣の子供も、まわりの子供もみんな同じなんだ。平等に愛さなければならない」とやられます。
それはやっても出来っこない。
私も出来やしない。
そのために個別に人間は現れているのです。
この人間の常識の頭では出来ないけれど、神様の頭では出来るのです。
肉体の人間では、自分の身内のほうが他人の身内より可愛いんだから、宗教家がどう言おうと、私は私の子供が可愛いんだ、私の妻が可愛いんだ、私の弟が可愛いんだ、ということになります。
そうすると理想というものは、この世界では、肉体の人間の頭では成就しないんです。
他の国より自分の国のほうが可愛い。
自分の国よりも他人の国を可愛がって、他の国のことばかりやっていれば、自分の国はつぶれてしまいます。
だから肉体としては自分の国を守り、自分は自分の家を守るように出来ています。
だから、肉体としては、いつも相対的なんです。
いつも相手があるんです。
相手と自分といつも競争をしなければならない。
自分の国と他の国とがいつも競争している。
だから肉体の人間の頭では、自分の一家と他人を区別するのだから、平等の愛にはならないのです、絶対に。
日本人が日本をアメリカより愛するのは当たり前でしょ。
それを、理想としては、日本の如(ごと)くアメリカを愛さなければならない、と思うかもしれないけれど、実際には出来やしない。それを、私はよくわかっているのです。
そこで、天と地を、天の理想を地の現実に結ぶ方法を考えているのです。
肉体の人間の考え方ていけば、自分を守るのは当たり前、自分の家族を守るのも当たり前。
けれど、それではどうしても世界はよくならない。
みんなが平等の愛にならないんだから。
ああ、これではもう肉体の人間じゃだめなんだ、と手をあげてしまうんですよ。
「肉体の人間では世界なんか平和になりっこない。自分の心に照らしてみればわかる」と。
例えば、同じ飢饉(ききん)の時、自分の息子には食べさせても、隣の息子には食べさせないかもしれない。
百万人が百万人、そうだと思う。
自分の子を捨てても、他人の子を救おうなんていうのは、人類二十何億人かのうち、百人もいません。昔、松王丸(まつおうまる)なんていうのがありました。
主君のために自分の子供を犠牲にする。
あんなことは出来やしません。
また、やったら世間がごうごうと非難します。
そんなこと滅多にあるもんじゃない。
だから、肉体の人間では、自分と社会の、小さな範囲だけでも平等の愛情は通わないんです。出来ないんですよ。
まして、世界の人類ということになったら、それは出来っこない。
自分の国を愛し、自分の民族を愛するのは当たり前だから。
それはそれでいいんです。
それが悪いというのではありません。
理想家はそれが悪いというのです。
しかし、理想はそのままでは現実にはならない。
ー 肉体の人間には何も出来ない ー
そこで、天と地の真ん中、理想と現実を真ん中で成就させるためには、どうしたらいいかというと、この肉体人間はだめなんだ、ということをまず思わなければいけない。
「肉体の人間というものは、単なる器でもって、みんな(過去世の因縁の)消えてゆく姿なんだ、自分を守ろうとする想いも、人を憎もうとする想いも、相対的に考える想いも、みんな(過去世の因縁の)消えてゆく姿なんだ。
ああ、みんな消えてゆく姿なんだ。世界人類が平和でありますように」と、自分の頭の中の想念行為を、全部なくすために、世界平和の祈りの中にみんな入れてしまうのです。
そうすると、神様のほうから、守護霊、守護神のほうから、その人の心を痛めず、相手を痛めず、うまい具合に調和して、うまくやってくれるのです。
例えば、自分は1日に百円いるとします。
どうしても百円なければ生きられない。
向こうは全然ないとします。
向こうへ五十円やればいいんだけれど、五十円やったら両方とも食べられなくなってしまう。
そうすると、やりようがない。
全部百円向こうにやるか、自分が百円で食べるか、どちらかでしょ。
そうなったら、どうしても自分は生きなければならないから、隣を見過ごしても、自分は百円で生きます。
そういう時に、「ああ、これは自分じゃどうにもならないんだ。世界人類が平和でありますように。どうか隣の人をお救い下さい。どうぞ神様お願い致します。守護霊さん、守護神さん有難うございます。私どもの天命を完(まっと)うせしめ給え、隣の人達の天命を完うせしめ給え」というように祈るのです。
そうすると、向こうのどこからか、五百円も六百円も、一万円も十万円も持った人が助けてくれる訳です。
何故かというと、神様は無限だからです。
無限の富、無限の愛、無限の智恵で、神様はがいくら出しても絶対に減りゃしないのです。
だから、神様の中から出してあげればいいんです。神様の中から智恵を貸してあげ、神様の中から物質を出せばいいのです。
そうする方法はどうしたらいいかというと、それは世界平和の祈りなのです。
肉体の人間がどうやったって、本当の平和は出来っこない。
本当の安心は出来っこない。
どうしたら、自分も安心し、隣の人もお向かいの人も安心し、この国が安心され、あの国を安心させられるか、というと、世界平和の祈りの中へ、自分の想いを全部入れ込んでしまって、入りきりになると、神様のほうから、あの人にもよくし、この人にもよくし、あの国にもよくし、この国にもよくする、というように、みんな富が分配されるのです。
そうすることによって地上天国が出来てくるのです。
だから、どうしても一度、この肉体人間はだめなもんだ、ということを思わなければだめなんです。
それを私は一生懸命、説いているのです。
それを他力というのです。
法然、親鸞がやった南無阿弥陀仏なんです。それを私は、”世界平和の祈り“という現代で一番やさしい教えにしているのです。
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・常住坐臥~じょうじゅうざが~(座っている時も、寝ている時もの意)ふだん。いつも。
(用例)常住坐臥、父母の恩を忘れない。
(参考)行住坐臥の行住と常住との混同からできた言い方。
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①追記: 2021/07/11 07:45
②追記: 2024/04/25 23:08
上記複数回にわたり、表題および本文を加筆・訂正し、注釈を追加しました。