おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

290_空即是色_その3

空即是色_その3。

ー 常住坐臥(じょうじゅうざが)の祈りを ー

悪いものも現れなければ消えないとすると、これも大変です。どれだけ悪いことがあるかわからないですから。

「現れれば消えるというけれど、先生、私は今後どれだけ現れるんですか」と聞きにくる人もあります。

それは現れる前に消すのです。

幽界で消す方法が一番いい。

肉体界に現れないうちに消す方法です。

それはどうしたらいいかというと、世界平和の祈りを常住坐臥(じょうじゅうざが)、寝ても起きても、便所へ行っても、顔を洗っていても、電車の中でも、どこでもいいから、いつも声を出して、”世界人類が平和でありますように“とやらなくていいから、心の中に、一杯染み込むように、世界平和の祈りをやっていることです。

やっていると、肉体界に現れるものも、幽界で消えてしまうのです。

例えば、大怪我をして三月(みつき)も四月(よつき)も入院しなければならないようなものが、かすり傷で治ってしまう。

そのようになるのです。

だから、世界平和の祈りにすべてを切り替えるのです。

いいとか悪いとか、向こうと相対的に比べていてはだめです。

相手を見てはだめ、敵であると、敵と見ているうちは、敵になるからです。

過去世からのクセで、自分と相手は他人だ、みんな他人だ、と思います。

ところが、遡(さかのぼ)ってごらんなさい。

みんな兄弟姉妹なんです。

もっと遡れば、神様の中に入ってしまうのです。

それなのに他人だと思う。

それは長い間のクセで、また肉体の自分を守る方法として仕方がないんです。

自分の家族のほうが他人の家族よりも可愛いのは当たり前です。

自分を可愛がるように出来ているのでして、それはそれでいいのです。

そういうものが肉体の生活です。とすると、その愛情も消えてゆく姿なんです。

真理の愛というものは、自分の子も他人の子も同じに見ます。

この理論をそのまま実行しようとすると、天と地がつながらない。

真理がそのまま降りてくれば、
「神の愛は平等である。お前の子供も隣の子供も、まわりの子供もみんな同じなんだ。平等に愛さなければならない」とやられます。

それはやっても出来っこない。

私も出来やしない。

そのために個別に人間は現れているのです。

この人間の常識の頭では出来ないけれど、神様の頭では出来るのです。

肉体の人間では、自分の身内のほうが他人の身内より可愛いんだから、宗教家がどう言おうと、私は私の子供が可愛いんだ、私の妻が可愛いんだ、私の弟が可愛いんだ、ということになります。

そうすると理想というものは、この世界では、肉体の人間の頭では成就しないんです。

他の国より自分の国のほうが可愛い。

自分の国よりも他人の国を可愛がって、他の国のことばかりやっていれば、自分の国はつぶれてしまいます。

だから肉体としては自分の国を守り、自分は自分の家を守るように出来ています。

だから、肉体としては、いつも相対的なんです。

いつも相手があるんです。

相手と自分といつも競争をしなければならない。

自分の国と他の国とがいつも競争している。

だから肉体の人間の頭では、自分の一家と他人を区別するのだから、平等の愛にはならないのです、絶対に。

日本人が日本をアメリカより愛するのは当たり前でしょ。

それを、理想としては、日本の如(ごと)くアメリカを愛さなければならない、と思うかもしれないけれど、実際には出来やしない。それを、私はよくわかっているのです。

そこで、天と地を、天の理想を地の現実に結ぶ方法を考えているのです。

肉体の人間の考え方ていけば、自分を守るのは当たり前、自分の家族を守るのも当たり前。

けれど、それではどうしても世界はよくならない。

みんなが平等の愛にならないんだから。

ああ、これではもう肉体の人間じゃだめなんだ、と手をあげてしまうんですよ。

「肉体の人間では世界なんか平和になりっこない。自分の心に照らしてみればわかる」と。

例えば、同じ飢饉(ききん)の時、自分の息子には食べさせても、隣の息子には食べさせないかもしれない。

百万人が百万人、そうだと思う。

自分の子を捨てても、他人の子を救おうなんていうのは、人類二十何億人かのうち、百人もいません。昔、松王丸(まつおうまる)なんていうのがありました。

主君のために自分の子供を犠牲にする。

あんなことは出来やしません。

また、やったら世間がごうごうと非難します。

そんなこと滅多にあるもんじゃない。

だから、肉体の人間では、自分と社会の、小さな範囲だけでも平等の愛情は通わないんです。出来ないんですよ。

まして、世界の人類ということになったら、それは出来っこない。

自分の国を愛し、自分の民族を愛するのは当たり前だから。

それはそれでいいんです。

それが悪いというのではありません。

理想家はそれが悪いというのです。

しかし、理想はそのままでは現実にはならない。

ー 肉体の人間には何も出来ない ー

そこで、天と地の真ん中、理想と現実を真ん中で成就させるためには、どうしたらいいかというと、この肉体人間はだめなんだ、ということをまず思わなければいけない。

「肉体の人間というものは、単なる器でもって、みんな(過去世の因縁の)消えてゆく姿なんだ、自分を守ろうとする想いも、人を憎もうとする想いも、相対的に考える想いも、みんな(過去世の因縁の)消えてゆく姿なんだ。
ああ、みんな消えてゆく姿なんだ。世界人類が平和でありますように」と、自分の頭の中の想念行為を、全部なくすために、世界平和の祈りの中にみんな入れてしまうのです。

そうすると、神様のほうから、守護霊、守護神のほうから、その人の心を痛めず、相手を痛めず、うまい具合に調和して、うまくやってくれるのです。

例えば、自分は1日に百円いるとします。

どうしても百円なければ生きられない。

向こうは全然ないとします。

向こうへ五十円やればいいんだけれど、五十円やったら両方とも食べられなくなってしまう。

そうすると、やりようがない。

全部百円向こうにやるか、自分が百円で食べるか、どちらかでしょ。

そうなったら、どうしても自分は生きなければならないから、隣を見過ごしても、自分は百円で生きます。

そういう時に、「ああ、これは自分じゃどうにもならないんだ。世界人類が平和でありますように。どうか隣の人をお救い下さい。どうぞ神様お願い致します。守護霊さん、守護神さん有難うございます。私どもの天命を完(まっと)うせしめ給え、隣の人達の天命を完うせしめ給え」というように祈るのです。

そうすると、向こうのどこからか、五百円も六百円も、一万円も十万円も持った人が助けてくれる訳です。

何故かというと、神様は無限だからです。

無限の富、無限の愛、無限の智恵で、神様はがいくら出しても絶対に減りゃしないのです。

だから、神様の中から出してあげればいいんです。神様の中から智恵を貸してあげ、神様の中から物質を出せばいいのです。

そうする方法はどうしたらいいかというと、それは世界平和の祈りなのです。

肉体の人間がどうやったって、本当の平和は出来っこない。

本当の安心は出来っこない。

どうしたら、自分も安心し、隣の人もお向かいの人も安心し、この国が安心され、あの国を安心させられるか、というと、世界平和の祈りの中へ、自分の想いを全部入れ込んでしまって、入りきりになると、神様のほうから、あの人にもよくし、この人にもよくし、あの国にもよくし、この国にもよくする、というように、みんな富が分配されるのです。

そうすることによって地上天国が出来てくるのです。

だから、どうしても一度、この肉体人間はだめなもんだ、ということを思わなければだめなんです。

それを私は一生懸命、説いているのです。

それを他力というのです。

法然親鸞がやった南無阿弥陀仏なんです。それを私は、”世界平和の祈り“という現代で一番やさしい教えにしているのです。

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・常住坐臥~じょうじゅうざが~(座っている時も、寝ている時もの意)ふだん。いつも。
(用例)常住坐臥、父母の恩を忘れない。
(参考)行住坐臥の行住と常住との混同からできた言い方。

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①追記: 2021/07/11 07:45
②追記: 2024/04/25 23:08

上記複数回にわたり、表題および本文を加筆・訂正し、注釈を追加しました。