おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

289_空即是色_その2

空即是色_その2。

ちょっと思うところがあって、二部構成としたところを、三部構成に変えます。

勝手を言ってすみませんが、ご了承願います(これに伴って、前回の文章を加筆・訂正しています。この点も、すみませんがご了承願います)。

なお、大怪我がかすり傷で、の話は、次回 ( 290_空即是色_その3 - おぶなより ) の、 常住坐臥(じょうじゅうざが)の祈りを 、の節に書いてあります。

あと 1 回分お待たせしますが、お許し下さい。

私は交通事故と書いてしまいましたが、本文は、大怪我をして三月も四月も入院しなければならないようなもの、でした。

うろ覚えで正確さに欠けました。

すみません。

では、改めて ( 空即是色_その2 ) です。

ー 信仰心が深いということは ー

自分の心の限度の中に入っていて、自分の常識の中に入っていて、この三界(さんがい。現界と幽界と霊界の下層のこと)の苦しみに満ち、戦いに満ちている、争いに満ちている、不調和に満ちている想いの中に入っていて、いくらその中で、いいとか悪いとか言って、ぐるぐるまわっていても、解決にはならない。

「私は隣の人に何かやった。貧しい人にちょっとお金をやった。だから、私はいい人間だ」なんていうのは、人を助けたのだから、何もやらないよりはいいけれども、そんなのは小善(しょうぜん)というのです。

いい人、と自分で思い込んでいる人がある。「自分は生まれてこの方、悪いことをしたことがない」という人がいます。

「私はいい人間なんだ。仏様も拝(おが)むし、神様も拝む、いい人間なんだ。それなのにうちの嫁はなんという人だろう。お膳もろくに片付けない。年中外に出てはかりいる」こういう姑(しゅうとめ)はたくさんいます。

自分だけが偉くて、自分だけが信仰が深くて、自分だけいいんです。そして、他の人はみんな偉くないように思っています。

こういう人は随分います。

これはとんでもないことです。

肉体の自分というものが、いいと思っている想い、悪いことをしたことがないと思っている想いは、もうすでに悪いのです。

高慢の一番始末におえない想いなんです。

こういう想いを持っていると、どうしても相対的にものを見る。

あまり頭のよさそうな、よくできる姑さんのいる所へは、お嫁に行かないほうがよろしい(笑)。

やれ、雑巾(ぞうきん)の絞り方が悪いだの、やれほうきの持ち方が悪いだの、それこそ箸(はし)の上げ下ろしにまで文句を言う人がいる。

自分が一番いいと思っているんだから、他人(ひと)が悪く見えてしょうがないのです。他人が悪く見えて、他人にいちいち小言を言うようなその心が、もう高慢でだめなのです。

人間はみな平等なのです。

(神様の)生命(いのち)において、みんな平等なのだから、肉体の人間が相手の肉体の人間に小言を言える訳がない。

姑さんだから、お母さんだからといって、嫁さんや娘さんに文句を言える訳がないのです。

文句を言うのは、神様のみ心において神様が言わなければならない。

神様が言わない以上は、人間が文句を言えた義理じゃないのです。

自分だって悪いのだから。それを自分が一番いいと思っている。

「私は神様も拝んでいます。仏様も拝んでいます。成田山へも行きます。お不動様へも行きます」と言うのですが、成田山へ行こうが、お不動さんへ行こうが、そんなことは問題ではない。

自分で自分を慰(なぐさ)めているだけなんですから。

自分の心を慰めているだけの信仰などだめです。

それは信仰でも何でもない。

それなのに「私は信仰しているから」とか「お前は神も仏もわからないじゃないか。私は信仰しているいい人間なんだ」と言って、お嫁さんをいじめたりするのが随分あります。

自分はよくてお前はだめだ、という想いが、もうすでに、神様のみ心ではないのです。

その一番肝心なところがわからないのです。人を蔑(さげす)むという一番悪い想いを持ちながら、自分は信仰が深いと思っている。

それは間違いです。

耳の痛い人もあるかもしれないけれど、本当なのです。

人を蔑む心があって、信仰が深いと思ったら、とんでもないことです。

本当の信仰が深いというのは、神のみ心において、みんなを崇(あが)める、という状態です。

神の子としてみんなを崇める心がない以上は、戦争は絶えませんし、喧嘩(けんか)も絶えません。

「私は信仰が深いけれど、あれは信仰がないから・・・」というのは嘘(うそ)です。そういう心は、高慢な心です。

それは、神のみ心から見れば、みんな(過去世の因縁の)消えてゆく姿なのです。

自分より信仰が浅そうに見える人、自分よりだめに見える人、自分より貧乏な人、不幸な人、みんなそれは(過去世の因縁の)消えてゆく姿なのです。

もしも自分が、他人を恨む心もなければ、貧乏でもない。金も相当にある、地位もある、病気もしない人であれば、「ああ、本当に私は有難いなァ」と思って、神様に感謝しながら、みんなの幸福も祈ってやればいい。

そういうふうになれば、それは神の子です。神の子が現れた訳なんです。

「自分は相手より偉いんだ」「自分は誰よりもいいんだ」というような想いがあったら、その想いだけ消しなさい。

いいも悪いもありゃしない。

それは(過去世の因縁の)消えてゆく姿です。

本当に悟った人というのは、神の子というのは、いいも悪いもありゃしません。

「あいつはバカで、俺は利口だ」なんて思っていません。

例えば「あいつはだめだな」と瞬間的に思う時があったら、「ああ、それは(過去世の因縁の)消えてゆく姿だな。あの人は神様の子が今現れていないんだから、現れるように、どうか守護霊さんお願いします」と何故、祈ってやらないのか、と思う。

そういうように祈らなければならないのです。

ー 業のくらべっこ ー

ところが、今までの宗教からゆくと、そのように出来ない。

悪いものを見るからです。

意地の悪い奴、嫌なヤロウというのは、(過去世の因縁の)消えてゆく姿です。

「あいつよりオレの方がいい。あいつはだめだ」それも(過去世の因縁の)消えてゆく姿です。

そう思いがちです。

いい人でも、大概は比べてみます。

他人と自分を比べて見るのは、業のくらべっこをしているんです。

業なんて比べてたって同じことです。

大して違わない。

そんなことではない。

業というのは、みんな(過去世の因縁の)消えてゆく姿で、実際にはないのです。

あるものは神様の子としての兄弟姉妹なのです。

人間は互いに神様の子としての兄弟姉妹、という心にならない以上は、地球界は終わりです。と一口に言うけれど、これはなかなか難しいことです。

「先生にああ言われたけれど、まだあの人をよく思えないんです。私はよっぽど悪い人間で、業が深いんですね」と思うからね。

それも消えてゆく姿なんだけれども、そう思いがちなのです。

そこで、私はそう思わせないように「人を恨む心がある、人を蔑む心がある、しかし、その心も(みんな過去世の因縁の)消えてゆく姿なんだ」と教えているのです。

相手をいつも「嫌な奴だな、あいつ。先生に言われたから、いい奴に思おうと思うけれど、やっぱり嫌な奴だ」と思うことがありますね。

そこで、「嫌な奴だな、消えてゆく姿だ、世界人類が平和でありますように」とやるんです。

あるいは、「あのバカヤロウが、世界人類が平和でありますように」と思って、バカヤロウと思い、嫌な奴だと思い、蹴飛(けと)ばしてやろうかと思う、その想いを持ったままでいいから、世界人類の平和を祈る、祈りの方にひっくり返るのです。

はじめはなかなか難しい。

だんだんやっていると、嫌な奴も何もなくなっちゃって、ただ気の毒だとか、あの人が立派になりますように、という祈りが自然に湧いてくるのです。

そうなれば、しめたものです。それは菩薩(ぼさつ)行ですから、菩薩になるのです。信仰もそこまでいきませんとね。

お新香屋の新香と同じです。

お新香だけじゃ栄養にならないでしょ。

もっと栄養価の高いものを食べなければならない。

新香ばかりを食わせるのが新興宗教(笑)。

そうでもないけど。

私は新香ばかりを食わせないで、ご馳走も食べさせようとしているんです。

神様の大光明のご馳走を。

それが世界平和の祈りなんです。

だから少しぐらいいいことをしたって、威張ることもなければ、悪いことをしたって嘆くこともないのです。

もしも悪いことをしたとすれば、それは過去世の因縁が悪いことをしたことによって、(過去世の因縁が)消えてしまったのです。

だから、あッしまった、悪いことをしてしまった、申し訳ない、と「申し訳ない」と思わなければだめです。

それを「これはいいことを覚えた。先生がみんな消えてゆく姿だと教えてくれた」という訳で、隣の家の物を盗んできちゃって「お前どうしたんだ」「これは消えてゆく姿だ」(笑)。

しかし、これは消えてゆきません。何故かというと、悪いことを認めていないからです。

消えてゆく姿を認めていないからです。

悪いことをして、また再び悪いことをするということは、消さないでまた悪いことを持ってきた訳だから、だんだん積み重なってしまうのです。

「悪いことは消えてゆく姿」というのは、「再びしない」ということなのです。

例えば、間違って青酸カリを飲んでしまったとします。

そして助かったとします。

さて再び青酸カリを飲みますか?

死ぬつもりでなければ飲まないです。

何故かというと、青酸カリは毒だということがわかっているからです。

悪い想い、悪い行いは毒なのです。

毒であることがわかった人が、菩薩の道へ入る人なのです。

消えてゆく姿ということは、この現象世界に現れてくる、すべてのことにあてはまることで、善、悪ともに消えてゆくのです。

そして、あとに何があるかというと、神様の絶対善。相対的な善ではなく、絶対的な善がそこに現れてくるのです。

だから、善も消えてゆく姿なのです。

善も、いいことも消えたということでないと、「私は去年も一昨年(おととし)もいいことばかりだった。今年もよくて、昨日までいいことをしたんだから、たまに悪いことをしても、プラスマイナスで減りはしないだろう」なんて、うっかりすると思う。

それではだめなんです。

例えば、去年うんと商売して儲かったから、今年は休もうか、ということはないでしょ。

儲ける仕事はいつも儲けていなければ、マイナスになってしまいます。

それと同じように、昨日やろうが、おとといやろうが、どんないいことをしようと、今日悪いことをすれば、それが全部ひっくり返って悪いことになってしまうのです。

そこで私が言うのは、「いいことも悪いことも、みんな(過去世の因縁が)現れては消えてゆく姿なんだ」ということです。

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①追記: 2021/03/13 00:19
②追記: 2021/07/11 07:36
③追記: 2024/04/25 22:56
④追記: 2024/04/25 22:58
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、表題および本文を加筆・訂正しました。