おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

669_ひしみー090

前回( 668_ひしみー089 )の続きです。

心の修行というのが最大のことです。体の修行など二の次、三の次です。心の修行ができると体が自然に修行していく訳です。

力道山じゃないけれども、彼はものすごいタフネスで、すごい力のある人ですね。だから、まさか力道山が短刀で刺されたくらいで死ぬとは誰も思わない。あんなに鍛えた人なら、短刀で刺されたくらい何ともないとちょっと思いますね。だけど死んでしまった。肉体の外部は、かえってへんぱに鍛えてあるけれども、中の内臓器官は案外弱っていたかもしれない。

いかに鍛えたとはいっても、現代で力道山ほど鍛えた人はいないでしょう。鉄アレイをぶつけたり、鉄の玉をぶつけたり、バットで叩いたりでしょう。惜しいことをしちゃったと思うのですよ。あれだけ鍛えられた人が、短刀で刺されたくらいで死んじゃうでしょう。だから、いかに人間が肉体を鍛えに鍛えたとて、大したことはない、ということがわかるでしょう。

何が一番大事か、というと、心を鍛える。要するに想いを鍛える。想いが乱れない。恐怖が起こらない。弱らない。そういう想いにしなければならない。

何があっても心が平然として澄(す)み切っていられるような、そういう人間になることが一番大事ですよ。それは永遠の生命を得たことです。

心が何事があっても乱れないということは、永遠の生命を得ることなんです。肉体はいくら鍛えたって、死んでしまえばそれまで。あとは心のあり方です。心の問題で高くも行けば低くも行く。心が全部決定する。

心というのは想いのことです。想いが乱れなきゃ心が平静なんです。心と想いは別のもので、心の上を想いが行ったり来たり走っているんだからね。

心というものは、神様の光そのもの、生命そのものです。想いが行ったり来たりして走らないで、ピタッと本心の中に入ってしまえば、スカーッと光輝いちゃう訳です。そういう人間になることが一番大事なことです。

肉体を鍛えることも必要だろうけれども、心を鍛えるとは別の問題で、心を鍛えることが一番大事なのです。

ところが、どうやって心を鍛えたらいいのか、その方法がわからないでしょう。そこで、想いというものを、すべて神様のみ心に投げ入れちゃいなさい、生きるも死ぬも、あらわれてくるすべては神様のみ心でなされているんだから、自分の想いでは何事もできないんだ。

肉体の我は何事も為(な)し得ない。だから、想いをすべて神様のみ心の中に入れてしまいなさい。

ただ入れたんじゃ面白くないからネ。目的を持って入れなさい。何の目的かというと、世界が全部平和になりますように、誰も彼もがみんな仲良く、みんな調和して、平和に生きていかれますように、ああ世界人類が平和でありますように、というような目的を持った中に想いを全部入れちゃいなさい。それで神様ありがとうございます、と入れると、世界人類が平和であることは神様の大み心だから、そのみ心の中に自分が入っちゃう訳ですよ。自分の本心の中に入る訳です。そうすると、想いが乱れません。

世界平和の祈りに決定(けつじょう)したら、想いは乱れません。そういうことを悟りというんです。だから、一番やさしい悟りの方法、解脱の方法が、消えてゆく姿で世界平和の祈りだ、というんです。

いくら、ただ想いを叩いてみたって、体を叩いてみたって、それは一部の枝葉のことに過ぎない。全部投げ出すことが一番いい。役行者がいっているんだから間違いない。役行者ほど鍛えに鍛えた人はいないんだから。

その役行者が、「いくら鍛えたって、そんな鍛えは枝葉のことだ。一番素晴らしいのは全託なんだ。ただ全託といってもなかなかできないだろうから、世界平和の祈りのような、大きな目的を持った中に自分が入っていき、想いを常に、常に入れていれば、知らないうちに全託になってしまうんだよ。それが一番やさしい解脱する方法なんだよ」と教えてくれているんです。

私はいつもこればっかりいうけれどもサ、自分の肉体に力があると思ったら間違いです。肉体はそれ自身では力がないんです。

いかに神様のみ心の力、能力を自分の肉体を通してあらわし得るか、ということです。どれだけ神様が使いいいような肉体になるかということが問題です。

神様が使いいいような肉体になれば、その人はしめたもの。100 % 使いいいようになれば、それは覚者(かくしゃ)、仏(ほとけ)です。

だから、「どうか神様、私の肉体が使いいいようになりますように」つまり「わが天命をまっとうせしめたまえ」という訳です。

そうすると、神様が、自然に、「よし愛(う)いやつじゃ」っていうんで、スーッと光を流してくれる。

自分がこうしなきゃ、修行しなきゃ、自分が、自分が・・・とそんなことをいっていたら、ロクなことはない。それは、それだけ神様から離れている時。

神様、どうかみ心のままになさしめたまえ、と思っていれば神様はやりやすいんです。

それで神様が修行させた方がよいと判断されれば、どこかに行って修行をさせるかもしれない。病気をさせた方がいいと判断されれば、病気になるかもしれない。それは向こうさんの勝手です。

しかし、やがてはその人を十分意義ある仕事に使うためにそうする訳です。それは神様が知っていらっしゃるんだ(神様は自分の本心、あるいは守護霊守護神といってもいい)。

だから、神様にまかせればいい。これは私自身がさんざん経験してきたんだし、いろいろな人を指導して、そうやってみんな立派になっているのですよ。

自分が、自分が、と思う時には、こうしなきゃと思った時には、祈りの中に入れてしまいなさい。それでもスーッと出て来て、やりたかったら、やればいい。

やったことが失敗であろうとなかろうと、そんなことは問題じゃないんです。ただ、自分が一生懸命神様を信じて、神様のみ心の中に入りながら、世界平和の祈りをしながらやっていけば、それが失敗であっても、そうでなくても、失敗はやがて大きな成功になるし、成功は次の成功を生むでしょう。

とにかく、自分のやらなければならない、大きな天命を果たさせてくれるのです。

100 % 全託にすれば、100 % 自分の天命がまっとうされる。90 % なら 90 % 、80 % なら 80 % 、というようにどれだけまかせたか、その全託の程度によって、天命が大きくも小さくも果たされていくのです。

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・タフネス~toughness~頑丈で、粘り強いこと。タフなこと。疲れ知らず。

・偏頗~へんぱ~かたよって不公平なこと。また、そのさま。
(用例)偏頗な考え。

・決定~けつじょう~字引載っておらず。

・枝葉~しよう~①枝と葉。
②本筋から外れた、あまり重要でない部分。
(用例)枝葉の問題。
ここでは、②の意。

・覚者~かくしゃ~buddhaの訳。音写は仏陀(ぶっだ)。仏教語。真理を体得した人。

・愛い~うい~けなげな。感心な。愛すべき。
(用例)愛いやつ。
(用法)目下の者をほめる時に用いた古い言い方。