5. すべての争いはプライドがあるから起きる
「彼は、私を罵(ののし)った、
彼は、私を害した。
彼は、私に打ち勝った。
彼は、私から強奪した。」と
悔しさをもって怨み続ける人には、
怒りはついに鎮まることがない。
(三) (第1章 対句 より)
かなりおおざっぱにまとめてしまいますが。
S さんは、私という自我という実感が、プライドであり、この私という自我が、自分の尊厳が傷つけられると、怒りは心は怒りに満ち、それが妄想のように膨らんで大きな争いにまでなるとしています。
プライドは、戦争さえも引き起こしかねない危険なものだと(陰謀論からはまったく別の見方ができるんですけどね。これは SM さんが詳しい)。
話がそれました。
ここで、S さんが自我と呼んでいるのは、肉体人間のことですね。
五感で認識できる、この肉体人間のことです。
つまり、人間=肉体人間としている訳です。
今まで見てきたような、神様の分霊(わけみたま)、霊なる人間こそが本来の人間だ、という認識ではありません。
そうした、霊性の観点からすると、この五感で認識できる肉体人間は、霊なる人間が何度も何度も輪廻転生を繰り返した、過去世からの因縁を反映した形としてあらわされたものに過ぎず、果てしなく長い輪廻転生からすれば一過性のはかないもの、ととれなくもない。
しかしながら、霊性が開発された、特別に霊格が高い人を除いた、私達一般的な人の場合には、とてもそんなことは信じられないし、そうは思えないですよね。
この今、五感で認識しているこの体こそが人間のすべてであり、自分なんだと思っている。
ここにあるような、罵り、迫害、争い、強奪は、すべて真善美と愛に悖る想いと行いです。
業想念です。
これが、自らの過去世の因縁のあらわれ(つまり、自分が過去世で、現在の相手の過去世時代に、これらのよからぬ行いをしてしまっていたということ)ならば、これを受け入れなければ、因縁は解消されない。
怨みや怒りを抱き、しかも、暴力などのコトに及べば、また、再び悪い因縁を重ねることになってしまう。
上記の文言は、怨み続けるのはよしなさい、怒りが鎮まることはないのだから、とも読める。
お釈迦さんが、どう言っていたのかはわかりませんが、読みようによっては、暗にあなたの果たすべき、受け入れるべき因縁なんだよ、ととれなくもない。
それを、果たさない、受け入れないならば、怨みや怒りはおさまらず、復讐心を燃やしてやがてコトに及ぶことになるかもしれない。
業想念も、輪廻転生の過程に乗って実現する可能性が高いから、多分、そうなってしまうだろう(結果は守護の神霊さんのお浄め(裁量)次第になると思うけど)。
だから、怒りも鎮まらないし、下手をすると、輪廻転生を通して、悪い因縁因果が巡ってしまうことになる。
だから、いわれなき(と思われる)迫害などを受けても、(過去世の因縁の発現の可能性が高いから)とりあえず、怨み続けるのはよしなさい、と言っていると思います。
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①追記: 2021/04/24 14:35
②追記: 2021/04/27 04:43
③追記: 2021/04/27 04:43
④追記: 2024/04/27 04:55
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。