4. どんな極悪人でも立ち直る可能性がある
怨みを抱いている人々の中にあっても、
われわれは安穏に生きよう。
怨みをもっている人々の間にあっても、
われらは怨みなく安穏に過ごそう。
(一九七) (第15章 幸せ より)
ここで、 S さんの文章をとりあえずそのまま見てみます(段落分けなどの改変あり)。
殺人などの罪を犯した者に、私達は大きな怒りや憎しみを抱いて、厳しい処分は当然だと思います。
人殺しは悪いことです。
しかし、だからといって、犯人を死刑や極刑に処することが、その答えになるのでしょうか。「立ち直るために、何とかしてあげられないだろうか」という心を持つことが大切だと思うのです。
仏教ではどんな極悪人でも立ち直る可能性があると教えます。
お釈迦様の弟子には、かつて千人もの生命を奪おうとしたアングリマーラがいます。
次々と人を殺し、「あと一人を殺せば千人」というところで、お釈迦様に出会ったのです。そんな男でも出家して悟ることができました。
よく考えてみれば、罪を犯した者だけが悪いのではありません。私達にもその責任の一端があるのではないでしょうか。
その男(アングリマーラのこと)は、殺人を犯すところまで孤立していたのでしょう。彼が怒りで凝り固まっている時、なぜ周囲の人が彼の気持ちを理解してあげられなかったのでしょうか。なぜ未然に殺人をやめさせることはできなかったのでしょうか。結果として、それができなかったということは、私達の社会も、同じように罪があるといえると言えるのではないでしょうか。
ましてや未成年が罪を犯したのなら、大人の社会にも責任があります。少年は、犯罪者であって、同時に被害者でもあります。何とか助けてあげなくてはいけないのです。
キリスト教の聖書にも、こんな話があります。
律法学習達が、イエスの前にある女を連れてやって来ました。それは姦通の現場で捕らえられた女でした。
彼らはイエスに「姦通した者は石で打ち殺せと、律法(神との契約によって、神から下された命令)にある。あなたはどう思うか」と詰め寄ります。
(それに対して)イエスは、こう言いました。「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。
すると、一人また一人と立ち去って、その場に残った者は、イエスと罪を犯した女だけになりました。そして、イエスは言います。「私はあなたを罰しない。帰りなさい。もう、罪を犯してはならない」と。
「あの人が悪い」「上司が悪い」「社会が悪い」「政府が悪い」と批判ばかりする人は、「自分だけは悪くない」と思っている人です。
自分のことを省みずに、他人を責める生き方をしているのです。しかし、よく自分自身を観察してみれば、自分もまた批判する者(批判している対象者のこと)と同じようなレベルなのです。
となっています。
いくつかに分けて見ていきたいと思います。
①殺人は悪
前回 ( 307_法話50-3 - おぶなより ) に大体書きましたけど、繰り返します。
殺人の対象は、肉体人間です。
その肉体人間は、神様の分けられたお命という分霊(わけみたま)を本体としています。
私達肉体人間は、それぞれに、この神様の分け命を与えられたからこそ生きています。
従って、私達肉体人間は神様の子供になる訳です。
神様の世界をこの地球さんの物質世界に映し出すために、それぞれに分かれて肉体人間に宿り、その肉体人間として生きていくための便宜上、本来ならなかった肉体人間としての自分だけを守る本能、いわゆる、自己保存の本能を付与されたために、数々の真善美と愛に悖る、神様の分けられたお命を宿す者、すなわち、神様としてはふさわしくない想いと行いを数えきれないほどの輪廻転生を通して、これまた、数えきれないほどの真善美に悖る想いと行い(以下、これを業想念とします)を積み重ねてきたのが、今の人類という訳です。
再三、書いてきた通り、この世も神様の世界の一部です。本来なら、真善美に悖るものは、あらゆることにおいてあってはならないし、神様の分け命を宿す肉体人間も、本来は神様の子供なのだから、業想念もしてはならないことになります。
従って、人間=肉体人間だと思い込むようになって、犯してきた業想念は、あるべからざるもの、あってはならないものとして、清算されなければならない定めにあるのです。
だから、人様を自分勝手に殴ったら殴り返され、恋人や夫婦間で身勝手に浮気をしたら浮気をやり返される。
ただし、その大半が輪廻転生という生まれ変わりを経て。
こうして、輪廻転生を通しながら、業想念を行っては、次の世以降に清算、という過程を数限りなく繰り返しながら、肉体を持ちながら、肉体人間でありながら、本体の神様の分けられたお命の姿を映した形に近づくように、修行していく訳です。
神様の分けられたお命を宿す、頂いているということは、肉体人間はその本質が、同じ命であり、兄弟姉妹である、となります。
従って、傷つけ合うこと、殺し合うことは、本来なら絶対にあってはならないことになります。
ただ、自己保存の本能のために、人間=肉体人間との思い込みが染み付き、数々に積み重ねてしまった業想念、中でも特に重く悪いものが、障害や殺人といったきわめて悪い因縁として、あらわれてくる訳です。
という次第で、殺人は絶対悪となります。
このように考えてくると、もしも、輪廻転生の過程の途中で強姦や殺人という重罪を犯してしまったら、必ずその償いが輪廻転生を通して行われるという結論になります。
つまり、「肉体人間は、神様の分霊を本質とする以上、輪廻転生を通した業想念の償いからは逃れることができない」と考えられるためです。
ただし、良いもの(真善美に悖らないもの。神様のみ心に適(かな)うもの)ならば、何の問題にもならないしありがたいけれど、悪いもの(真善美に悖るもの。神様のみ心に適わないもの=業想念)は、そのすべてがこの世であらわれてしまうと、大変なことになる。
おそらく、そのままでは、膨大な業想念の償いの現象があらわれてきて、肉体人間としては、苦しくてやっていかれない。
潰されてしまう。
そもそも、償いすらできなくなってしまう可能性が高い。
世の中も、天変地異だらけになってしまうかもしれない。
地球さんさえもどうなるかはわからない。
従って、そうならないように、その業想念のこの世での具現化の前に、守護の神霊さんが浄めて消して下さっている。
ただし、そのご判断の下(もと)に(裁量の範囲内で)。
これは、肉体をまといながらも神様の子供としてふさわしく磨きあげていく修行としては、避けることができない、避けてはならない、とお考えになられた償いは、浄めからは外されて、受けなければならない。
ゆえに、強姦や殺人などの償いは、絶対に避けては通れないものとして、受けなければならなくなると考えられます。
その殺人の償いが、現世内で、重罪として処断されるか、それとも、来世以降になるのかは、やはり、過去世からの因縁因果次第によると考えられます。
アングリマーラについては、中村さんの原始仏典のところに書いたので、ここでは省略させて頂きます。
②一人の罪は周囲も同罪か
これは、個々の場合、場合(ケースバイケース)によると思います。
つまり、因縁因果次第です。
③肉体人間は五十歩百歩
肉体人間は、神様の分霊を本質としています。
しかし、肉体をまとい、人間=肉体人間と思い込むようになって、数えきれないほどの業想念を積むことなどは、よほど過去世からの良き想いと行いの積み重ねがあって、霊性の高い人以外は、誰にでも何かしら業想念がある訳です。
肉体人間として、この世に生まれたということは、基本的にその人生を通して業想念の償いがあると考えられるんです。
私達はそれを償い、その本質の神様に近づくための修行として、この世に生まれてくる。
だから、大なり小なり、皆、五十歩百歩で、自分だけを正当化して、高みに立って人様を批判や非難ばかりできたものではない、と言えるんでしょうね。
神様の世界からすれば、肉体人間は、まだまだ、はるかにいたらない。
そういうことだと思います。
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①追記: 2021/04/06 08:03
②追記: 2021/04/06 08:13
③追記: 2021/04/24 14:33
④追記: 2024/04/27 04:39
⑤追記: 2024/04/27 04:47
⑥追記: 2024/04/27 04:54
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。