40. 依存する心と戦う
この体は水瓶のようにもろいものだと知り、
しかしこの心は城郭のように防備する。
智慧の武器をもって、
悪魔(心の汚れ)と戦う。
克(か)ち得たものをそれに執着することなく守る。
(四〇) (第3章 心 より)
この経文も、水瓶それ自体にインド特有の意味があるようなので、S さんのお話にします(適宜、改変・漢字化などあり)。
大体において、お釈迦さんの系統らしい、克己心を主題とした自力で精進していくためのお話になっています。
インドの水瓶は、素焼きで作られています。
表面から水分が蒸発して温度が奪われるので、水が冷えて美味しくなります。
水が汚れていても、汚れは瓶の底に沈むので、1 日たてば飲むことができます。
ただ、素焼きの瓶は、手で叩いても壊れるほどにもろいものです。
私達の体も、この素焼きの水瓶のようにとてももろいのです。
いくら体を鍛えても、交通事故に遭(あ)ったり、細菌に冒(おか)されたり、食中毒で死ぬこともあります。
私達はかろうじて生きているようなものなのです。
体がそのようにもろいものならば、その心はどうでしょうか。
心だって、もろいのです。
お釈迦様は、「体は水瓶のようにもろい。心は大きな町のように混沌としている」と言われました。
大きな町には、王様もいれば、商人も、泥棒も、人殺しも、ホームレスも、ありとあらゆる人がいます。
悪いこともよいことも起きている。
汚いと言えば汚いし、綺麗と言えば綺麗です。
安全であり危険、便利であり不便、自由であり不自由・・・・・。
心もまたそういうものなのです。
体は水瓶のようにもろくて、心は町のように矛盾だらけで混沌としています。
それが私達なのです。
ゆえに、そのままでは、安らぎがありません。
だから、お釈迦様は、「智慧の武器をもって戦いなさい」と言います。
戦うとは、誰かを相手にして戦うことではありません。
自分の中の依存する心、歓楽に耽る心と戦うのです。
何かに執着して、依存してしまうと、依って立つものが失われる度に、苦しむことになります。
依存するものがなければ自由です。
最終的には、体にも心にも依存しない、どちらにも執着しないのが、仏教の目的なのです。
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追記: 2024/04/28 01:17
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。