39. わたしたちは依存性にかかっている
夢中になって、人は花ばかりを摘(つ)む。
欲に満足することなく、死に制服される。
(四八) (第4章 花にちなんで より)
たまには、S さん(スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老)のお話をそのままに記します(適宜、改変・漢字化などあり)。
私達は皆何かの依存性にかかっています。
今かからずとも、いずれかかる場合もあります。
いわば、依存性のキャリア、保菌者なのです。
依存するものは、酒、金儲け、仕事、賭け事(ギャンブル)、おしゃべり、テレビなど、限りなくあります。
酒や賭け事に依存するのはよくない、とは誰でもわかっています。
けれども、私達はグルメやブランド、健康食品といったものに依存して生活しているかもしれません。
インターネットに依存し、次から次へと調べたりして、何時間も費(つい)やします。
依存をすると、本来なすべきことを後回しにしてしまいます。
今何をすべきか、がわからなくなるのです。
普通の人なら、朝起きたら顔を洗って食事をします。
しかし、アルコール依存性の人は、朝起きるとすぐに酒に手がいきます。
賭け事に依存している人は、子供の学費でさえも賭け事につぎ込んでしまいます。
家を売ってでも、賭け事をする人もいます。
炎天下の車中に子供を放置したまたま、パチンコに熱中して、子供を死なせてしまった親がいました。
何と愚かなことでしょうか。
何に依存するかが問題なのではありません。
依存すること自体がよくないのです。
仏教を学ぶことや、ボランティアの活動に励むことは、確かにいいことです。
しかし、それに依存すれば、やはり自分を見失っていくのです。私(S さんのこと)のところに学びに来る人の中で、よく、「命がけで仏教を学びます。仏教に命をかけます」という人がいます。
けれども、そういう人で、修行が進んだ人はいません。
命がけ云々という人は、そのことにしがみついている訳です。
仏教に依存している、と言えましょう。
物事は真剣過ぎるのもよくない(?)し、いい加減でもよくない。
だから、中道が大切なのです。
さあ、修行者たちよ。
お前たちに告げよう。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。
怠ることなく(不放逸にして)修行を完成しなさい。
(大パリニッバーナ経)
これはお釈迦様の最期の言葉です。
「不放逸であれ」とお釈迦様は説かれています。
不放逸とは、パーリ語では、アッパマーダといいます。
「その時、その時に何をするかわかっている」ことです。
今この瞬間にどうすべきか、次の瞬間はどうすべきか、とその時々に気づいていることです。
反対に、パマーダとは、放逸に耽(ふけ)ること、溺れること、過度に依存することを意味します。
心が酔っていて、自分が何をしているのかわからない状態をいいます。
今何をすべきかをよくわかっていて、それをきちんとやること ー それが、不放逸です。
不放逸であることで、心は育っていくのです。
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①追記: 2024/04/28 01:11
②追記: 2024/04/28 01:12
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。