おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

354_法話50-39

39. わたしたちは依存性にかかっている

夢中になって、人は花ばかりを摘(つ)む。
欲に満足することなく、死に制服される。

(四八) (第4章 花にちなんで より)

たまには、S さん(スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老)のお話をそのままに記します(適宜、改変・漢字化などあり)。

私達は皆何かの依存性にかかっています。

今かからずとも、いずれかかる場合もあります。

いわば、依存性のキャリア、保菌者なのです。

依存するものは、酒、金儲け、仕事、賭け事(ギャンブル)、おしゃべり、テレビなど、限りなくあります。

酒や賭け事に依存するのはよくない、とは誰でもわかっています。

けれども、私達はグルメやブランド、健康食品といったものに依存して生活しているかもしれません。

インターネットに依存し、次から次へと調べたりして、何時間も費(つい)やします。

依存をすると、本来なすべきことを後回しにしてしまいます。

今何をすべきか、がわからなくなるのです。

普通の人なら、朝起きたら顔を洗って食事をします。

しかし、アルコール依存性の人は、朝起きるとすぐに酒に手がいきます。

賭け事に依存している人は、子供の学費でさえも賭け事につぎ込んでしまいます。

家を売ってでも、賭け事をする人もいます。

炎天下の車中に子供を放置したまたま、パチンコに熱中して、子供を死なせてしまった親がいました。

何と愚かなことでしょうか。

何に依存するかが問題なのではありません。

依存すること自体がよくないのです。

仏教を学ぶことや、ボランティアの活動に励むことは、確かにいいことです。

しかし、それに依存すれば、やはり自分を見失っていくのです。私(S さんのこと)のところに学びに来る人の中で、よく、「命がけで仏教を学びます。仏教に命をかけます」という人がいます。

けれども、そういう人で、修行が進んだ人はいません。

命がけ云々という人は、そのことにしがみついている訳です。

仏教に依存している、と言えましょう。

物事は真剣過ぎるのもよくない(?)し、いい加減でもよくない。

だから、中道が大切なのです。


さあ、修行者たちよ。
お前たちに告げよう。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。
怠ることなく(不放逸にして)修行を完成しなさい。

(大パリニッバーナ経)


これはお釈迦様の最期の言葉です。

「不放逸であれ」とお釈迦様は説かれています。

不放逸とは、パーリ語では、アッパマーダといいます。

「その時、その時に何をするかわかっている」ことです。

今この瞬間にどうすべきか、次の瞬間はどうすべきか、とその時々に気づいていることです。

反対に、パマーダとは、放逸に耽(ふけ)ること、溺れること、過度に依存することを意味します。

心が酔っていて、自分が何をしているのかわからない状態をいいます。

今何をすべきかをよくわかっていて、それをきちんとやること ー それが、不放逸です。

不放逸であることで、心は育っていくのです。

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①追記: 2024/04/28 01:11
②追記: 2024/04/28 01:12
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。