おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

350_法話50-35

35. 小さな過ちにこそ気をつける

その報いは来ないだろうと思って、
悪を軽んじてはいけない。
水が一滴ずつしたたり落ちるならば、
水瓶を満たす。
愚かな者が、
些細な悪を積み重ねるならば、
やがて悪を満たす。
悪を積むならば、
やがて災いに満たされる。

(一二一) (第9章 悪 より)

これは別の経文と対になっているので、こちらを含めた別の訳を書きます。

「私はその果報を被らない」と思い、
悪い行いを軽んじてはならない。
水は一滴ずつ滴(したた)り落ち、
水瓶(みずがめ)を満たす。
愚か者は、悪い行いを少しずつ重ね、
やがて災いに満たされる。

(一二一) (第9章 悪 より)

「私はその果報を享受できない」と思い、
善い行いを軽んじてはならない。
水は一滴ずつ滴り落ち、
水瓶を満たす。
善人は、善い行いを少しずつ重ね、
やがて福徳に満たされる。

(一二二) (第9章 悪 より)

なお、私の個人的な判断で、上記各経文の段落分けを変えたり、句読点を加えたり、漢字化を行ったりの改変をしています。あらかじめご了承願います。

以下、S さんの内容を (a)、私の思うところを (b) として、見ていきたいと思います。なお、私の判断で、適宜、改変・要約・書き換えなどがあることは、ご了承願います。

(a) 例えば、強盗や殺人などの犯罪が発生すると、世の中は大騒ぎになります。

しかし、事件という結果だけを見て、あれこれと議論をしても、問題解決の糸口は見つかりません。

ニュースになるような犯罪の多くは、その当人である各個人の日々の生き方に問題があるからです。

私達は、「小さな悪いこと」をいくらでもしています。毎日やっている悪いことを放置しておくと、やがて、大きな殺人や盗みという結果に結びついてくるかもしれません。

小さなことをいい加減にしていると、大きな罪も平気で犯してしまうようになります。

だから、日々行っている小さな過ちにこそ、目を向けなければなりません。

「悪いこと」はどんな小さなことでも、たとえ一回であっても、決して行わないと心に決めるべきなのです。

どんな小さなことでも、それを行ってしまうと、やがて癖になって心が汚れてしまいます。

仏教には「戒律」があります。

戒律を守ることが仏教の基本です。

戒律とは、悪から遠ざかって、よい習慣をつけるためのものです。

心を清らかにすることを目的としています。

「盗むなかれ」という仏教の戒めは、糸一本でも他人のものを盗んではいけないことなのです。

「これくらいなら、平気だろう」という心でいると、大きな悪でも「これくらいなら、いいや」という気持ちになってしまいます。

「百円くらいなら盗んでも平気だろう」と思う人は、会社のお金をごまかして、数千万円もの大金を盗んでも平気になってしまいます。

小さな嘘をつく人も同様です。

「嘘をつくのは仕方がない時もある。嘘も方便だ」などと例外を作ります。

人間というものは、一つ例外を作ると、どんどん都合のいいように、解釈していきます。

「敵ならばいい。悪人ならばいい。自分の生命を守るためには、他人を殺しても構わない」というように、どんどんエスカレートしていきます。

例外を作ることで、すべてを台無しにしてしまいます。

たとえ将来自分が殺されるような時でさえも、決して相手を殺してはならない、とお釈迦様は説かれています。 

悪いことには、決して例外を作ってはいけないのです。

(b) 善悪は、特に悪については、たとえどんなに小さなものでも、おろそかにしてはいけませんよ、というお話ですね。

しかし。

嘘。

これは偽りです。

真理から外れるものです。

しかし、だからと言って、すべてが許されぬ、と四角四面、杓子定規にやっていけば、世の中は、それこそ、いさかいだらけ、争いだらけになってしまいます。

まだまだ、平均でならしたところの世の中全体の霊性が高くはないと思われるからです。

因縁因果もまだまだ厳しい(まだまだ修行途中でそれぞれの人の完遂までには時間がかかると思われる)ですからね。

いくら人生に修行の側面があるからといって、様々な軋轢を余儀なくされている現代社会で、これが真実だ、私は絶対に筋を曲げないんだ、と古(いにしえ)の出家修行者のようにあまりにも頑なな姿勢を崩さないと、無理が生じると思われるからです。

当時の在家の人々と比べたとして、現代人は環境が違いすぎるでしょう。

徹底的にやり過ぎてしまうと、孤高がきわまってしまい、組織からも社会からも浮き立ち、どうにもならなくなるのではないでしょうか。

理想は理想として、しかと心にとどめ置きながら、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行を平行していくなどなど、が今のところは現実的な対処だと思います。

例えば、容姿のあまり芳しくない人に対して、あからさまに蔑む言葉を投げつけたら、言われた人はどうなるか。

病気の人に対して、いくら事実に近いからといって、厳しいことをみなまで言ったらどうなるか。

やはり、当面は、相手の性質や置かれた環境を、適宜、その都度、その都度、鑑みながら、嘘も織り交ぜてやっていくしかないと思います。

そうすることで、相手の容姿が向上したり、病気が改善することは実際にありますからね。

ただし、確かに一時的にせよ、事実を曲げた部分はあるので、その償いも兼ねるものとして、損なわれた霊性の回復のために、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をすることが望ましいと思います。

まあ。

いくら、容姿のすぐれない人や、病気で苦しんでいる人に、ウソはつかない、事実を絶対に曲げないと、四角四面、杓子定規に、どんなに相手が傷つけ、痛もうがかまわないと、厳しいことを言うのは、相手を著しく凹ましてしまいます。

あなたも私も、同じ神様の子供、兄弟姉妹という本質に立ち返れば(肉体人間の本質は神様の分けられたお命という分霊だから)、やはり、互いに愛し合い、慈しみ合い、労り合い、尽くし合うような形が望ましいと言えます。

だから、このような場合には、確かに事実を一部曲げてしまい、真理に悖ることにはなってしまいますが、相手を傷つけまい、痛めまいとする愛深い立場からは、あえてこの事実を引き受けることにして、ウソをつくことを受け入れ、相手の容姿が少しでも向上するように、相手の健康状態が少しでもよくなるように、ただただ相手の幸福を願って、世界平和の祈りとともに、あの人の天命がまっとうされますように、どうかあの人が少しでも運命が好転しますようにと、あの人の守護霊様、守護神様、お願いします、
と、ただただ、ひたすら黙って祈るしかないと思います。

愛情からとはいえ、一部事実を曲げたことについては、あくまでもこちら側で、すべてを引き受け、祈り一念に徹するしかない、と個人的に考えます。

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①追記: 2021/04/29 20:47
②追記: 2021/04/29 20:53
③追記: 2021/04/30 06:06
④追記: 2021/04/30 23:56
⑤追記: 2024/04/28 00:40
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。