おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

370_法悟28-1-1

第 1 週 心の法則を知る

1 善(よ)いことをしたくならない

悪を犯す時、無知な人は、
それが悪業(あくごう)であると気づかない。
しかし自らの行為によって、
智慧のない人は、火傷(やけど)したように苦しみ続ける。

(一三六) (第10章 暴力 より)

(お断り)本の目次内の章の表題、そして、経文の一部を漢字化したり、句読点(くとうてん)を加えるなどの改変をしています。これは、以下のこのブログの各記事に共通・同様とします。あらかじめ、ご了承願います。

・悪業~あくごう~仏教語~悪い報いを受けるような行い。特に前世での悪事。←→善業(ぜんごう)。

智慧~ちえ~物事を考え、判断し、処理する能力。知能。

以下に、とりあえず S さん(スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老)のお書きになっている内容をまとめる(今回はほとんど短くできなかった。むしろ逆に、細かい補足的な書き足しが増えた)が、個人的には次の節(372_法悟28-2-1)も含めて、これはちょっと・・・という内容である(のっけから結構難題となった)。(*1)

私の見方も併記しながら書いていこうとも思い、色々と迷ったのだが、これはやめた。

私の見方は別(別立て。次回_371_法悟28-1-2)に書くことにした。

仏教の一般的な見方(?)や、S さんの考えだけがわかればよい、と思われる方は、私の考えは飛ばして、今回の内容(370_法悟28-1-1)と次節(372_法悟28-2-1)だけをお読みになれば、よろしいかと存じます。

ただ、私は内容をまとめるにあたって、とにかく短くしよう、そして、実質的な内容が伝わるようにしよう、と考え、かなりの意訳や省略をしたり、元の文章の表現や言い回しを変えてある(以前に、とのこと や だそうです と結んだものがこれ。元々の S さんの穏やかな文章表現ではなく、である調などの短いものに変えている。とは言うものの、S さんもゴミだの、残飯だの、と結構辛辣(しんらつ)な言葉を前の本で使っていたけど)。

しかも、今回の節と次の節(371_法悟28-2-1)については、内容が内容だけに、このような形でまとめると、やや過激というか、かなりキツめの文章となってしまう可能性がある。その点は、あらかじめ、お含み置き頂きますよう、お願い致します。

前置きが長くなってしまったが、どうしてもお断りをしておきたかったので、お許し下さい。

では始めます。

世の中を見渡すと、私(= S さんのこと)は疑問を抱く。一体、人間とは何をしているのだ、と。善いことをしているのか悪いことをしているのか、と。

一般的に言えば、人間は悪いことばかりしている。

私達、各々がこれを自問自答しても、やはり、ロクなことをして生きていない、という気持ちを抱くのではないだろうか。

どちらかというと、世の中の人は、大抵、悪いことばかりしている。しかも、それが悪いことだと知りつつも、だ。

いけないと知りつつも、ウソをつく。
他人のものをとってはいけないと知りつつも、不法なやり方で富を得る。
人を騙(だま)してはいけないと知りつつも、その時の気分で人を騙す。
怠けてはいけないと知りつつも、ついつい怠けてしまう。

これが、ごく普通の人間の生き方なのだ。

ブッダ(*2)はこれを観(み)て、「人間というのは、随分と気分よく悪いことをしているものだ」と言う。

なぜ、このようになるかと言えば、気持ちがいいからだ。

ウソをつく時でも、どこか刺激的で気分がいい。会社の金やら、国民の税金やらを、色々と資料を操作して、ごまかして横領すると、結構刺激があって気分がいい訳だ。

賭け事(ギャンブル)をやっている時でも、パチンコに熱中している時でも、酒に依存して溺れている時でも、やはり気分がいいのだ。

心の働きはこのようにできているのである。悪いことをする時には、その悪さには気づかない。これはやってはいけないことだ、と。

だから、世の中は、一向に悪いままで、善くならないのだ。なぜなら、「悪いことをすると気持ちがいい」という心の働きを発見していないからだ。

こうした心の働きを否定して、それをないがしろにしながら、道徳を説いている。だから、これを唱えている本人ですら、道徳を守れていないのだ。

こんな人が、他人に対して
「汝(なんじ)ウソをつくなかれ」
と言っても説得力がないのは当たり前だ。だから、誰も道徳を守る気になれないのである。

そもそも彼らには「どうしてウソをつくことが悪いの?」という問いに答えることができない。いくら「人を騙してはいけません」と唱えても、その当人が適当に人を騙している。

そうやって世界中の誰もが「悪いことをしてはいけない」と耳にタコができるくらい言っているのに、人間は悪いことばかりしている。

こんな世界で生きているのだから、善いことをするために人を集めるのも、善いことに賛成してもらうことも、大変に難しいのだ。

善いことには、すぐに反対する。それが現実の社会なのだ。

しかし、ありのままに社会を観ていけば、問題は解決する。

ただ観念的に理念だけを示し、
「ウソをついてはいけない」
「隣人を愛すべきである」
などと言っても意味はない。言葉だけなら、何とでも言える。

こんな状態では、いくら善いことを言っても、誰も聞く耳を持たない。そんなことは、実際に実行しようとは思わないのだ。

むしろ、多くの人にとっては、隣人を愛するよりも、潰(つぶ)してしまう方が心地よいのだから。

まさに、他人の不幸は蜜の味なのだ。

例えば、ある人の隣の人が立派な家に立て替えたとする。しかし、彼には金がないから、これはできない。

その隣人の新築の家があまりにも羨ましくて、彼は隣人にひそかに嫌がらせをするようになった。隣人の留守に石を投げて新居の窓ガラスを割ったり、きれいな庭を汚したりする。隣人にとっては大迷惑だが、当の本人である彼は満足げだ。そして気分がいいのである。

彼は、素直な気持ちで
「なんて素晴らしいお家でしょう。
なんて美しいお庭でしょう」
と隣人と一緒に喜ぶことができないのである。

こうした人間の心理を踏まえないと、人々に善いことをしようと呼び掛けても、上手(うま)くはいかない。

だから、ブッダは言うのだ。
「悪いことをする時は、みんなとても気持ちよくやるものです。
しかし、悪いことには、必ず悪い結果が待ち構えています。
自分が行った行為の結果として、長い間不幸を背負わなければならない。
火傷をしたように苦しみ続けるのです」と。

悪行為には瞬間的に心地よい刺激が伴うために、人々はその虜(とりこ)になってしまうものなのだ。

しかし、私達はこの刺激に負けてはいけない。

しかし、その反対に善行為をした時には、そんな刺激はない。

むしろ、ただ苦労しているだけではないか、面白くない、といったマイナスの感情がこみ上げてきてしまうのだ。

例えば、ボランティアで障害者の手助けをしようとしても、つい、
「それよりも映画を観た方が面白いかもしれない」
「友人と一緒に遊びに出かけた方が楽しいかもしれない」
と思うことはないだろうか。

友人と遊びに出かける方が、たとえ一時であっても、明らかに心地よい刺激があるのだ。その点、ボランティアをしてもそんな刺激はない。それだけではなくて、クタクタになるほどに疲れきってしまう。

しかし、それこそが善なる行為であり、自分自身の幸福にもつながっていくのだ。悪い行為には、瞬間的な刺激があって楽しいのだが、私達はそのツケを払うために、後々までずっと追い回されることになるだろう。

これらを単純に考えれば、
「瞬間的な心地よい刺激と長く続く不幸」

「瞬間的な苦しみと長く続く幸福」
は、いずれもワンセットで、どっちを選んで生きるべきか、ということになる。

皆さんは、きっと後者の道徳的な生き方を選ぶだろう。

人間には、このようにありのままに物事を観て、決断する能力が必要なのだ。

この大事なポイントを忘れたまま道徳を語っているから、誰もが善いことをしよう、という気分にならないのだ。みんながいくら道徳を説いても、誰も実行に移さないのである。

世界平和の問題でも、みんな瞬間的な感情で動いている。それは決して平和のためにはならない。さらに、悲惨な戦争や無益な争いを増やすだけだ。

どの国でもテロ攻撃を受ければ、「やっつけてやる。倍にして報復するぞ」という瞬間的な反応を起こす。無知な人ならすぐに考えることだ。

しかも武力で報復してもテロは結果的になくならない。むしろ、テロリストにもっともらしい蛮行の大義名分を与えることになる。そして、延々と殺し合いが続くのだ。

では、一体どのようにすれば、世界に平和の道を切り開くことができるのか。例えば、日本がある国から侮辱されたとする。瞬間的には相手の国に同じようにやり返そうという気持ちになる。

しかし、ブッダはそれを明確に否定している。報復という安易な方法ではなく、もっと別な困難な方法を選びなさいと説いているのである。

他国に侮辱されたということは、自分達の国にもそれなりの原因があるのかもしれない。ならば、それがたとえ些細な、どうでもいい理由であろうとも、構わずに「申し訳ありませんでした」と謝ってみるのだ。

「それでは自国のプライドが傷つくではないか」という人もいるだろう。世論も「日本にも自国のプライドがあるのだから、単純に謝ってはいけない」という方向に傾きがちだ。

しかし、むやみに他国を侮辱する国よりは、わずかな過ちに対しても素直に謝る国の方が品格がある。自分の国から謝ることは、瞬間的な苦しみを伴うから、どうしても実行は難しいものだ。品格ある国民ならば、勇気を出して、難しい方を選ぶことだ。そうすれば、あとには延々と平和な毎日が続くのだから。

このように、心が瞬間的に「やれ!」とけしかけることをするなというのが、ブッダの言葉である。

悪の特色(?)は、瞬間的に心地よい刺激を与えて、その後からずっと無限に苦しませることなのだ。

善の特色は、瞬間的な苦しみを伴うが、自らに打ち克(か)つ努力をすることによって、必ず幸福に導かれていくということなのだ。

瞬間的な苦しみとは、自分の瞬間的な欲求を克服することの苦しみなのだ。そのために、プライドが傷ついたような苦しみを受ける。

しかし、その苦しみに打ち克つことが、幸福への唯一の道であるのだ。

~~~~~

(*1)この 法句経一日一悟の初回(368_法悟28-0-1)の前書きの内容としては書かなかったが、S さんは、以下のように記(しる)していた(一部改変あり)。

「本書では、「ダンマパダ(法句経)」に説かれたブッダ智慧を全 4 章 28 編にわたって紹介しています。
前著「原訳法句経一日一話」と同様、偈文(げぶん)は「ブッダの言葉に最も近い」とされるパーリ語の原文から日本語に直訳したものです。
ぜひ本書のタイトル通り「一日一悟」のつもりで読んで頂きたいとの願いから、4 週間でブッダ智慧を学べるように構成しました。
どのページを開いても、競争(社会の)思考のみで生きてきた現代人にとっては、ショッキングな内容かもしれません。
しかし、事実は事実です。誰もが好んで聞きたがる甘い話など人生の役には立ちません。
「役に立たない話は無駄話であり、悪行為だ」
智慧に勝(まさ)る財宝はない」
ブッダも説かれています」

と。

そのショッキングな内容の一部が今回のお話になるのだろう。

なお、偈(げ)とは、サンスクリット語(古代インドの文章語。梵語(ぼんご))でガーターで、詩のことを指す。

(お断り)申し訳ありませんが、私の力不足により、本書にあるような形、すなわち、一日一節の速さでは、到底、ブログを更新することはできません。

かなり遅いペースとなりますが、この点もあらかじめご了承願います。

実際、今回の話も、霊性の面から書くと、かなり面倒だな(長くなる)と思うので。

ちょっと、これ、しんどいな、というのが、正直な感想です。

(*2)ブッダは、本来の意味は、煩悩を超越し真理を悟った者を指していう。仏のことだ。だから、ブッダは、本来ならば、何もお釈迦さんだけとは限らない訳だ。

古代には、お釈迦さん以外にもこうした人はいたと思われる。

しかし、現代はブッダというと、一般的には、お釈迦さんの代名詞のようにして用いられることが多い。

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追記: 2021/05/23 10:03 〜訂正内容〜

本文を訂正しました。