おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

371_法悟28-1-2

第 1 週 心の法則を知る

1 善(よ)いことをしたくならない

悪を犯す時、無知な人は、
それが悪業(あくごう)であると気づかない。
しかし自らの行為によって、
智慧のない人は、火傷(やけど)したように苦しみ続ける。

(一三六) (第10章 暴力 より)

以下は、霊性の見方を中心とした私個人の独断と偏見による考え方です。

経文の意味合いと S さんのお考えについて、思うところを書きたいと思います。

以下の内容は、日本の宗教家の五井昌久さん(大正 5 年~昭和 55 年)の書籍とそれにもとづき私が詰めて考えたものを元にしています。

あまり詳しいことを細々と書いても量が増えてどうしようもないので、詳細については、書籍( 五井昌久著 神と人間 白光出版 ) をご参照して頂くとして、いつものように、おおざっぱにいきます。

まず、あらゆる世界は、神界、霊界、幽界、現界(この世)に大別される。

人間とは、肉体人間それ自体ではなく、神様の分けられた命(以下、分霊(わけみたま)とする)そのもの、霊そのものを言う。

その分霊は、真善美に悖らない完全円満なものであり、精妙な光で自由自在に動くことのできる波動をもっている。

神様が、この世の現界に、その世界を映し出そうと、その分霊を、霊界から幽界、さらにこの世の現界(肉体界)まで降りてくるまでに、その光の波動はきわめて粗く、遅く、重いものとなってしまった。

霊体なら、ちょっと思っただけですぐに他国に行けるものを、肉体ならば交通機関を使って何時間、何十時間とかかってやっと移動できるというように。

そして、本来は一つだったものが、各肉体に分かれて入ることによって、分かれた、肉体人間は各々別なものだ、という意識が芽生え、肉体として輪廻転生を繰り返すことにより、分かれたことだけでなく、各々は別だ、つまり、個々の肉体人間こそが自分だ、肉体人間個々こそが自分だ、との想いが染み付いてしまった。

しかも、こうした肉体界で生きてゆく、そして、神様の世界をこの世の地球を開発してあらわしていくためには、場合によっては自殺のように簡単に死なれては困るなどの理由からか、便宜上、本来の分霊としてはなかった自己保存の本能を追加付与された。

この世の地球世界を開発していくために、肉体としての命が有限であることもあり、まずは、わが身を守る、確保するという本能を与えられた訳です。

この自己保存の本能と数限りない輪廻転生を通して、人間=肉体人間だという肉体人間観と、自己保存の本能によるわが身とその近しい者だけの生存を計り、その利害を最大化させるという癖が根深くついてしまった。

つまり、肉体人間は、基本的に自らとその近しい者だけの利害得失計算の最大化を念頭に置いた発想と生き方をするようになってしまった訳です。

そして、元々の同じ神様の命の分かれ分かれの同胞であるという意識が薄らいでしまった。

本来ならば、同じ神様の命を分けられた者同士の同胞として、互いに愛し合い、慈しみ合い、尊重し合い、協力し合いながら、この世に神様の世界を打ち立てていかなければならないはずが、利害関係の対立・相克(そうこく)する、場合によっては敵同士のような関係になってしまったのである。

まずは、以上を前提にして考えていきます。

肉体人間の欲求には、主に3つのものがあるとされます。

食欲、睡眠欲、性欲の3つです。

これを、肉体人間に絡めて、さらに拡張すれば、五感にまつわる欲求にまで広がり、さらには、マズローの 5 段階のような欲求にまで広がりを見せるでしょう。

そうした肉体人間にまつわる欲求を考えた時、やはり、周りの肉体人間と比較して自分が優位に立つことは、安心感、安堵感を得られるので、心地よい感覚につながることになります(神性は奥深くにはしまい込まれていても、間違いなくあるので、罪悪感を覚える場合もままあるとは思いますけど)。

S さんの取り上げていた悪いことをすると心地よい例は、つまるところ、他人を出し抜いて、自分が優位に立つものばかりです。

それらが尖鋭化されれば、快楽の貪りにまで行き着くことだって十分にあり得る。

つまり、この悪いことをすると心地よい感覚は、肉体人間として、数限りなく繰り返した輪廻転生で染み付いた肉体人間としての想いの癖に起因している、ということです。

本質であり、本体なのは、神様の分けられた命なのだから、すなわち、真善美に悖らないのですから、悪いことをするのが、心地よい、気持ちいいはずがない。

神様の子供同士として、同胞を出し抜いたり、損ねたりすることの、一体どこが気持ちいいと言えるのですか?

そんなはずがある訳ないじゃないですか。

長い長い間の輪廻転生を通した想いの癖、別の言い方をすれば、真善美に悖る想いと行いの業想念の蓄積が、悪い因縁の因果としての展開が、このように私達を分け隔てて、場合によっては相争うような利害対立関係にまで追い込んでいる。

神様のように清く生きたくても、このように長い間に蓄積された業想念による、悪い因縁因果のために、神様の生き方としての理想と、肉体人間としての生き方の現実が、はなはだしく乖離(かいり)してしまっている。

罪悪深重の凡夫(ざいあくじんじゅうのぼんぷ)という言葉にあるように、肉体人間は、対人での自らの利害得失の最大化だけでなく、自然や動物をはじめとして、ありとあらゆるものの犠牲の上に生活している。

従って、この理想と現実の激しい乖離、ギャップをうめて、神様の子供としての本質を取り戻していく、人格の向上をしていくためには、やはり、心がけのような修養だけにとどまらず、それなりの信仰が必要になってくると考えます。

もしも、悪いことが心地よいと感じるのが、肉体人間の本質とするならば、何のために修行をするのでしょうか?

これでは、修行をして心を清らかにしても、それはあくまでも、限定的なものとしか、考えることはできませんよ。

なぜならば、悪いことを心地よく感じる存在が肉体人間の本質であるとするならば、こんなものが神様であるはずがないからです。

本質が神様でないならば、磨いても光る玉ではないですよね。

本質が神様だからこそ、肉体人間としての輪廻転生で積んでしまった業想念を浄めて、魂を磨いて元の神様の想いと行いを肉体を持ったままで、あらわすことができるように、修行をしていく意味があるのではありませんか?

修行をするのは、磨けば光る玉だからこそ、ですよ。

本質が神様でない(=神性ではない、仏性ではない)ならば、悟りを開くことはできないはずですよ。

そう思うんですけどね。

このように考えてくると、経文の悪いことを悪業と気づかないというのは、肉体人間として長い間の輪廻転生を通して蓄積してしまった、真善美に悖る、間違った想いと行いの業想念により、元々あった神様の分霊としての神性の眼が曇らされて、善悪の判断能力が著しく低下したことと、この判断力の如何にかかわらず、過去世の悪い因縁のためにそのまま悪い行いをしてしまうことが、考えられます。

そして、悪業によって、火傷をしたように苦しみ続けるというのは、この世では、顕在意識(普通の意識)で思ったことが、想いの世界の潜在意識に入り、またこれが顕在意識に浮かんだり、実際のこの世での行動などにあらわれ、これが潜在意識に再び記録され、しかも、これらが輪廻転生を通して、と顕在意識と潜在意識が循環するようになっていて、その循環がその個人の運命をつくっていくので、神様の感覚がおかしくなったように悪さに気づかないままでいると、悪循環が止まらずに続くことになってしまうことを意味していると考えられます。

国のことに関しては、かつて数百年前、日本のある武将が他国の人々にしたとされていること、それと日本に比べての気候の厳しさなどから、つまり、悪い因縁と厳しい環境のために、いろいろなことが起きてくる可能性も考えられます。

こうしたことは、残念ながら、神のみぞ知る、といった事柄なので、本当のところはなかなかわかりません。

霊感のない、一般的な私達にできることは、現状から過去世であったことを、逆算して類推することしかできないからです。

従って、個人レベルでも、様々な因縁因果の背景があるのだから、やたらに責めたり裁いたりできないように、ましてや、個人個人の因縁因果の集積としての巨視的な視点での国家の単純な勧善懲悪の裁きは難しいと思います。

やはり、各々が謙虚になって、正しい信仰をした上で、神様におまかするしかないように思います。

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①追記: 2021/05/13 05:05
②追記: 2021/05/23 10:05
〜訂正内容〜

上記 2 回にわたり、本文・加筆を訂正しました。