おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

401_法悟28-17-1

第 3 週 賢者の道を歩む

3 善行為という処方せん

かつて悪を犯した人であっても、
後に(たくさんの)善を行うならば、
その人はこの世を輝かす。
雲を離れた月のように。

(一七三) (第13章 世の中 より)

また、適当にいきます。

人間は間違いを犯すものだ、という格言がある。これは、どんな人間であろうと、いつかは何かしらの間違いを犯す事実を示している。

問題は、その受け止め方だ。人は、自分の間違いには寛容だが、他人に対してはは違う。ここぞとばかりに偉そうに牙を剥(む)いて他人を糾弾するのだ(?)。だから、この世ではトラブルが絶えないのである。

人は誰しも間違いを犯す、というのであれば、他人に対しても、寛容な態度をとるべきだろう。しかし、人間の悪いところは、他人の間違いを認めたがらないことだ。そのくせ(?)、自分が間違いを犯しても、悪びれもせず、私だって人間だから仕方ないのさ、と開き直るのである。

これでは、ご都合主義もきわまるところであり、相手を侮辱したり、攻撃したりするために、格言を悪用していると言われても、仕方がないだろう。

この格言を見ると、私達は、なるほど、と納得してそれで話は終わりがちだが、ブッダ(お釈迦さんのこと)なら、さらにもう一歩を踏み込んだ話をするのだ。

「ならば私達はどうすべきか」と問いかけるのである。仏教では、この問いは非常に大切だとされる。なぜならば、人生ではあらゆるトラブルがつきものだからだ。人間のあるべき姿としては、悪いコトが起きたら起きっぱなしで済ませるべきではないのである。

人間は間違いを犯さずには生きていくことができない。では、どうすれば、幸せな人生を歩めるのか。

それに関してブッダは、「間違いを犯したら、それよりもはるかにたくさんの善いことををしておきなさい」としている。

もし、何かしら失敗をしたら、それよりも何倍も善いことをすれば、間違えたことなど見えなくなってしまうのだ(?)。それどころか、社会から評価さえもされるだろう(??)。些細な失敗をわざわざほじくり、とやかく文句をいう人などいない(???)。

残念なことに、この世の中には、社会から注目を浴びるような人が出てくると、その人を故意に貶(おとし)めるために、過去に罪状がないかを徹底的に調べ上げ、世間に言いふらす人達がいる。これは恐ろしい犯罪であり、非人間的なやり方だ。どんな立派とされる人間であっても、大抵は、過ちの一つや二つはあるのが普通だ。それは別にどうということはない(??)。それよりも、その人がどれぐらい、善き人間として生きてきたのか、が大切なのである。

たとえ、十年前などの過去に犯した過ちが世間に発覚しても、私達が問うべきことは「過ちを犯してから、あなたは、それを消す(?)ために、どれだけ善いことをしてきたのか、努力をしてきたのか」ということなのだ。

間違いを犯したから「お前はダメだ。いけない人間だ」と決めつけるのではなく、それを償うためにどのぐらい善いことをしたのかが一番大事なのである。

この偈(げ。詩文。この経文のこと)でブッダが説いているのは、罪を犯したことに引きずられずに、それを踏み台にして、一つでも善いことをしようではないか、ということなのだ。

要は、「犯した間違いを自らの人生を防御するための、踏み台にすることは可能だ。その間違いが霞(かす)むほどに、たくさんの善いことをしよう。それこそが立派な人間の生き方であり、そうした人々が世の中を輝かせるのだ」とブッダは言うのである。

しかし、それは悪をしても、善をすれば、何でもかんでも帳消しにできる、という意味ではない(そりゃそうだ)。たとえ帳消しにはできなくとも、とにかく何でもいいから(数えきれないほど)善いことをしなさい、それ以外に道はないよ、とブッダは説いているのである。

少し(かなりの間違いじゃないの?)大胆なケースで考えてみよう。例えば、人を殺してしまっては、もう一度、その人に命を与えることなどあり得ない。帳消しにしようとしても、それはできないのだ。

ブッダに帰依(きえ)して、後に阿羅漢となったアングリマーラ尊者(???)の話をしよう。

かつて彼はたくさんの殺人を犯した殺人鬼だったが、最高の善行為により阿羅漢になり、すべての罪から解放してもらった。

しかし、だからといって、残酷に殺された被害者はどうなるというのか。その罪はどんな善行為を積んでも帳消しにはできない(当たり前でしょう。師匠にいわれたアホな首飾りをるために、罪のない他人を身勝手に殺しまくったんだから。もしも事実であるなら、過去世の因縁でない限り、世界の史実に残る超大罪だ)。殺された人々やその親戚は、相当な憎しみと怒りを抱いているだろう。尊者(???)が阿羅漢になり、すべての罪から解放されたといっても、彼らには納得がいかない(当たり前だ)。

しかし、だからといって、被害者側が報復することが、許されるものなのか。そこでブッダは、国王にきちんと事実を説明して、尊者(???)の罪を免除するように言ったのである。尊者(???)に憎しみを抱く人達が、報復という形で新たな罪を犯すことがないようにしたのだ。法律上、無罪(???)の尊者(???)に報復すれば、今度は自分達(被害者の遺族のこと)が罪を問われてしまうからだ。

仏教では、罪を犯した人に仕返しをするやり方を認めていない。罪を犯した人間は、自分でそれなりの償いをして、善行為を積むのが唯一の道だ。犯罪の被害者達がその人間に仕返しをするということは、新たな罪を犯すことであって、それで相手の罪を帳消しにすることはできないのである。

例えば、自分が人を殴ったとする。「(私は)悪いことをしました。では、私を殴って下さい」と言っても、それで自分の罪を帳消しにはできない。

それでは、私を殴った人々が、また、人を殴ったという罪を犯しているだけなのだ。

そうではなくて、「私は怒って人を殴った。しかし、これからは、怒りません。何があっても我慢するぞ、忍耐するぞ、平和のためにいろいろ行動するぞ」と、たくさんの善いことをすると、善行為の重さで罪がつぶれてしまう(???)のだ。それしか、罪を償う方法はない。

だから、仏教という真理の世界(?)では、俗世間の考え方とはずいぶん違う。

多くの日本人は、殺人事件が起こって、加害者が裁判で死刑判決を受けると、それでよかったとするが、仏教では決して認められない行為である。死刑を歓迎することで、被害者の家族が新しい罪を犯したことになるからだ。テレビのニュース番組などで、自分の娘を殺された親が「裁判で犯人の死刑が確定し、これで娘は救われます」という姿を目にする。しかし、それで娘さんが救われる訳ではない。被害者の家族が犯人を殺すことを喜ぶならば、自分達も人殺しの罪に汚染されることになる。残念なことに、被害者の家族も新たな殺人を犯してしまうのだ。最近の日本で特に顕著な問題だが、そういう悲劇は真理を知らないから起こるのだ。

どんな人間も何らかの罪を犯して生きている。罪を犯さずに生きていくことは困難だ。しかし、だからといって、「じゃあ、いいじゃないか」とはならない。罪には必ず悪い結果があるからだ。

では、どうすればいいのか。ブッダはたくさんの善いことをせよ、と教えている。善いことをたくさんすれば、善行為の重さで、罪(その前の悪行為)がぺしゃんこになってしまう(???)からである。

それが人格者としてすべき行為であって、そうした人間こそが世界を輝かせるのである。

とのこと。

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追記: 2021/06/02 01:43 〜訂正内容〜

本文を訂正しました。