おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

469_仏言葉ー003 ー 人身得難し

第 1 章 世間のルールになじめない

3.人として生きるということ

人間に生まれることは得難く
死すべき命を生きるのは難しい
正しい教えを聴く機会は稀で
ブッダが出現されることも稀である

(一八二) (第14章 ブッダ より)

これは、すでに書いていることなので、これらを引用します(一部改変あり)。

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227_原仏13ー16(中村さん関連)

226_原仏13ー15 の続きです。
Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
二 「ダンマパダ」のことば
になります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A)と記します。また、私の文を(B)と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。

ー めざめた人 ー
(A)めざめた人(ブッダ)については、第一四章にまとめられています。

人間として生をうけることはむずかしい。
死すべきものが生きることはむずかしい。
正しい教えは聴きがたいものであり、もろもろのめざめた人の出現は得がたいことである。

(一八二) (第14章 ブッダ より)

(A)(一部改変短縮省略あり)「人身うけがたし、仏法聴きがたし」という言葉がよく引かれます。人間としての生命を受けたことが尊いのです。

また、「盲亀浮木に会う」(法華経 妙荘厳王本事品など仏典に多数出てきます)という言葉もあります。

それはガンジス河のような大きな河で、目の見えない亀が流されている。それがたまたま流されてきた木に出会って、そこに穴がある。その穴に身を潜めて救われる。

こんな奇遇は滅多に起こらないことでしょうが、仏法を聞くのも、これと同様にありがたく尊いことである。有り難(にく)い、ことだから、有り難(がた)い、となり、さらに、ありがたい、となる訳です。そうした例えに使われるのです。

考えてみると、本当に不思議なことです。人間の歴史を学者のいうことから想像すると、原始人はただ争っているだけなのです。傷つけたり殺すのは当たり前のことでした。

ところがある時期に、人間の間に慈悲を説く教えが出てきて、そこで人間の考え方がすっかり変わった訳です。生活も変わり、さらにそれを信じる人の容貌までも変わっていきます。

これは大したことだと思います。ただ、その力がずっと続いているとはいえないので、今日でも相変わらず殺しあったり、争ったりしている訳で、それは原始人と一向に変わりませんし、のみならず動物以下じゃないか。むしろ策略を使う人間の方が下卑(げび)て劣等ではないか、人間の方が悪いのではないかとも思いますが、そこで慈悲の教えが説かれたのは当たり前まことに尊いことだと思います。

(B)なかなかないこと
→滅多にないこと
→あることが、むずかしいこと
→有り難い
→ありがたい、
となるのでしょうね。

ここで、中村さんの言われる慈悲の教えとは、仏法(仏教の旧称)=仏教を指しているのでしょうか?

教養のない私にはよくわかりません。

ただ、前後関係から仏教以外にはないでしょうね。

なぜ、はっきりとお書きにならなかったのでしょうか。

これまた、よくわかりませんが。

まあ、仏教以外の宗教を指しているのならば、残念ながら、これが何なのかは私にはまったくわかりません。

また、勝手に書きます。

私達肉体人間は本来なら、神様の生命そのままをあらわすはずの万物の霊長の位置付けにいます。

神様の分霊、分け命が与えられている分、知恵も働くし、創造もできる。

この点が動物と明らかに異なっているからです。

つまり、神様が肉体人間に分け命を与えているということは、それなりの役割を期待していることになる。

これはおそらくこの物質世界、地球世界に神様の世界をあらわすこと、と考えられます。

それを踏まえずに、五感にまつわる各種の欲望ばかりを貪(むさぼ)り求めてばかりいる、すなわち、自分の快楽的な欲望ばかりを満たすために、環境として与えられている資源である自然や動物を、好き勝手し放題に破壊と収奪をしてしまったら、それこそ、動物以下の存在になってしまう可能性が出てくるのではありませんか。

動物より、知恵も働く分、明らかに悪い、ということにもなってしまう。

動物たちに比べて明らかに優れた能力を授けられているのに、周辺環境を犠牲にして、自分勝手なことばかりしているからです。

本体を同じく神様の分霊とする、肉体人間同士で傷つけあったり、殺したりなどやってはいけないことなど言わずもがな。

なので。

例えば、動物や魚を(もちろん、植物もそうですが)食べる時には、自分の命を生かすために栄養分として同化して、その生きていた命を捧げて下さっている。

少なくとも、こうしたものすべてに、感謝の気持ちを抱き、その天命がまっとうされることを祈ること、できうることならば、世界平和の祈りも併せてすることが、望ましいと考えられるんですよ。

食べ物の味に旨い、そうでない、は確かにあります。ただ、神様の命をあらわしていたところの、その体を捧げて下さっているのだから、こんなもの不味いや、食えるか、というのは、かなり具合が悪いような気がするんですよ。

そう考えてくると、食事前に頂きます、ということにも、やはりそれなりに意味があったのだな、ということになります。

命を捧げて下さった、動物さん、植物さん、ありがとうございます、と。

ー めざめた人 ー の途中ですが、ここで区切らせて頂きます。ご了承願います。

~~~~~

・下卑る~げびる~品性がいやしくなる。下品に見える。
(用例)下卑たふるまい。

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415_法悟28-23-1(Sさん関連)

第 4 週 人格の完成をめざす

2 世にもまれなるチャンス

人間に生まれることは難しい。
また生きることも難しい。
真理を聴(き)く機会も得難い。
ブッダの出現は未曾有(みぞう)のこと。

(一八二) (第14章 ブッダ より)

適当にいきます。

人間としてこの世に生まれることは大変に難しいことだ。

それを理解してもらうために、私(= S さんのこと)はこんな説明をする。

皆さんの人生で宝くじの 1 等賞に、連続して 100 回も当選することはあるのか、と常識的にはあり得ない話をする訳だ。

まずあり得ないが、しかし、確率として考えれば、決してないとは言い切れない。

私(= S さんのこと)は、一人の人間が宝くじを買うたびに、1 等賞が 100 回も続けて当たることは、可能性としては不可能ではないけれども、人間に生まれる確率はそれよりもさらに低い、と言いたいのだ。

パーリ経典の伝統的な物語には、人間に生まれてくることがいかに難しいか、が書いてある。

「牛のくびきが穴のところから折れて戸外(こがい)に捨てられている。やがて雨が降って、この二つに折れたくびきが川に流されて、海にまで流れ込む。海の上で二つのくびきが折れたところから重なって、一緒になる瞬間があるかもしれない。その瞬間に 100 年に 1 回しか息継ぎをしないウミガメがちょうど海から顔を出そうとして、一つに合わさったくびきの穴から自分の首を出す」

人間に生まれることはそれくらい難しいという話だ。それは宝くじの 1 等賞に連続して 100 回当たるよりも、さらに難しいだろう。

これは決して大げさな話ではない。仏教では生命を果てしないスケールでみているのだ。

輪廻転生はたくさんの生命の次元に分かれている。地獄があって、人間界があって、天界もあって、それぞれの世界がさらに細分化されている。

物理的に宇宙をみた場合でも、仏教では近代科学が発展するはるか以前から、この太陽系だけではなく、宇宙のあらゆるところに太陽系があって、そこにも生命がいるのだ、と教えてきた。

そうした広大なスケールの生命の世界で、人間はどれくらい少ないかを考えると、その事実が明確にわかるのだ。

小さな蟻塚を見ても、そこには一体どのくらいの生命がいるだろうか。

虫の世界には、人間の数とは比べ物にならないほどの無数の生命がある。

地球上の全体の生命を数えても、人間は本当に少ない。

これに地獄の生命や餓鬼道の生命、天界の生命などを含めたもっと広大な生命の世界で、人間に生まれる可能性は本当にわずかなのだ。

この瞬間にも、もう何万、何億、何兆という生命が死んでいる。

死ぬ生命は次に生まれる場所を探すのだが、人間の世界にはその場所がないのだ。

私達はそれほどの困難な状況で、人間に生まれるというチャンスを得た訳だ。

これに比べれば、宝くじの 1 等賞に 100 回連続して当たることの方が簡単なはずだ。

私達はそれくらい貴重なチャンスに恵まれたのだから、このかけがえのないチャンスを生かさないなんてもったいないとは思いませんか。

ただ、食べて、寝て、人の悪口や噂話に明け暮れて、嫉妬や怒りや欲望に溺れて死ぬのでは・・・。

人間としての一生を、宇宙の次元、輪廻の次元からみるならば、1 分たりとも人生を無駄にはできないはずだ。

そんな余裕はないのである。

人間に生まれることは、類い稀なるチャンスだから、世の中の風潮に流されて生きるのではなく、人生とは何かをしっかりと考えるべきだ。

いかに生きればいいのか、と観察して生きなければならないのだ。

ブッダ(お釈迦さんのこと)は「生まれたものの目的とは、解脱することである」とはっきり述べている。

人間の天職、本職は解脱することにあるべきだ、それに挑戦するより他に、生きることには何の意味もないのだ、と。

解脱することが現代人に理解できなければ、少なくとも人格の向上を目指すべきだろう。

ごく普通のどこにでもいるような人間(ひどい)よりは、かなり優れた精神をもつ人間になってみる。

まったく罪を犯さない人間になるという、それくらいのことでも頑張ってみてはどうだろうか。

現代の社会では、子育てや教育には大変なお金がかかり、家族ぐるみで必死に子供の面倒を見なければならない。

会社に入れば、それこそ一生をかけて働かなければならないし、コンビニでアルバイトの仕事をするだけでも、他には何もできないほどに時間をとられてしまう。

もう、仕事がやりきれない程に膨大で、現代人にはまったく暇がなくなっているのである。

これは極端に無知な生き方だ。

1日、4、5 時間も寝る暇さえなく、頑張っている。しかし、くだらないことに頑張っているだけなのだ(ひどい)。死んでしまえば、何の意味もないことだ。そんな雑事(ひどい)は淡々と済ませ、「本職」に取り組むべきだ。

はっきり言えば、人間の生き方はまったく無駄だ。後でだれしもが口をそろえて言うのは、「暇がなかった」という言い訳だ。

では暇がないほどに何をやってきたのかと振り返れば、誰にでもできる無駄なことばかりだ(ひどい)。

例えば、幼稚園では 1 年に 1 回、子供達のお遊戯会がある。その日は親達が 1 日がかりで苦労をしなければならない。家族みんなで準備をして、朝早くから夕方まで何をやっているかといえば、別に何もやっていない。わざと人生をややこしくして、大切な時間を失うだけだ。しかも有益な結果を何も生み出さない生き方だ(ちょっと・・・)。

私達はよく口癖のように「今度生まれ変わったら何々をするぞ」と言うが、そう簡単には人間には生まれ変われないのだ。そんなチャンスはないのである(?)。

今、世界はどんどん貧乏になっていって、人々は子供を作らなくなっている。人間に生まれるチャンスはほとんどない。

稀に人間に生まれ変わっても、みんな無駄な仕事に追いかけられて、惨めで無知な生き方をしている。そう楽には、生きていられないのだ。やっと生きているのが精一杯で、それにも満足はできない。いくら苦労をして生きてみても、満足感が全然得られないのである。

一生をかけて科学を研究しても「これでもう大成功。立派な知識人になりました」とは言えない。やっと何とか論文を出すだけ。

人間に生まれることは、こんなにも珍しいことなのに、生命とは何かと、本格的な真理を聞くチャンスはほとんどないのである。

ましてや、真理とは何かなどと探す余裕などない。ただ自分の食べ物を探すことと、次の世代を育てることで一生かかってしまうから。それで人生は終わってしまうのだ。

だから世の中では真理を探求することは稀で、やみくもな信仰ばかりしている。どこかの神を信じるとか、お祈りをするとか、その程度で終わってしまうのだ。

「真理なんて考える必要はない。信仰をすればいいのだ。だって食べ物を探すのに忙しいのだから」と。

そういう世界だから、真理を聞くチャンスはほとんどない。

真理を聞く人は、もう、一 千万人に一人か二人というくらい、人間の中でも珍しい存在なのだ。

人間に生まれることは稀である。その中で真理を知ろうとする人は、もっと稀な存在である。

そして、それよりも、さらに稀で難しいのは、ブッダがあらわれることなのだ。

ブッダは、誰も真理を知らない世界にあって、自分一人で真理を発見した人なのだ。

人生のちょっとしたヒントも与えることができないこの世界にあって、一人で真理を発見したのである。

それはきわめて珍しく難しいことだ。

時間的にみても、阿僧祇劫(あそうぎこう)に一人だけ。

いくつもの宇宙がまるごと生まれては消えていく膨大な時間の中で、たった一人だけがあらわれると言われている。

目を覚まして考えれば、今がそのブッダがあらわれた時代なのだ。

ブッダは亡くなったが、その教えが生きている時代なのだ。

しかも、自分は人間に生まれている。だから、真理を見つけるならば、今、この時、このチャンスだけしかない、ということ。

この瞬間、自分にとって一番大切なことは何かを知って、必死に頑張るのです。

それは「心を清らかにする」ことなのです。

とのこと。

~~~~~

・未曾有~みぞう~(未(いま)だ曾(かつ)て有(あ)らずの意)昔から今までに、一度もないこと。みぞうう。

阿僧祇劫~あそうぎこう~ (「劫」はきわめて長い時間の意) 仏教語。無限に長い時間。

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416_法悟28-23-2(Sさん関連)

第 4 週 人格の完成をめざす

2 世にもまれなるチャンス

人間に生まれることは難しい。
また生きることも難しい。
真理を聴(き)く機会も得難い。
ブッダの出現は未曾有(みぞう)のこと。

(一八二) (第14章 ブッダ より)

勝手にいきます。

前回( 415_法悟28-23-1 )、S さん( スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老 )は、いろいろなたとえ話もまじえて、いかに人間に生まれるのは類(たぐ)いまれなことか、貴重なことであるか、をさかんに力説していました。

そうした貴重な機会(チャンス)なのだから、周りに流されない、一般的な生き方とは違うものにも目を向けてみるべきではないか、とも提案をしていました。

それが、真理の探求。

しかし。

真理を知ったところで、何になるの?

それで生活が少しは楽になるの?

どんなに僥倖として、肉体人間に生まれつくことができたとしても、生活に追われていたらどうにもならないのではありませんか?

それでも、生活のすべてを投げ打って、家族を放り出してまでも、自分は真理の探求をするんだ、という人はまずはいないでしょう。

もっと言えば、真理の探求を求めるほどに、過去世での霊的な修行のそれなりの積み重ねがない限り、どんなに唯物論の理屈で説得しても、効果はないのではありませんか?

因縁の機が熟すか、祈りやお浄めによる因縁因果の修正に預かることができなければ、どうにもならないはずです。

因縁因果は、祈りとお浄め以外には、変更する方法がないからです。

その変更も肉体人間の勝手な都合を聞いてくれるような万能さ(?)はないですよね。

肉体人間が自分勝手、身勝手な都合や欲望で運命を変更したくても、それは認められないということです。

あくまでも霊性の向上の観点から許される範囲でしか、変更は許されないでしょう。

となると、一足飛びに、真理の探求に向かうことは、よほどの真理の探求に縁のある人でない限りは、まずあり得ない、ということになります。

そして、仮に真理を知る機会ができたとしても、安心立命ができなければ、現実との落差に苦しみ、落ち着かないのではありませんか?

どんなに苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、その想いに引きずり回されない。

想いを乱さない。

安心立命している。

いかにまわりの環境が変わろうとも、達観して、落ち着いて見ていることができる。

こうした境地にほんの少しずつでも近づいていくことが、大事なんじゃないですか?

人身得難しで、肉体人間に生まれてくることは、いろんな意味でありがたいこと。

その確率も少ないみたいだし、今現在の自分の思惑だけで、次に都合よく生まれ変わろうなんて、できないんでしょう(期間は昔は数百年、現代は数年などもあるらしい)。

守護の神霊さん、中でも特に守護神さんと神様のご意向次第で、輪廻転生を通してどんな道筋を歩むかは、肉体人間の頭脳、特に大半を唯物論に染められてしまっている頭脳で考えることとは、まったく違うものになるでしょうから。

神様のお計らいは、特に、輪廻転生については、肉体人間にはわからないのではないですか?

いくら、超のつく希少だから、チャンスを逃すな、と一生懸命に読者を鼓舞(こぶ)しても、現代人はその重い腰をあげないと思います。

S さんは、解脱(=悟りを得ること)できなければ、人格の向上はどうか、とも言っている。

しかし、解脱は、霊性を徐々に開発して、それに伴い人格を徐々に向上させた、その行きつく先にあるものです。

現代人は生活がある程度満たされてしまっていると、娯楽も多いし、真理の探求に向かわせることは難しいと思います。

私(=筆者のこと)は、だいぶ前に宗教の入り方に 2 通りあることを書きました( 336_法話50-23-2 )。

今の病気を治したいなどのこの世の中での困り事を解決したくて宗教へ入るというご利益(ごりやく)信仰的な入り方、
と、
ただただ、純粋に自分が人格的に立派になりたくて宗教に入る純然たる入り方、
の 2 つです。

そういう意味では、現代人は何か解決したくてどうにもならない困り事があり、ご利益信仰的に神様にすがりたくなるようにならないと、なかなか、信仰に入ること、そして、ひいては、真理の探求に目覚めていくことも、難しい状況に置かれているのではないですか?

こうした状況ですから、一気に真理の探求に向かわせるのは、上記の因縁の話も考え合わせると、まず無理なのではないですか?

ただ、こういう真理の探求の道もあると、心にとどめ置いて置けば、因縁の機が熟して、真理の探求に向かう可能性は、人によってはあり得るとは思いますけれど。

人によって、因縁は千差万別以上に異なっていますから、こうした人がいないとは言い切れませんから。

前に、ウソは一切合切ダメだ、認められないというのは厳し過ぎて現実味がない、と書きました( 400_法悟28-16-2 )が、この真理の探求に向かうことについても、ウソの場合と同じように、徐々に霊性の開発をして、人格の向上をはかって、それから近づいていくのが、現実的だと思うんです。

そうして、徐々に霊性の開発をしながら、少しずつでも安心立命を獲得していくようにして、気持ちを落ち着かせるように努力していく。

という訳で、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をお願い致します。

追伸

S さんは、ブッダ(ここではお釈迦さんのこと)をえらく信奉しているようで(当たり前か)、特別の、さらに特別扱いしていますね。

何劫という、無限億万年(?)にたった一人しか出ない人だと。

おそらく、結果的には権威づけに結びつけたいのかもしれませんけど・・・。

しかし。

お釈迦さんを知らない人や、他の宗教を信奉している人がこれを読んだらどうでしょう?

感服するどころか、かえって鼻白(はなじろ)むのではありませんか?

大覚者さん(お釈迦さん)を祭り上げるのも結構ですが、無欲な妙好人の人達のような地道な祈りが、より意義を持ってきているように思うんです。

派手さはない、誰に認められる訳でもない、ただただ、ひたすら、阿弥陀如来様(神様)とだけ心の対話をして、自己を自然に高めていく。

無欲、無心、感謝・・・。

こうした想いで信仰をしたのが妙好人と呼ばれた人達。

しかも、こうした他力のやり方は、現代では、古(いにしえ)の自力のやり方のような無理は生じない。

生活のごく一部にほんの少しだけでも取り入れることができる。

続けるには根気は要りますが、段階的に精進していくことができる。

なので。

個人的には、こうしたやり方をおすすめしたいと考えます。

~~~~~

・僥倖~ぎょうこう~偶然にめぐってくる幸せ。

・境地~きょうち~①その時の心の状態。心境。
(用例)悟りの境地。
②置かれている立場や環境。
ここでは、①の意。

(参考) ・境涯~きょうがい~この世に生きていく上で、その人が置かれている立場。環境。身の上。境遇。

・鼓舞~こぶ~(鼓(つつみ)を打って舞を舞うことの意から)人を励まし勢いづけること。

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417_法悟28-23-3(Sさん関連)

第 4 週 人格の完成をめざす

2 世にもまれなるチャンス

人間に生まれることは難しい。
また生きることも難しい。
真理を聴(き)く機会も得難い。
ブッダの出現は未曾有(みぞう)のこと。

(一八二) (第14章 ブッダ より)

一つ書き忘れていました。

この経文に、こうある。

ブッダの出現は未曾有(みぞう)のこと。

だと。

ということは、これはお釈迦さんご自身のお言葉ではないですね。

弟子筋の人か、後世の人かはわかりませんが、彼を崇拝し、祭り上げたい人が書いたものではありませんか。

他にもこうした類いの言葉もありますが、考えてもみて下さい。

霊性のきわめて高い人は、周りの人から隔絶された人格の高さを持っている。

ましてや、悟りを得た、お釈迦さんのような人ならなおさらのこと。

そして、こうした人は、一般的な人達の霊性の水準が、まだまだであることも、十二分にわかっているはずです。

従って、自らがこうした超絶した別格の特別な人間であるなどと、わざわざ自己顕示をするような、愚かしいマネをするはずがない。

なぜならば、霊性がまだまだの人からみれば、こんなことを宣言されたら、鼻白み、反感を買い、妬み、嫉みを受ける可能性が十分にあるからです。

だから、霊性のきわめて高い人は、むやみやたらに自慢をしたり、これ見よがしの自己顕示ともとられかねないおかしなことを言うはずがない、と考えられるんですよ。

霊性がきわめて高いのですから、当然のことながら、真善美にも悖(もと)らず、高慢、傲慢、尊大、傲岸とも無縁です。

従って、これはお釈迦さんご自身が言ったものとは考え難いんです。

宗教の本によくありますが、教祖さんを崇拝するあまり、祭り上げしすぎるようなきらいがある記述に遭遇することが、ままあります。

私からすると、こんなに、偉い人、凄い人なんだから、崇拝させたいと権威づけしているのではないか、のように見えてしまう場合があるんですよ。

そういう訳で、教祖さんを慕う気持ちもわかりますが、祭り上げもほどほどにしておかないと、ひいきの引き倒しになりかねない危惧を感じることがあるんです。

だから、人様を誉めるのも、一筋縄ではいかないので、それなりに注意を払う必要があると思います。

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418_法悟28-23-4(Sさん関連)

第 4 週 人格の完成をめざす

2 世にもまれなるチャンス

人間に生まれることは難しい。
また生きることも難しい。
真理を聴(き)く機会も得難い。
ブッダの出現は未曾有(みぞう)のこと。

(一八二) (第14章 ブッダ より)

すみません。前回( 417_法悟28-23-3 )の補足を少しさせて下さい。

私が言いたいことの一つは、S さんのすすめる、「ウソを一切つくな」や「真理の探求をして解脱せよ」は、そう簡単にできることではない、ということです。

五井先生が懇意(こんい)にされていた方に、合気道の開祖 植芝盛平という人がいます。残念ながら、私は文章と写真でしか知らないのですが、この植芝先生は、とてつもない人だったらしい。

お弟子さん筋にも群雄割拠で個性的な人も何人か出たようですが、やはり、植芝先生が一番だったらしい。

この植芝先生にしても、やはり、過去世でそれなりの道をきわめる生き方を何回もして、積み重ねがあったからこそ、神通力を発揮するような武道家になれたはずです。

だいぶ前に、説話のようなお釈迦さんの過去世の物語のジャータカ(本生譚)物語に触れましたが、この世で道をきわめきる人、悟りを得る人は、過去世でそれなりの積み重ねという実績が裏付けになけれはならず、一足飛びに飛躍して、この世で完成を見るものではない、と考えられるのです。

ですから、今、今生(こんじょう)で、S さんのお話を読み、思い立ってすぐに今の人生内で悟ろうとしても、まず、無理だと思うんですよ。

今現在、悟りを得るほどの過去世での、良き想いと行いとそれなりの修行を積み重ねた裏付けのある人が、そんなにたくさんいるとは、到底、思えないからです。

まあ、こうしたことは、宿命通(他人の過去世を読む能力)や神通力を持つような、特別な人にしかわからないので、断定はできませんけどね。

ただ、今の唯物論全盛の世の中で、ああでもない、こうでもない、と真善美に悖る想いと行いの業想念が、幅を利かせているのを見ると、否定的な見方をせざるを得ないんですよ。

今生をあきらめる、といっては言い過ぎかもしれませんが、まったく予想もつかない来世以降にはなるけれど、輪廻転生を通した良き想いと行いの積み重ねという貯金をしておくことは、いつの世にか悟るためには、必須であるし、意義のあることは確かです。

非常に地味で、派手さはない話になってしまいましたが、良き想いと行いと共に、霊性を開発しておけば、今生でもある程度は難を逃れやすくなる場面も出てくるだろうし、来世以降にも良い影響をもたらします。

神様にこの世に出されてしまった以上、各人各様でどのような経緯をたどろうと、いつかは霊性の開発をして、輪廻転生を卒業していくようにしなければならないのが、私達肉体人間の定めなのかもしれません。

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追記: 2021/08/31 01:25 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。