おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

378_法悟28-6-1

第1週 心の法則を知る

6. 欲望の限りを尽くしても・・・

たとえ貨幣の雨を降らせても
欲望は満たされることがない。
「諸々の欲望はほんの少しの楽しみと
巨大な苦しみをもたらすのだ」
と賢者は知っている。

(一八六) (第14章 ブッダ より)

彼は天上の喜びさえも
欲しがることはない。
ブッダの弟子は
渇愛の滅(涅槃)を楽しむ。

(一八七) (第14章 ブッダ より)

また、勝手流にまとめます。

本能のままに生きる。それは欲望を果たすことだけしか考えていない人間の生き方だ。生きている、今この時、この時の瞬間の欲望充足しか考えていない。

それだけではない。人は、何か面白いことはないか、楽しいことはないか、と常に探し回っている。あたかも、餌を求めて野原をさまよう動物のように。

音楽を聴きたくなれば聴く、というように、五感に刺激を感じて満足感を得ようとするのだ。だから、知識を求めることでさえも、欲望の一つの形なのである。

あれも知識として蓄えたい、これも知識として蓄えたい、とやたらに詰め込んだところで、そうした知識は自分の人生にそんなに役に立つものではない。

結局は「私は科学を知っている、医学も知っている」と自慢したいだけ(?)なのだ。勉強をしたがるのも、本を読みたがるのも、一つの欲のあらわれなのである。

うまいものが食べたい、きれいなものを見たい、体が欲する心地よい刺激を得たい・・・。こうしたあり方が私達の生き方なのである。

そこで、覚えて欲しいのは、欲を満たすことは完全にはできない、決してできない、ということなのである。満たせはしないことをやっても、キリがないし、他のことをする余裕までもがなくなってしまうのだ。

人間は、「お金さえあればよい」と考えているが、ブッダ(=お釈迦さんのこと)は、「小判が雨のように降っても、欲は満たされることはありませんよ」と説いている。

欲を満たそうとすると、さらにますます膨らむものだ。1 万円がなくて困っている人が、1 万円を手に入れることができれば、「ありがたい」と思うが、実際にこの 1 万円が手に入ってしまえば、「やっぱり、もっとあれもこれも買いたいから、5 万円くらい欲しいな」と思ってしまうのである。そこで、5 万円を得れば、今度は 10 万円と、キリがなくなってしまうのだ。

だから、ブッダは説くのだ。「小判が雨のように降っても欲は満たされることはない。欲を満たす道を歩むなかれ」と。

欲望を満たせることは楽しい。しかし、そのために、どれだけの代償が必要になり、苦しむかを、私達は考える必要がある。

例えば、サッカーのワールドカップを観戦するためにやっとの思いで入手困難なチケットを手に入れたとする。宿泊先のホテルを予約して開催国までわざわざ足を運んでも、試合を観戦できる時間は、90 分しかない。しかも、そのためには、1 年も前から計画をたてなければならない。これだけの大変な思いをしても、熱心なサッカーファンは「ワールドカップは楽しかった」と言って、日本に帰ってくる訳だ。

ほんのひとときの楽しい気分を味わいたいからと、人間は必死になって欲を追い求めてしまう。しかし、本当にこれでいいのだろうか。

どんなに欲望を満たそうとしても、決して完全には満たされない。これでは、ザルで水を汲んでいるようなものではないのか。必死で水を汲まなければ、わずかな水も得られないのだから。

欲から得られる喜びは少なく、本当は苦しみの方が多いのではないか。

こうした事実を客観的に見ないと、私達はいつまでも欲に振り回されることになる。

仏教では、「たとえ天国の喜びさえも好んではいけない」と教えている。天国では仕事をすることもないし(?)、必要なものは全部揃(そろ)っている。だから苦労もなく喜んでいられるが、それさえも好んではいけないのだ。なぜならば、欲は満たせないのは天国に行っても同じだからだ(?)。この世でも、天国でも欲は満たせないのである。私達を苦しませているのは、常に渇愛と欲望なのだ。

私達の心の中には、絶えず求めることを止めない「もっと欲しい」とする渇愛が寄生している。もっと欲しい、もっとやりたい、まだまだ満足できない、という気持ちが寄生しているのである。

仏弟子は、「渇愛がなければ心は平安だ。苦しむことはないのだ」と、この心に寄生している渇愛を引き抜くことを考える。

たとえ、目の前に金銀財宝を差し出されても、札束の山を積まれても、そんなものはいらないよ、と思える人にとっては、楽なこと(?)なのだ。

私達は、そもそも、欲は満たすことは不可能だと、きちんと理解していない。だから、地球上のあらゆる資源を乱開発して、自然を破壊し、地球を傷つけているのである。欲を満たすためになら、どれだけ苦しくても、どんな罪でも犯してしまう。時には人殺しも厭わない。ついには戦争までも引き起こす。

ここまでしても、欲が満たされたかといえば、そうではない。さらに問題を大きくしただけなのだ。だから、欲を満たす道は、欲を増殖させるだけで、さらに苦しみを連れてくる道なのだ。

美味しい食事をしたいという小さな欲を満たすためにも、人は結構苦労をする。それなのに、欲望をたぎらせて、自己破壊をした挙げ句、世界までをも破壊してしまう。欲を満たすためになら、すべてを壊し、罪を犯すのだ。すべてを破壊し尽くしたら、もう誰もこの世で生き残ることはできない。生きていけなければ、欲も何もなくなるのに、だ。

欲を満たすために罪を犯す。それによって、自らの人生はさらに苦しくなる。不幸に陥って、輪廻転生を繰り返す。欲を満たす道は、危険な苦しみの道なのだ。

しかし、心に寄生している渇愛を取り除くことができれば、幸福への道を歩むことができる。仏教はこれを実践しているのだということを、この偈(げ。詩文。ここでは法句経の経文(一八七))は説いている。

仏教の目的は、欲を満たそうとあがく不毛な生き方を離れ、渇愛を引き抜くことなのである。

とのこと。

次回も感想を書きたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①追記: 2021/05/20 02:05
②追記: 2021/05/20 02:07
③追記: 2021/05/20 04:23
④追記: 2021/05/20 05:03
⑤追記: 2024/04/29 00:16
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文・表題等を加筆・訂正しました。