おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

379_法悟28-6-2

第1週 心の法則を知る

6. 欲望の限りを尽くしても・・・

たとえ貨幣の雨を降らせても
欲望は満たされることがない。
「諸々の欲望はほんの少しの楽しみと
巨大な苦しみをもたらすのだ」
と賢者は知っている。

(一八六) (第14章 ブッダ より)

彼は天上の喜びさえも
欲しがることはない。
ブッダの弟子は
渇愛の滅(涅槃)を楽しむ。

(一八七) (第14章 ブッダ より)

(1) 前段(一八六)について

この文言だけを素直に読むと以下の 2 点が読み取れます。

①地獄の沙汰も金次第で、今から約 2500 年前も、お金が強い影響力を持っていたのだな、ということ。

悟りを得ていない肉体人間にとっては、やはりお金は当時も絶大な影響力を持っていたことが垣間見えますね。

②肉体人間の欲望に関する特徴は、大別すると 2 つあると思う。

まず 1 つめは、悟りを得ようが得まいが、神様の分霊を本体とするものとして、制約のない自由自在な生活や活動を好むということ(もちろん、悟りを得ている場合には、神様のみ心に適う範囲で)。

例えば、移動のための交通手段ならば、馬車や荷車から、蒸気機関車ディーゼル機関車電気機関車(電車)、プロペラ飛行機、ジェット飛行機、などと、どんどん速さが増して次第に進化を遂げてきた。

元々が、神体や霊体として、自由自在で、きわめて超高速に移動できたものが、肉体という重く鈍い波動の中に閉じ込められて、思うようにならなくなった。徒歩はその最たるもの。

だから、元々の速さに戻りたくて、知恵や想像力を働かせて、長い時間をかけて様々な移動手段を発明・開発・製作してきた。

いわば、一種の元帰りの側面を含んだ、欲望のあり方。

これが、まずは 1 つ。

そして、 2 つめは、経文にあるように、肉体人間の五感にまつわる各種の欲望を満足させる、それも、やはり、自由自在な元の形の影響もあるためか、際限のない欲望が常に視野に入ってしまうこと。

つまり、肉体人間にとっては、欲望には天井がなく、際限がないと言える訳ですね。

このために、どれ程の、実現可能性のある、あるいは入手可能性のあるものを手に入れることができたとしても、その満足度に際限がないために、決して満足することがない宿命(?)があることになる訳です。

つまり、どんな望みを叶えても、どうしてもその先の満足度が見えてしまう。しかも、その満足度の最先端は青天井で、ほぼ極限がないことになるんです。

従って、どんな欲望を叶えても、不満足さは免れない。どうしても、大なり小なり、欲求不満が残ることになります。

こうして、欲望の充足に思いを馳(は)せる時には、必ず、こうした肉体人間の欲望に関しての特性を心にとどめておくべきだ、ということになる。

そうしなければ、その欲望の実現可能性に限界がないために、その満たされない欲望により、大なり小なり、欲求不満(望む限りの欲望水準と現実の欲望達成水準との差)という苦しみがもたらされることは免れない。

しかも、この欲求不満にこだわればこだわるほど、苦しみは幾何級数的に(等比級数的に?)増してゆくためです。

以上を踏まえると、この法句経の経文(一八六)の文言の、
「諸々の欲望はほんの少しの楽しみと
巨大な苦しみをもたらすのだ」
は、このような内容をあらわしていると思います。

(2) 後段(一八七)について

私は不勉強なので、天上が天国を意味することは、知りませんでした。

ブッダ(お釈迦さんのこと)のお弟子さんは、肉体を持ったままで、現界、幽界、霊界、神界と自由自在に行き来できたんですかね(涅槃(ねはん)と書いてあるからにはお弟子さん達はみんな悟りを得ていることなりますが、悟りを得れば、みんなこうなるんですかね?)?

よくわからないんですけど。

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①追記: 2021/05/20 12:15
②追記: 2021/05/23 13:40
③追記: 2024/05/01 06:32
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。