おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

516_仏言葉ー050 ー まだまだ?

第 3 章 自分が何のためにいるのかわからない

50.欲望は無限に起こる

黄金や銀の山があったとしても、
またそれを二倍にしても、
それだけでは、
一人の人を満足させることはできない。
このことを知って、平らな心で行うべし。

(サンユッタ・ニカーヤ より)

これは瞑想中のお釈迦さんの心を読み取った悪魔が、王となり、統治せよ、とすすめたことに対する、お釈迦さんの答えだ。

その全容を下記に引用するが、人(お釈迦さん)の心に想う内容を読み取れるということは、
ここでの悪魔とされている存在は、
仮に人間だとすれば他心通のような普通の人が持たない特殊な能力を持つ人間であり、
人間でないとすれば、肉体レベルの粗い波動だけではなく、さらに細かい幽体レベル(想いのレベル)の波動を感知できる霊的な存在である、
と考えられる。

お釈迦さんとの話の受け答えも意志を持った存在のように普通にできているし、最後には、お釈迦さんの答えを聞いて退散、消え去ったとなっているので、やはり、これは霊的な存在と解釈するのが妥当だ。

自らの妄念だととらえるのは苦しいし、明らかに無理があり、どうみても、それなりの意志と判断能力がある存在と解釈する方が自然だからだ。

中村さんの本も、S さんの本も、佐々木さんの本もそうなのだが、神様や悪魔やこの世やあの世のことや輪廻転生をはっきりとはさせないで、曖昧模糊なままに話を進めている場合が当たり前のようにいくつもある。

やはり、これは、たとえ霊感がなくともいい加減にはせずに、それなりに詰めて、明らかにしながら書いていくべきだと思うのですよ。

たとえ、お釈迦さんが霊魂について無記の態度を取ったことがあるにしても。

第一、そのお釈迦さん自体が輪廻転生を当たり前のように話をしているところがいくつもあるではないですか。

佐々木さんは、政治の目的は人々の欲求を満たす世界の実現であり、仏教の目指すものとは違うように書いてあるが、どうも釈然としない。

佐々木さんの本には、上記の部分しか出ていないので、長くてまどろっこしい(セリフ返しの重複部分があるから)ところもあるが、中村さんの本からすべて引用する(改変あり)。

中村元ブッダ 悪魔との対話
サンユッタ・ニカーヤ Ⅱ
第 Ⅳ 篇 悪魔についての集成
第二章 第一〇節 統治 より

一 ある時尊師(*1)は、コーサラ国のうちの雪山地方において森の庵にとどまっておられた。

二 さて尊師が一人静かに瞑想しておられる時に、心にこのような考えが起こった。ー
「殺すことなく、
殺さしめることなく、
勝つことなく、
勝たしめることなく、
悲しむことなく、
悲しませることなく、
法によって統治をなすことができるであろうか?」

三 その時悪魔・悪しき者は、尊師が心に考えられたことを知り、尊師に近づいた。近づいてから、尊師にこのように言った。ー
尊いお方。
尊師は自ら統治をなさい。
幸せな方(ブッダ)は、
殺すことなく、
殺さしめることなく、
勝つことなく、
勝たしめることなく、
悲しむことなく、
悲しませることなく、
法によって統治をなさい」と。

四 「悪しき者よ。そなたは、何を見て私にこのように言うのか?ー
〈尊師は自ら統治をなさい。
幸せな方(ブッダ)は、
殺すことなく、
殺さしめることなく、
勝つことなく、
勝たしめることなく、
悲しむことなく、
悲しませることなく、
法によって統治をなさい〉」と。

五 「尊いお方!
尊師は、
四つの不思議な霊力(四神足)(*2)を有し、
大いに修し、
(軛(くびき)を結びつけられた)車のように修し、
家の礎のようにしっかりと堅固(けんご)にし、
実行し、
完全に積み重ね、
見事に成し遂げた。
尊師がもしも、山の王・雪山を黄金にしようと望み、そのように決意されるならば、山は黄金となるであろう。」

六 尊師いわく、ー
黄金や銀の山があったとしても、
またそれを二倍にしても、
それだけでは、
一人の人を満足させることはできない。
このことを知って、平らな心で行うべし。

苦しみと苦しみの起こる元を見た人は、
どうして欲情に傾くであろうか。
世間における束縛は制約であると知って、
人はそれを制し導くために修学すべし。」

七 そこで悪魔・悪しき者は、「尊師は私のことを知っておられるのだ。幸せな方は私のことを知っておられるのだ。」と気づいて、打ち萎(しお)れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。

第二章おわる

(*1)お釈迦さんのこと。

(*2)しじんそく。これは説明が面倒くさいので、神通力を起こすための四つの元くらいに考えて下さい。

佐々木さんの本にもまったく解説がないのだが、これを見ると、悪魔が「法によって統治」をとしているところのの「法」は何を指しているのか?

お釈迦さんの教えのことを指しての「法」なのか、それとも一般的な慣習の法律に相当するものなのか、がまずわからない。

当時は文字や本が普遍化されていないようだったし、結集までは教えは口伝のようだったので、慣習法とは考えにくい。

多分、お釈迦様の教え、真理、いわゆる、ダルマのことだろう。

そうすると、悪魔は、お釈迦さんに、「あなた自らがあなたの教えをもってして、国を統治しなさい」と言った訳だ。

ただこれだけならば、お釈迦さんが受けてもいいように思えるのだが、そこに仕掛けがあって(?)、悪魔が余計な一言を加えている。

貴方(お釈迦さん)ほどのすごい不思議な力を備えた人ならば、雪山をも黄金に変えることができるだろう、だから、人々に豊かな生活をもたらすことも造作もないはずだ。どうだ、やってみないか?と話を反らしているように感じるのですよ、個人的には。

このように、金目の話に反らされたことで、人々の、なかんずく、そもそも(悟りを得ていないような)人間の欲望にはキリがなく、欲望には果てしがないのだから、そんな雪山を黄金にいくら変えたところで意味がない、とお釈迦さんに切り返す余地を、悪魔がわざわざ与えているようなやり取りに見えるの、個人的には。

何だか、正面切っての、お釈迦さんと悪魔が対峙した問答には、見えないんですよ。

そんな細かいことは、いいじゃないか、スルー、スルー、が一般的なのかもしれませんけどね。

仮に、仏教ですべての人が悟りを開ければ、世の中は、明らかに安穏になり、平和になるはずです。

それは、まだ、現実的なことではない、当時としては、経済活動や一般的な生活をする人々は、悟りを得られないままでいいから、そこそこに霊性を開発して、やっていくべき人類の進歩の段階だ、と考えていたんでしょうね、お釈迦さんは。

後半にある欲情は、おそらく権勢欲や支配欲のことを指しているのだろう。悟りを得ていないような人ならば、どうしても制することができずに傾いてしまいがちな欲望だ。

肉体人間としてのこの世での苦しみは、主としてその過去世の因縁、特に悪い因縁の清算のために輪廻転生を繰り返して因縁を清算、進歩しながら、最終的な天命を果たすまで進化していくこと、そしてその肉体を持つがゆえに老いと死を免れることができないことから、避けられないものである。

そうした苦しみを避けられないものとして抱え、なおかつ、悟れてもいないような人間が、権力の座につくというのは、やはり、完全に調和した安穏な社会を実現させるには、まだまだ、到底、至らない(階層の上層部がお釈迦さんや悟りを得た直のお弟子さん達でも、その他の役割を担うたくさんの人々はそれなりの役割について力を持っても、あくまでも悟れていない段階だから)。

だから、法(ダルマ)には至らなくとも、世間的な合意事項や約束事をできるだけお互いに守り合い、お互いに自らを制しながら(自制しながら)、とりあえず、そこそこの霊性の向上も目指して、協力し合いながら、やっていきなさい。

あの後半部分にお釈迦さんが述べていたのは、こんな内容じゃないですかね?(きわめて短くてわかりにくい表現なので辟易するんだけど)

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①追記: 2021/09/14 07:30
②追記: 2021/09/14 07:43
③追記: 2021/09/14 08:00
④追記: 2021/09/14 08:22
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。