おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

380_法悟28-7-1

第1週 心の法則を知る

7 人間は自分が大好き

もし自分を愛しい者と知るならば、
自分をよく守るように。
智慧のある人は、人生の三期のうち、
一期だけでも自己を修めるものである。

(一五七) (第12章 自己 より)

また、勝手流に書きます。

自分が大好きという人が増えている。他には興味がなく、とにかく自分が大好きという現象である。

とはいえ、現代人がことさらワガママになったという訳ではない。これは生命の原理(?)であって、生命たるものはすべて、自分自身が一番好きなのだ。「私は自分のことよりも、家族のこと、あるいは、国のことを心配する」という人もいるが、これはあまり正直とは言えない。むしろ、事実からかけ離れているだろう。

何よりも生命は自分が好きだ。国を守るよりも、先に自分を守ろうとする。稀なケースには、自分の命を犠牲にして家族を守ることもないわけではないが、それは家族に物凄く執着があり、家族なしには自分が生きていけないと思っているからだ。自分の命に喜びを与えてくれて支えてくれたのは家族だから、必死に家族を守ろうとするのだ。

もう一つ、遺伝的に考えると、私達は遺伝子の奴隷と化している。つまり、私達が生きているのは、次世代に遺伝子をつなぐために頑張らされているのだ。遺伝子の言いなりになって、新たな命を必死になって守り、育てる。そうした本能、感情に縛られて、生涯を終えてしまうのだ。頭を使って考えれば(?)、何の意味もないことだ(ひどい)。

タコを見るがよい。タコは数ヶ月も絶食し、卵を守って守り抜いて、卵がふ化を始めたら、もう死んでしまうのだ。タコはその生涯に一回だけしか卵を産まない。そのタコの必死の生涯は、「大人になって一回だけ卵を産んで死ぬこと」という事実には変わりがないのである。

人はどうか。人間も親はわが子に「自分(親)の人生はどうでもいいから、君は立派な大人になれ」とか言うが、その子が大人になっても親とは変わらないのだ。自分を犠牲にして家族を守りたいというのは、真面目に考えた結果の行為ではなく、ただの感情、本能、遺伝子の奴隷になっているだけのことだ(ひどい)。

もしも(?)自分のことが大好きなら、「自分を守る」のはとても大事な仕事だ。問題は自分が好きだという人々が、実際には自分を守ろうとはしていないことだ。

特に現代人は自分のことしか考えない。しかも、「やるべきこと」ではなく「やりたいこと」ばかりをしようとする。それによって、周りに迷惑をかけても知らんぷりで、他人のことなんかどうでもいい、社会のことにも興味がないのである。

こうした生き方をしてしまうと、結局は自分が社会で生きることができなくなる。だから、ワガママに生きている人は、結局、自分を守っていないのだ。私(= S さんのこと)は、その矛盾に気づいて欲しいのだ。

(だから、皆さん、どうか)本当に自分が大好きだったら、自分を守って下さい。自分が大好きだといいながら、自分を破壊に導くのは明らかに矛盾しているからです(この部分は、S さんの口調がこんな感じに変わっている)。

仏教では、まず自分を守るために「皆に優しくせよ」と説く。「ウソをついて人を騙(だま)すなかれ」と戒めるのも、ウソをつき人を騙すと、自分が守られなくなるからだ。騙された側は、当然に恨みを持って報復に転じるだろう。「生命を殺すなかれ」というのも自分を守るためだ。生まれてから、自分が殺されることを待ち望んでいる生命などどこにもいない。だから、攻撃されれば死なないように反撃するのだ。しかし、結果的には敵を殺すことで、どんどん敵が増えるだけで、決して自分を守ることにはつながらないのだ。このようにして、仏教は、最初から自分を守る道を教えているのである。

どうすれば、自分が安全に生きられるか、社会から攻撃を受けないで済むか、自然から攻撃を受けないで済むのか・・・。私達はこれらをよく考えるべきだ。そして、死んでからも不幸にならないように(?)、より良いところに生まれ変わるように、計画的に生きなければならないのである。

世の中には、「人は死んだら神や仏になる」という考えがある。仏教徒の立場から言えば邪見(じゃけん)だ。それ自体が自己破壊的な考え方だからだ。死んだ人が、神や仏になるというなら、この世でどんな生き方をしてもいいことになる。これは仏教の教えに矛盾する。それに、私達がただ死ぬだけで神や仏になり、人々に拝(おが)まれるのであれば、なるべく早く神や仏になった方がいいだろう。しかし、これでは早く死ねばいいというおかしな話になってしまう。そうした何気ない思考の中にも、人類を破滅させるような概念が入っているのだ。

世の中のあらゆる事は、私達一人一人の勝手な都合に合わせて動いてはいない。すべては(因縁)因果の法則に従って動いている。何事も必ず原因があり、結果があるのだ。

真面目に勉強すれば頭がよくなるし(?)、真面目に仕事をすれば収入を得られる。逆に、仕事もせずにパチンコばかりしていれば、瞬(またた)く間に金はなくなる。さらに借金までしてパチンコにのめり込めば、どうにもならなくなり、ひどい目に遭(あ)う。

また、体と心は、それぞれが別々に因果の法則に従うので(??)、自分の好物だからといって好きなものばかり食べていれば、たちまち健康を害してしまう。だから、自分のワガママで生きることはダメなのだ。ワガママばかりしていると、自己破壊を招くのである。

「世の中は因果の法則に従って常に変化している」と理解している人は、きちんと自分を守って生きていける。それ故に、ブッダは「自分を守ることは正しい。なぜならば、誰もが自分のことが大好きだからである」と言われるのだ。これは真理です(?)。

自分がいるから他人の存在に気づく、自分の目があるから世の中が見える、自分に耳があるから人々の声も聞こえる・・・。結局は、自分の存在があるからこそ、他人の存在も気になるのだ。自分の命が他の存在と絡み合って成り立っていることがわかれば、平和主義を堅持し調和を守っていくことができる。他人を騙すことも殺すこともやめて、常に思いやりを持って世界の平和を守って生きていく。それこそが自分を守る唯一の道なのである。

それでも過ちを犯したらどうすればよいか。「若い頃に愚かな生き方で失敗したなら、もうすんだことは忘れよ。中年の時にしっかりせよ。中年でもろくでもなかったら、老年の時にしっかりして、自分を守れ」とブッダは説いている。

だから仏教では「過去の過ち」「若気の至りによる悪さ」を悔やむことさえ認めない。「若い時に勉強しなかったから、今は・・・」といったことも認めない。

今さら取り返しのつかないことを考えても仕方がないからだ。これからどうするのか、を考えるのが何よりも大切だ。それこそが、自分を守る方法なのである。

人生を大別すると、青年、中年、老年という三つの時期がある。そのいずれかで、私達がしっかりと道を定めればいい。そうすれば、その後の人生はしっかりする。もちろん、道を定めるのは、早いに越したことはないが、後悔したり、あきらめたりせずに、気づいた時から始めることが大切なのだ。

とのこと。

次回、また、感想を書きます。

ただ、仏教の一般的な見解や S さんのお考えだけがわかればよい、という方は、次回は飛ばして下さい。

かなりウダウダと文句をつけることになってしまうので。

以上、よろしくお願い致します。

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①追記: 2021/05/21 03:57
②追記: 2021/05/23 13:38
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。