おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

258_原仏16ー4

前回 ( 257_原仏16ー3 - おぶなより ) の続きです。

人生の指針 第一部 人生の指針 の 第五章 ジャータカ物語 です。

二 ジャータカ物語

ー シビ王本生譚 ー

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
また、ここでも、本の小見出しに従って、見ていく形にしたいと思います。

二 ジャータカ物語

ー シビ王本生譚 ー

(B) 話に入る前に、また、前置きです。

ジャータカ物語とは、要するに、一般の人が仏教に入りやすくするために、お釈迦さんの権威を増して、親しみを持たせやすくするように、古来からインド各地などに伝承されてきた説話やおとぎ話なども混ぜ合わせながら、自然発生的に出来上がったお釈迦様さんの話、それもお釈迦さんの生成の背景となる、数多(あまた)の過去世の物語、と言うことができるでしょうね。

それにしては、輪廻転生を当然の前提としているのだし、霊魂がなければ輪廻転生もないでしょうよ。

お釈迦さんが輪廻転生の主体となる霊魂を「無記」としたことはどうするんだ、どう説明をつけるんだ、ちゃんと辻褄合わせをしろ、整合性をとれ、と素人的には突っ込みたくはなるのだが・・・。

まあ、堅苦しいこと、小うるさいことは言うな、なしにしろ、と仏教関係者、お釈迦さんの信奉者の人々は考えているんだから、いいんでしょうよ。

仕方ないですね。

とにかく。

まあ、要するに、肉体人間には、霊魂があり(これが神様の分けられたお命であり、これこそが本体、真の人間であり)、(正確にはそのまとったたくさんの想いを)輪廻転生の(上がりまで))繰り返す。

そして、
善業、すなわち、真善美に悖らない想いと行為には、(原則として)来世以降に、幸福とされる各種の良い報いが、
悪業、すなわち、真善美と愛に悖る想いと行為には、(原則として)来世以降に病気・争い・貧乏・苦労という悪い報いが、
それぞれに、あらわれてくる、
という考え方がその基本におかれている訳です。

で、尸毘王の話なんですが、中村さんの話は、申し訳ありませんが、冗長で、長々しいんだよね。

おまけに、形式的にも、句読点も段落も区切りも少なく、字面がズラズラズラーと延々と長く続いているので、他の本(入澤崇著 ジャータカ物語)の方がはるかに超簡潔でわかりやすい(だたし、身を捧げる対象が盲目の老人になっており、自らの両目を差し出す話になっている。だた、自らの身を犠牲として捧げる形の本質は同じ。鷹の話も盲目の老人の話も、あまりにも酷(ひど)い話なので、にわかには信じがたい話ではあるのだが。なお、時代はだいぶ下る(千年以上)けど、日本に明恵(みょうえ)というお坊さんがいました。この人は世俗と離れて如来様に近づくためと、自らの右耳を切断しています。なので、仏教の道を志す人には、こういったことをする人もいたのかもしれません)。もし、興味のある方はこちらをご覧になって下さい。

さて、「いつまでじらすんだ、いい加減にしろ」と怒られそうなので、本題に入ります。

(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様。なお、私の判断でかなり内容を脚色して簡略化した上に、私の言い回しに改変したところが多々ありますが、ご了承下さい)昔、尸毘王(しびおう)という王様がありました。

彼は人々を救う菩薩として生きようと誓いを立てていました。

それを知った帝釈天は、疑ったのか(?)、これを試そうとした(もの凄く偉い神様ならば、肉体人間の心を読み取るなど、造作もないこと、お手のもののはずなんだけどな。納得できねえな・・・。まあ、いっか)。

帝釈天は、鷹に身を変え、その餌となる鳩を追いかけて、尸毘王のところに来ます。

で、鳩をかくまった尸毘王に、鷹(上記のように鷹に変身した帝釈天のこと。以下、仮に鷹をすべて帝釈天と表記する)は、それは自分の餌だ、よこせ、と詰め寄るのです。

これに対して、尸毘王はこう言います。

私はかねがね一切もろびとのために尽くそう、一切衆生のために尽くそう、と誓いを立て、仏道修行にはげんでいる。悟りを開くまでこの道を進むからには、自分の懐(ふところ)に飛び込んできた者には、いたわりの心をさしのべる。だから、引き渡すことはできないのだ、と。

帝釈天は、そうか、それなら餌をいわばあなたに奪われた私は、あなたのいう一切衆生には入らないのか?そんなことないだろう、と揚げ足を取ります。

そこで、尸毘王は、ならば、代わりにあなた(鷹に身を変えている帝釈天)の望みを満たそうと言いました。

すると、帝釈天は、猛禽類らしく(?)、殺したての熱い肉が欲しいと、残虐(ざんぎゃく)なことを言い出します。

すると、尸毘王は、私は久しからず朽(く)ち果てる老いた身だ、だから、この私の肉をそなたに与えよう、と自らの体の肉を切り、帝釈天に差し出した。

ところが、帝釈天の方は、自分の餌の鳩と同じ重さには足りない、もっとよこせ、と無理難題をふっかけます。

そこで、尸毘王は、帝釈天の要望を受け入れ、自分の両股をはじめとして、体のあちこちを切り、はかりにかけて帝釈天に差し出したのです。

すると、王様の家来はあまりのむごさに見るに忍びない、幕を張ってこの光景を隠したいと言いました。しかし、王様はこれを聞き入れず、次のように説いたとされます。

「天人も、人間も、阿修羅も、一切来たってわれを見るがよい。
大きな心、無上の志をもって仏道成就しようと求めたのである。
もし仏道を求めるものならば、まさにこの大いなる苦しみを忍ぶべきである。」

そして、王様は血だらけになって力尽きてくるのですが、なおも自分を責めて次のように言いました。

「汝(なんじ)はみずから堅固にすべきである。迷い、もだえてはならない。
一切衆生は憂(うれ)い、苦しみの大海に落ち込んでいる。
汝(なんじ)ひとりだけが誓いを立てて一切を救おうと欲している。
何をもってか怠り、もだえるのであるか。
この苦しみははなはだ少ないものである。
地獄の苦しみは多い。
この苦しみはそれに比べれば十六分の一にもなお及ばない。
私はいま智慧、精進、持戒、禅定をそなえながらも、しかもこの苦しみを患(わずら)っている。
ましてや地獄に落ちた智慧のない人の苦しみはなおさらである。」

そこで帝釈天は王様に向かって、
「あなたはそれほどの苦しみに悩んだりはしなかったのか」

と聞くと、これに対して王様は、
「私の心は歓喜しており、悩まず、欲しません。
滅入ることはありません」
と言ったのです。

その時、菩薩である王様は誓願を立てました。
「私は肉を割(さ)き、血を流しても、怒らず、悩みませんでした。
一心にもだえずして、もって仏道を求めました。
この私のことばが真実であるならば、私の体はもとのごとくになるでしょう」
このことばを発すると、王様の切り刻まれた傷のある体は、また元通りに治りました。

以上が話の筋ですが、ここにはインド的な特徴を二つ見いだすことができると思います。

一つは、真実の言葉は不思議な力があるという、インドで昔から宗教的に信じられていた言葉です。

真実をありのままに正直に語ることも、真心をもって語ることも、不思議な力がある。だから、傷も治ると考えていたのです。

今一つは、話の結びが非常に明るいことです。インドの物語でも戯曲でも、途中でハラハラするような場目があり、悲惨なこともあるのですが、最後はみなハッピーエンドなのです。

インド人は、人間を考える時に、最初はかなり悲観的な感じを持っている。しかし、苦難の彼方(かなた)には理想たる境地がある。それは、楽しく明るいものだ、と信じていたのです。

その二つの特徴がここにも出ている訳です。これが仏教にも取り入れられたのですが、ただ仏教自体は、それまでにあったインドにある普通の物語とは異なり、人々に奉仕する、利する、いわば、利他の奉仕的で犠牲的な精神が非常にはっきりと打ち出されているのです。

現代ならは、体の一部を切り取り、動物や人様に与えるなどということは、明らかにナンセンス(無意味)であり、有害なことであります。

だから・・・。

これは象徴的に理解すべきです。

わが一身を顧(かえり)みず、身命を賭(と)して、世のため、人のために活動している方もいると思います。

こうした方は、先の奉仕的で犠牲的な精神を生かしている方々だと思うのです。
なお、興味深いことには、シェイクスピアヴェニスの商人の一場面を連想しますが、同じ重さの肉を切り取るという、同一的な場面でありながら、その教唆が非常に違うことを感じる訳です。ジャータカの方が、宗教的です。

(B) まだ、別の話がちょっとあるのですが、長くなりましたので、ここで区切らせて頂きます。ご了承願います。

~~~~~

・数多~あまた~数多く。たくさん。
(用例)あまたの名所。

・信奉~しんぽう~(ある教えや主義などを)かたく信じて従うこと。

・冗長~じょうちょう~文章や話などがくどくどと長いこと。また、そのさま。
(用例)冗長に流れる。冗長な説明。

・字面~じづら~①文字の形や並び具合。また、それから受ける感じ。
②書かれた文章の表面的な意味。
ここでは、①の意。

仏道~ぶつどう~仏教語~仏の説いた道。仏教。また、仏果。

・菩薩~ぼさつ~仏教語~①仏に次ぐ位の者。仏陀(ぶっだ)になるために修行する者。また、仏陀になる資格がありながら現世にとどまって衆生の救済に尽くす者。
②昔、朝廷から高徳の僧に与えられた称号。
(用例)行基菩薩。
③(本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ) )で仏教になぞらえた神の呼び名。
(用例)八幡大菩薩
(語源)梵語(ぼんご)の菩提薩捶(ぼだいさった)(=悟りを求める人)の略。

梵語~ぼんご~サンスクリット語の中国・日本での呼び名。

サンスクリット~古代インドの文章語。梵語

・猛禽~もうきん~性質の荒々しい肉食の鳥。鋭い嘴(くちばし)と爪を持ち、小動物などを捕食する。ワシ・タカ・フクロウなど。猛鳥。
(用例)猛禽類

・残虐~ざんぎゃく~人や生き物に対して、むごく乱暴の限りをつくすさま。
(用例)残虐な行為。

・朽ちる~くちる~①木などが腐って役に立たなくなる。
②勢いが衰える。名声がすたる。
(用例)朽ちることのない名声。
③世に知られないまま死ぬ。
(用例)異郷で朽ちる。
ここでは、②の意。

誓願~せいがん~神仏に誓いを立て祈願すること。願掛け。
(仏教語の場合)仏・菩薩がすべての生き物の苦しみを救おうとして立てた誓い。
(用例)弥陀(みだ)の誓願

・弥陀~みだ~阿弥陀の略。

阿弥陀~あみだ~①仏教語~西方の極楽浄土にいるという教主。阿弥陀仏阿弥陀如来。弥陀。無量光仏。
②あみだかぶりの略。
③あみだくじの略。
ここでは、①の意。

・あみだかぶり~(阿弥陀仏が光背
(こうはい)を背負った形から)帽子を後ろに傾けてかぶること。

・あみだくじ~(阿弥陀仏の光背のように、放射状に線を引いたことから)人数分引いた線の一端に金額を書いて隠し、各自が引き当てた金額を出し合ってともに飲食などをするくじ。
現在は、縦線を人数分引き、それに横線を加え、各自がそれをたどっていって、隠された当たりやはずれを引くくじ。

・戯曲~ぎきょく~演劇の脚本・台本。また、その形式で書かれた文芸作品。ドラマ。

・ハッピーエンド~映画・小説などで、万事がうまくめでたい形で終わること。幸福な結末。

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①追記: 2021/01/30 10:18
②追記: 2021/01/30 12:12
③追記: 2024/04/21 03:26
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。