おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

386_法悟28-10-1

第 2 週 人生苦と向き合う

3 あなたの友人は賢者か愚者か

愚か者とともに歩む道は、
長い間憂い悲しむ。
愚か者達とつるむのは、
仇敵と一緒にいるように苦しい。
智慧ある人とともにいることは、
親戚とともにいるような安らぎである。

(二〇七) (第15章 幸せ より)

※※※※※ お断り ※※※※※

すみませんが、私の操作ミスにより、以前このブログに出していた 386_法悟28-10-1 の全文を消去・消失してしまいました。

以前書いた内容が思い出せないので、書き直しになります(大体は同じになると思うんですけど)。

大変失礼致しました。

ご容赦のほど、よろしくお願い申し上げます。

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また、適当にいきます。

友人作りは若い人がよくやることだ。友達とは自分とどこかで気持ちが通じ合っている人を意味する。気持ちが通じ合えば、一緒にいても話しても楽しいだろう。

友人関係は、自分の人生に大きな影響を及ぼす。自分の人間形成が友人によって左右されるのだ。

自分の人生も友人関係によって決まる。これは生命としてどうしても避けられない(?)。私は独立して、誰の影響も受けないということは心理学的にも成り立たない(?)。

私達の心は単独では機能しないからだ。周囲のあらゆる(情報を含めた)環境で、自らの心は変化する。

だからこそ、心を取り巻く環境を整えることは重要なのだ。つまり、「誰と仲良くすべきか」を、人生最大の関心事として真剣に考えた方がいいのだ。ブッダ(お釈迦さんのこと)の教えは皆さんの友人選びにとても役立つと思う(と S さんは言っている)。

ブッダによれば、愚か者を友人にしたら人生は失敗なのだ。ここで言う、愚か者とは、頭が悪い、道徳がない、罪を犯す、判断能力がない人々のことだ。

もし、そうした人達が友達ならば人生は最悪だ(ひどい)。次々に問題が生じてしまう。しかも、自分はそこから逃れられずに、悪循環の渦(うず)に陥る。話も彼らに合わせなければならない。もし自分が勉強ができ、物事の理解能力があっても、それをないことにして、切り捨てないと仲間に入れない。だから、悪い仲間と付き合うと人格がどんどんダメになってしまうのである。その人は、大変苦しみ、長い間悩む羽目になるのだ。

気が合う、嗜好や趣味、クラスのような基準で愚か者と付き合ってしまうと、人生をまるごと捨てる羽目にもなりかねない(ひどい)。

ならば、失敗しないためにはどうすればよいのか。ブッダの答えはこうだ。「自分よりも性格が素晴らしく、智慧があり、理解能力があり、道徳を守り、自分よりも優れている者を友達とせよ」と。要するに、自分よりも優れた人々の輪の中に入り込んで生活すればよい。そうすることで、自分の人格は簡単に向上してしまう(?)。

しかし、その仲間に入るためには、「ねえ、仲間に入れてよ」のように簡単にはいかない。同じブランドの服を着たり、化粧を真似たり、同じ遊びをしても、人格者と友達になることはできない。もし、入るならば、性格のだらしない(?)自分の方からお願いして、仲間に入れてもらう必要がある。

人格ができた人々には、自分は未熟で迷惑な存在にしかならないから、こちらから頭を下げて、遠慮がちに裏口から入らなければならない(?)のである。

人格者達は、友達がほしいと探し回ってはいないし、自分を信じる信者が欲しいと仲間を勧誘している訳ではない。従って、仲間に入るためには、こちらから身を低くして入り込まなければならないのだ。

そうすれば、環境の力によって、たちまち立派な人間に育つ(?)。「こいつは本気なのか、冷やかしなのか」とちょっとした試練を与えられることになるかもしれない。そして、「そう簡単にはめげないな。こいつは本気だな」とわかれば、放っておいてくれるのだ。それだけで十分だ。人格者の中にいればそれだけで成長できるからだ。

そこで、ブッダ智慧のある人と一緒にいることは自分の家にいるようなもの、自分の親戚と一緒にいるようなもので、気楽で楽しい、としているのだ。

ならば、人格者のグループが周囲にいない場合にはどうすればいいのか。ブッダは別の経典で、「どうしても仲間がいなければ、一人でいて下さい」と答えている。「尊敬する友がいなければ、一人でいるしかないのだ」と。

その場合には、友人関係で成長することはできないけれども、その代わりに堕落することもない。しかし、不安に思う必要はないのだ。

ブッダこそが最高の善友です」「私がいなくても、私の説いた法があなたの指導者になる」とブッダは言うのだから。私達を導くために常に偉大なる善友(ブッダ)はそばにいてくれるのである。

仏教では、「友人関係や、人間関係は最大限気をつけるべきだ」と説く。普通は「気に入ったから友達になりたい」と思いがちだが、「その衝動に従うことはやめよ」とブッダは言っている。だから、いい友人を見つけるためには、好き嫌いの基準をなくすことが必要なのだ。好き嫌いという感情には、生き方の幅を狭(せば)める働きがあるからだ。

日本では、会社内の狭い人間関係にしがみついたり、学校のクラスメイトをいつまでも大事にする例がよく見られる。これも人間としての能力開発を妨げる大きな要因の一つ。馴れ合いになり、自らの世界を狭めてしまうからだ。

学校や職場の人間関係を否定している訳ではない。一緒に勉強をしたり、仕事をしたり、生活をしたりすると、兄弟のような親密な関係ができあがる。

しかし、自らの人格を向上させたい、人生を成功させたい、負けたくない(?)、と願うならば、自分が仰(あお)ぎ見るような人格者のグループと仲良くするための努力をするべきだ。

そのためには、馴れ合いの人間関係を超えていく勇気を持たなければならないのだ。

面白いことに、自分よりも性格や人格が優れている相手は、大抵、自分が気に入らない面々だ(?)。決まって第一印象は「大嫌い」という連中なのだ(?)。だから、相手との間にどうしても、ハンディというか、壁を感じるだろうと思う。

しかし、こちらがプライドを捨てて近づいて行けば、そうした人ほど、「じゃあ、これはこうすればいいよ」と物事を的確に教えてくれるものなのだ。

とのこと。