おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

387_法悟28-10-2

第 2 週 人生苦と向き合う

3 あなたの友人は賢者か愚者か

愚か者とともに歩む道は、
長い間憂い悲しむ。
愚か者達とつるむのは、
仇敵と一緒にいるように苦しい。
智慧ある人とともにいることは、
親戚とともにいるような安らぎである。

(二〇七) (第15章 幸せ より)

また、独断と偏見を書きます。

この経文は、個人の心(以下、想いとする)には、周辺の環境が多大な影響を及ぼし、大事だから、友人を厳選せよ、ってことですね。

しかし、384_法悟28-9-1 の内容にしろ、386_法悟28-10-1 の内容にしろ、教訓として言うのはわかるけど、ダメな場合は、ただただ、突き放すだけで、救いはまったくないんですか?

個人的には、そんな風に読めるんですけど。

これらの経文が書かれた 2,500 年位前であろう、かなり昔のことはわかりませんが、人生としての時期を逸したとされる場合や、愚か者とされる人達に関して、その人達に関する建て直しや、以降のあり方に関する言及がまったくなされていません。

ただ、これは好ましくない、避けよ、という好ましからざる例示という意味づけくらいで、あとは一切触れなくてもいいんですか。

ほったらかしなんですか?

それとも、専用の経典があるのでしょうか?

よくわかりませんが。

当時の霊性に関する位置付けがどうだったのかはわかりませんが、悟りを開く、得るように修行するということは、肉体人間には神性(仏教なら仏性)が必ずあることを前提としているはずです。

神性があるからこそ、肉体人間として、あまたの過去世からの真善美に悖る想いや行いの業想念を、祓(はら)い、浄めて、あるいは、受けるべき避けられない因果は受けることによって解消して、肉体を持ちながらも、元の神様の分け命としての神性による想いと行いができるような人間になっていくように、祈りなども含めて修行をしていくはずですよ。

だから、どんな人でも、肉体人間としてこの世に生を受けるということは、遅かれ早かれ、病争貧苦の過去世の業想念の償いや、祈りなどの信仰によって、神様の分け命としての本来の姿をあらわすための修行を続けて、輪廻転生を上がることに向けて、努力していくことを(神様から)期待されているはずです。

同時に地球さんを開発することで、神様の世界をこの三次元のこの世に映し出すことも並行して。

だから、最終的には、誰しもが救われなければならない。肉体人間として救われる素地の神性があるのだから。

そのように考える場合に、特に、あるべきでない、好ましくないとされる人々を、どのようにとらえているのかが、これらの経文(一五五、一五六、二〇七)からは、まったく伝わってきません。

むしろ、唯物論全盛の現代人からすれば、アイツがダメだ、コイツがダメだ、と業想念を抱かせかねない危惧があるような気がするんですけどね。

もちろん、反面教師として、注意すべき事例として挙げるだけなら、大丈夫だとは思うんですけど。

あと一つ、揚げ足とりになりますけど。

愚か者とつるむのはよせったって、因縁がありますよ。

自分が何も望みもしないのに会いたくない人に会い、害されたくもないような人間に害され、といった避けられないもの(過去世の因縁)があるんです。

自分のこの世の意志ではどうにもできない成り行き、宿命といったものがあるんです。

その場合にはどうすればいいんですか?

その答えがここにはまったく書かれていません。

世の中には、不思議な腐れ縁みたいなこともたくさんあるんですよ。

それに、智慧ある人といることは、親戚といるような安らぎがあるっても、例外がありますよ。

親子、兄弟姉妹、夫婦、親戚でも、必ずしも仲良く安らぎがあるものばかりとは限りません。

むしろ、これらの避けられないような縁で結ばれることによって、過去世の業想念の償いをする羽目になる場合が、多々あるくらいだからです。

従って、親戚だから、即、安らげるというのは、ちょっと丁寧さが足りないような気がします。

また、S さんの言う、「面白いことに、自分よりも性格や人格が優れている相手は、大抵、自分が気に入らない面々で、決まって第一印象は「大嫌い」という連中だ」というのもわからない。

悟りを得た人やかなりの人格者ならば、そんな違和感を覚えるとは到底思えないので。

後に出てくるが(第 2 週 人生苦と向き合う の 5 100 %純粋な人 )、ブッダ(お釈迦さんのこと)を完全無欠と激賞した話が出てきます。この話からしても、この内容は辻褄(つじつま)が合わない気がするんですけど。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①追記: 2021/05/26 06:39
②追記: 2021/05/26 19:55
〜訂正内容~

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。